何にもまして
他者が気になると、その話ばかりしている。
終わりがない、だれでもないもっとも嫌われるタイミングで何かをする。
頭の中での話では、いわいる寝ている時間や連想する時間が長くなると、他者に対しての評価ばかりが飛び交っている、他者にそれだけの愛着があるわけではない、むしろ他者に無頓着であるがゆえに嫌悪が浮かぶと言える。
どういった嫌悪なのか? 不正や不実ばかりを見ていて、実は他者に対しての感慨は持っていない、しかもその不正や不実というのは言語化がうまくできるものではなく、いわいる欺瞞や自己正当化のために作った相手に対する一種の幻想の不実や不正である、何もしなくていいために紡いだ言葉の連続ともいえる、嫌いなものというのは多い、僕は小説や物語や本が嫌いだ。
理由は簡単だ本はいつだって物語を長く語るが、その本は手放さなければならないほどの精度しか保てないからだ、誰かの自己満足の指標として本があるといっても過言ではない、けれど、それは一時代の断片とされるし、本というものに正確でなければ本を取り扱えないともされる。
本は万人のツールだともいわれる、けれど僕は本が嫌いだ、理由は色々あった気がするが、玩具で遊んでいても、本の通りに玩具を動かして面白くなった試しがなかったからかもしれない、本当なら玩具で遊んで楽しい劇であったら本の通りに動いていて、玩具は楽しく物語を紡げたかもしれない、けれど、玩具にとってはいわいる本の物語は存在しない、それは個別に持ちうる玩具のバリエーションが個人で違っているからだ、この話はあまり意味をなさないのでこれで終わるが、要するに個人の環境を定義できないから、自分の世界を開陳することで本は個別の価値観を保護しようとするが、僕は本自体が嫌いだ、と何度も言うしかない、だから小説を読むことも無いのだ。




