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八話 孤独

あの襲撃のあと、ウィルヘルムがアイリスのもとを訪れることはなかった。

形式的な花束と手紙が届いただけである。


アイリスの傷は王宮の優秀な医師が宛てがわれたため治りも早く、腹の傷も残らないとのことだった。

しかしエリークは、ウィルヘルムが公爵家まで見舞いに来ないことに憤慨した。

「自分との外出が原因で傷ついたってのに!」と、今にも王宮に殴り込みに行きそうだったが、アイリスがこれを止めた。


建前上の理由もあったが、単純に感情の面で、ウィルヘルムに会いたくなかった。

襲撃の衝撃と痛み、そして腹に走った熱のせいで、事件前後の記憶は曖昧だった。意識が混濁するなか、王宮で治療を受けていたときに、ウィルヘルムが佇んでいた気がする。

何か――倒れる直前、ウィルヘルムが怒っていて、自分は取り乱した。そのとき、何か大きな失敗をしている気がする。ウィルヘルムが来ないことが、それの証左のようだった。


何をやりとりしたのか確かめたい。

しかし、これ以上ウィルヘルムに会って心を掻き乱されたくもない。

アイリスは重ねた手の甲を、柔らかく引っ掻くように爪を立てた。


「……最近は特に公務が溜まっていて、ジークフリート殿下と共に目指した新法の制定も大詰めで忙しいと聞き及んでおります。しょうがないのですよ」


自分自身をも誤魔化すよう、「こうして素敵な花束をいただいておりますし」と、アイリスは大ぶりの花束に顔を埋めるように笑う。

そんなアイリスに、エリークは言葉を詰まらせたが、やがて彼女が本当に憤っても悲しんでもいないことを悟り、しぶしぶと隣の席に座った。


「アイリスは寛大すぎる。怪我をさせられたこともだが、見舞いに来ないことまで許すなんて」

「ふふ、怪我なんて。いうほど大したものでもないですよ。……ね? お兄様とお父様は私が体術や剣術を習うといった時、大層顔を顰めていらっしゃったけれど、役に立ったわ」

「……アイリスは」


少し得意げに笑うアイリスを見て、エリークは瞠目したのち、少し怒った顔で小突く。


「巻き込まれたのだから確かにしょうがないけどよ。無茶はするな。……肝が冷えたよ」


少し強い力で頭を撫でられるのを、穏やかな妹の顔で受け入れる。

わずかに反省の色を混ぜて。エリークは、アイリスがそんな表情をするのに弱いことを知っている。


エリークへの接し方は、最初の頃は一番気を遣った。

彼はアイリスを妹として真に愛し、大切にしようとするからだ。

身近であり、一番アイリスと接する時間も長い心配性の兄――だからこそ「違和感のないアイリス」を構築するうえで、とてもわかりやすい指針になってくれた。

もうエリークは、アイリスの表面を疑わない。アイリスもまた、エリークに揺るがない。


今日もエリークの態度が常と変わらないことに、合格点をもらったような気持ちになる。

アイリスは「しっかり者で穏やかな妹」を今日も演じきっていることを確認し、内心で安堵の息をつく。

一方で、一つの疑問があった。


そもそも。


この一連の騒動で、アイリスが王家への私怨を募らせた狼藉者たちの襲撃に巻き込まれたという報告までは、周囲に伝わっている。

しかし、アイリスがウィルヘルムを庇った結果の負傷であることは、公爵家を含め知らされていない。

当日に関わった者たちに情報統制が敷かれていた。


当日の護衛たちは襲撃を防げなかった責任を取って王宮付きから外されている。

そのため、護衛を慮って隠しているとも考えにくい。

しかし妙なのは、アイリス自身には口止めされていないことだった。


王家が情報を統制しているのなら、学園でどれほど声高に「アイリスがウィルヘルムを救った」と言っても、誰も信じないだろう。

ただ、公爵家だけは違う。彼らはアイリスの言葉を信じる。

つまり、これは――アイリスが公爵家に真実を話すかどうか、試されている?


言わないことで繋がる未来、言ったことで変わる未来。

その両方を天秤にかけながら、アイリスは穏やかにエリークと談笑する。

その裏で、忙しない思考を止めることはなかった。

それでも、機械のように整った表情と口調に、エリークが不審がることはなかった。そのことに、アイリスはうっそりと笑う。笑った時に、頬がわずかに引き攣ったのか、ぱきりと皮膚の内側が何かが剥がれた気がした。



▽▲


どこから漏れたのか、誰が噂したのか。

ウィルヘルム王太子とアイリス公爵令嬢が非公式の外出中に襲撃を受け、公爵令嬢は負傷した――にもかかわらず、殿下は見舞いにも行かなかった。しかもその後も面会はなく、交流の場は減っている。

そんな話が、学園を中心に社交界を駆け巡った。


もともとアルガード公爵家は、王族の血を引かない唯一の新興公爵家である。

ゆえにアイリスとウィルヘルムの婚約は、王家との結びつきを強めるための政略的な意味合いが強い。アイリスが生まれる前から「長女が生まれた場合は王太子妃に」と望まれていた。


事情を知る者たちの間では盤石な縁組とされていたが、二人の亀裂の兆しに噂は面白おかしく広がった。

公爵家に嫉妬する派閥は、アイリスを貶めた。

――負傷のせいで子を産めない体になった。

――恩着せがましくウィルヘルムに賠償を迫って愛想を尽かされた。

……そんな尾鰭のついた噂。


こんなものだ、社交界など。


アイリスは向けられた悪意にだけ手を払って退けたが、噂自体の火消しには回らなかった。

「事実を含む噂には、さすがの公爵令嬢でも為す術もない」――そんな体でいる。あまりに度が過ぎる悪意には、公爵家として父や兄が対応しているようでもあったが、アイリスはそのこと自体に別段興味を示さなかった。

