第1話 砂の晩餐
スープは、砂の味がした。
鉄鉱の街クレーメンの安宿。木の匙で掬った澄ましスープの表面には、羊脂の玉が三つ浮いていた。あたたかい。湯気に、乾いた麦と根菜の匂いがある。——匂いは、わかる。匂いは、いまでもわかるのだ。ただ、口に含んだ瞬間、それは砂に変わる。舌の上で、湯気ごと崩れて、乾いた粒になって喉の奥へ落ちていく。
リリアナは、それでも三口飲んだ。 三口が、この街に着いてから三日ぶりの食事だった。栄養にはならない。ただ、人間の真似事だった。
窓の外で、蒸気機関の吐息が長く尾を引いた。夜行の魔導列車が、駅に入るところだ。汽笛。石畳を歩く靴音。娼婦を呼ぶ男の低い笑い声。——血の匂い。
どこかで、誰かが指を切った。それだけの、些細な傷。けれど、鼻の奥の粘膜が、獣のように震える。頸の左側、二百年ほど前から消えない古い牙痕が、じくり、と疼いた。
匙を、そっと置いた。金属が陶器に触れる、乾いた音。 我慢しろ。 我慢しろ。まだ、三日目だ。あの人は、七日は保った。あの人は、と考えて、リリアナは自嘲した。 ——あの人を基準にして、なにを、生きようとしている。
銀灰の男は、暖炉の傍で葡萄酒を舐めていた。ノエル。呪詛の腕を、あえて袖から出して晒している。左の前腕の内側、青白く発光する紋様が、リリアナの飢餓に応じて、緩やかに脈打っていた。
「三日だな」 「……ええ」 「四日目からは、俺の指を貸す。前と同じだ」 「——できるだけ、五日まで」 「粘るな」 「粘りたいの」
ノエルは、鼻で嗤った。嘲りではなく、疲労の混じった苦笑だった。義眼のない右の眼窩が、灯りを吸って、洞のように黒い。
「粘って、なにが残る」 「……人間らしさが」 「不死の身で?」 「不死の身でもよ」
窓硝子に、リリアナ自身の顔が映っていた。十七歳のまま止まった、蝋人形のような肌。三百二十八年。父が靴を縫っていた革のにおいを、まだ覚えている。あの匂いを覚えているうちは、まだ、人間だ。そう決めている。決めなければ、崩れる。
——リリー。
耳の奥で、鈴が鳴った。
あの人の声だった。三百年、リリアナだけをそう呼んだ、絹の声。リリー、こちらへおいで。今日の花は、なかなかに、よく咲いてよ。
地下の広間。天井から吊るされた鎖。裸で震える、選ばれた娘たち。あの人は、桜色の唇の端をわずかに持ち上げて、そのうちの一人の首筋に、白い牙を沈める。——そして、失敗する。娘の眼球から、爪の隙間から、毛穴のひとつひとつから、赤い霧が噴き出す。娘は、なにが起きたか理解する前に、赤い彫像になって崩れ落ちる。あの人は、それを見て、鈴を転がすように嗤う。
まあ、綺麗。ねえ、リリー、綺麗ねえ。
——嫌だ、と、あの頃のリリアナは、思えなかった。
思えなかった、のだ。
なぜなら、その"素材"の中から、逃がすべき一人を選ぶのは、いつだって、リリアナの役目だったから。逃がした一人ぶんの罪悪感で、選ばなかった残り全員のことを、忘れることができたから。
——共犯だ。 ——ずっと、共犯だった。
匙が、床に落ちた。 いつの間にか、握り潰していた。木片が、指の間で乾いた音を立てた。ノエルが、こちらを見ずに、袖をまくった。
「クレーメンだ、ここは」 「ええ」 「お前が、素材を選別した街のひとつだ」 「……ええ」 「明日は、鐘楼の下の孤児院に行くぞ。院長が、七十二歳になっている。——お前が、逃がした娘だ」
リリアナは、答えなかった。
答えられなかった。
窓の外で、夜行列車が長く鳴いた。煤の混じった雪が、硝子に触れて、ひとひらずつ融けていった。融けた雫は、ゆっくりと硝子を伝って、まるで血の涙のように、下へ、下へ、落ちていった。
スープは、まだ、砂の味のままだった。
——それでも、リリアナは、もう一口、飲んだ。
人間の、真似事を、した。




