序章1/ 進路ねえ
「進路ねえ」
渡された進路希望の用紙を見ながら、ふうと溜息を吐いた。
高校三年生になり幾月が経ち、GW前日の今日渡されたものだ。GW明けに提出しろと言われたが、困った事に希望が全く思い浮かばない。
とりあえず、道場に行くついでに静流にでも相談すっかねえ。
そもそも、今の高校に決定したのも偏に兄貴から逃げたくなかったの一点につきた。
何しろ一つ違いの俺の兄貴はそりゃもう完璧。欠点が無い事が欠点と呼ばれる位には完璧である。ルックス良し、頭脳良し、運動神経良し、人当たりも良くカリスマとも取れるリーダーシップもある。伊達に高校サッカー日本一の栄光を我が校にもたらした訳じゃない。
そんな超人兄貴と一歳違いで比較されてきた俺は、反骨心から同じ学校を選んだ。まあ、結果はずたぼろでしたけどね。ともかく、そんな兄貴は今やプロサッカー選手として遠い異国の地へ行き、俺のちっぽけな張り合いはここまで。終着点ですよと。
「まあ、いいけどね」
よくないけどね。兄貴が居ない今、適当な大学に行くのもそれはそれで嫌だし。就職しようにも、この就職難に進学校のうちに募集はあんのかという状態。なら、いっそのこと唯一の取り柄である格闘術で、ミドル級のプロでも目指せとういうのか。………何かしっくり来ないな。モラトリアムに悩んでいる暇はもうあまりないのだが、本当どうすっかねえ。
そんな風に、あれこれ考えている内に道場に着いた。眼前には見慣れた「冨田六合流」の古ぼけた看板。どれくらい古いかというと、文字がほぼ消えて読めない位にはぼろい。正直、知らなければ、ただの古臭くちょっと広い日本家屋にしか見えやしない。というか、門下生は俺一人だし。それこそ今更だ。
「静流ー。来たぞー」
勝手知ったるなんとやら、貰ってる合鍵で門を開け邸内に入る。
声を出しても返って来ないという事は出かけているのか。俺の師匠である静流は名前からすると女性っぽいが、れっきとした男である。何でも、静流の様に穏やかにという願いを込めた名前らしいが、残念。こんな風に弟子の修行時間をすっぽかす適当な男に育ちました。
ともかく、何時も通り道着に着替え、棚に置いてある鎧通しを後ろ帯に差す。この鎧通しは30㎝未満の短刀の一種で、何でも組み打ちになった際に、相手の鎧の隙間から刺突する為の武器らしい。なんで、他の刀類に比べやたらと刀身が厚く全体的にごつい。一応、冨田六合流は徒手の流派だが、小太刀術の流を組んでいる為に鎧通しをこうして装着するのが決まりだ。困った事に真剣だから持ち歩けないけどね!
ともかく、お気に入りの場所へ移動する。その際に学生鞄も持って行く。進路希望もそうだが、こちとら学生。テストは怖いものである。さて、俺のお気に入りの場所というのは、静流邸の庭にある一本の桜の木の根元だ。今はもう葉桜に近いが、根元から空を見上げるのは最高に気持ちいい。静流にのされた後は、よくここで目を覚ました。桜から覗く青空が何時も俺を慰めてくれたのを覚えている。多分今日もそうなるだろう。
俺のベストポジションであり、スタート地点でゴール地点でもある。正にマイポジションというのに相応しい聖域。腕時計を見ると時刻は13時00分丁度。春眠暁を覚えずという言葉もあるし、流石に寝はしないがあの鬼こと静流が来るまで、このマイポジションでゆっくりしていよう。静流が来たら、そんな事言ってられないのだから。
ふと、意識が浮上する。
どうも、気付かぬ内に寝ていたらしい。流石はべスポジその催眠作用はおそろしいものがある。しかし、静流が帰って来る前で本当に良かった。じゃなかったら、今頃奇襲を受けているに違いない。そんな風に寝ぼけ眼をしぱしぱしていると、猛烈な違和感に襲われた。眼前に広がる光景がおかしいのだ。
俺は確かに静流邸の庭で寝ていた筈。なのに、何で、目の前には森林が広がっているのか。眼前には見える限りの木々が乱立し、とてもじゃないが日本家屋の庭先には見えない。というか、見えたらそれはもはや病気確定だろう。だから、これは異常事態。おかしいとしか言いようがない。間違いとしかいいようがない。というか、夢というほかない。
………なんて、言うと思ったか!!
「静流の馬鹿野郎」
困ったことに、既に静流から奇襲をくらっていたようである。知らぬ間に気絶させられ、気付いたら見知らぬ土地でおはようというのは左程驚く事では無い。実際、今までに何回か静流の手によって行われている。最初はそれこそ恥ずかしい位に泣き喚いたが、段々慣れた。と、いうかその黒歴史な姿は盗撮され、後でその無様な姿を無理やり見せられるのだ。そりゃあ、慣れる。
だから、これは何時もの少しずれた日常の延長線上。変な師匠を持った弟子の苦労話。今回もそんなとこだろう。逆に驚けない。と言う訳で、とりあえず現状確認して、とっとと抜け出そうと思う。
けれど、俺は全く気付いていなかった。何時だって当たり前だった現実が、突然、当然の様に消え去るという事を。自分が知ってる世界なんて容易く壊れるという事を。そんな、至極当たり前の事を忘れていた。そう、俺は全く気付いていなかったんだ。たった今、自分の世界が余りにも大幅にずれた事に、それは修正不可能と言える位大きなずれだと、気付けなかった。