ただ、そういった貴族の薄情さからアイリスが友人らしい友人を作らなくなったと解釈されたようで、ローズとの茶会の席は以前よりも多く持つように勧められたが。表面上の変化など、その程度だ。


噂の通り、ウィルヘルムとはもう二月の間、一度も会っていない。

王太子妃教育で王宮に通っても、乱入してくることはなくなった。どころか、予定された茶会でさえ、直前に従者から延期を告げられる。

それでも哀れな婚約者アイリスは、用意された茶会の席に静かに座り続けた。

定められた終了の時間までは。そしてそれを、公爵家には何一つ報告しなかった。


冷めた紅茶を、最後に喉へ流し込む。

苦味など、最早感じない。ただの作業として、それを続けた。



▽▲


昼休み。

教室移動を終えたアイリスは二階の渡り廊下を歩く。

ふと窓の外、庭園に目をやるとミラベルたちの一行が見えた。

足を止め、数を数える。――ひとり、ふたり、三人、四人。

以前より、増えている。


見目麗しい令息たちに囲まれ、ミラベルは楽しそうにキラキラと笑っている。じっと見つめていると、不意に女の目が上を向き、アイリスを捉えた。大きく目を見開き、一瞬だけ目を細めて――嗤う。

上を向いていたので、あの醜悪な笑みを見たのはアイリスだけだ。


けれどそれはほんの一瞬で、すぐに「無垢な女の仮面」を被り直す。

怯えたように視線を彷徨わせると、周囲の令息が「どうした」と労る。

女は何かを囁き、令息たちは険しい顔でアイリスを睨みつけ、そして優しい目で女を見つめた。


女の表情は困ったようでもあり、悲しげでもある。

だがその奥底には、確かな愉悦が潜んでいた。


『あれは公爵令嬢だ。冷酷で嫌味な女。最近は王太子殿下の婚約者としての資質も問われていて、機嫌が悪いらしい。近づかない方がいい』


――そんなふうに言っているのだろう、とアイリスは口の中で呟く。


もしそうなら、順調だ。

あの女がノートに書いた“シナリオ”通りの進行。

夢物語の筋書きどおり。


女を見るのも近づくのも、気力を要する。

それでも、あの歪んだ愉悦の表情だけが唯一アイリスを安心させた。

正解を、進んでいるという証だから。



「アイリス公爵令嬢」


かけられた声に、ゆっくりと振り返る。

ダグラスが今日も顔を顰め、大股で近づいてきた。

嘲りを含んだ顔で、手に持っていたものを投げるように渡す。


「隣国へ視察中の殿下からの言伝です。これを、あなたにと。」

「……花束、ですか?」

「ええ。なんでも、わざわざ殿下ご自身が隣国で野草を摘まれたとか。はは、ここに来るまでにドライフラワーになってよかったですね。」


それは貧相なドライフラワーだった。

学園の片隅にも咲いていそうな、変哲のない花。

まとめ方も雑で、ダグラスの渡し方のせいで乾いた葉が床に散った。

アイリスはそれを屈み、丁寧に拾い、己のハンカチで包んだ。その様子を見たダグラスが、品悪く舌打ちをする。


学園での噂が広まるにつれ、ダグラスの態度は一層高圧的になった。

自分がウィルヘルムの側近に近づいたことで、気が大きくなっているのだろう。蔑むように口元を歪ませながら言う。


「何故、俺がわざわざこんなものを殿下から預かったかわかりますか?」


アイリスは冷笑を崩さず、相手の望むままに問い返す。


「何故です?」


ダグラスは待ってましたとばかりに、嬉々として言葉を吐く。


「殿下が、貴方を見張れとおっしゃるもので」

「左様で」

「……何か、言いたいことはないんですか?」


仮面を剥がそうと躍起になるダグラスに、アイリスは微笑んだまま答える。


「それが貴方の役割なら、全うなさることです。私からの異論などございません」


――ここがチェスの盤上なら、アイリスもダグラスもキングでもクイーンでもない。

ただのポーンにすぎない。

ポーン同士で争うなど、滑稽なことだ。


アイリスは笑い、嗤う。

会釈して、ダグラスの様子を一瞥もせず通り過ぎた。


「ッ殿下は! この間の市井視察でウッドウェイ男爵令嬢と会っていた! 殿下も彼女に興味をお持ちだ! ははっ、いつまでお前は余裕な顔でいられるかな!」


敵意に満ちた声が背に飛ぶ。

だが、響きはしない。振り返る価値もない。


アイリスの隣には、誰もいない。

それを望んだのは、ほかならぬアイリス自身だった。


冷たい風が頬を撫でる。

それに身を震わせるほど、もう愚かではない。


シナリオ通りに物語は向かっている。だとすれば、人の歩みも変わる。

僅かな軋みは無視をし続ければ大きな畝りとなって、変化を来たす。

アイリスは歩みを変えた。だから、ウィルヘルムも変わった。もう、アイリスのウィルヘルムはいない。シナリオ上のウィルヘルムがそこにはいるだけなのだ。


幼少期、見舞いに来てくれた時に王宮の薔薇を使った花束をもらったことを思い出す。豪奢で綺麗な花束。今、アイリスが手に入れたのはそれと比べるのがおこがましい、貧相で、風に触れた途端に崩れそうな野花だった。


アイリスは手に持つドライフラワーを潰さないよう気をつけながら、歩みを止めず前を向いた。

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