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七話 時が刻まれる

この世界は、前の世界とまったく同じではない。

アイリスが以前と違う道を歩んだように、少しずつ物語は変わっていっている。

アイリスのウィルヘルムに対する関わりが変わったせいか、一度目の記憶にある側近たちの顔ぶれも違っていた。


前の生ではほとんど会話を交わしたこともない、

オズウェル侯爵家のダグラスがいる。側近候補と噂される男だ。

そのダグラスは、アイリスを見つけるといつも眉を顰めながらも荒い足取りで近づいてくる。


今も、また。

定期考査の張り出された順位表を見て、己の名前が一番上にあることを確認していただけなのに、ダグラスは真っ直ぐこちらに向かってきた。

酷く不機嫌そうな顔で順位表を一瞥し、フンと鼻息を荒くする。

アイリスの名前が一番上に載っていなければ、さぞ嫌味を言ってきただろう。そう分かる顔だった。

実際、一番上以外に名前が書かれたことがないので分からないが……いや、もしかすると逆なのかもしれない。

オズウェル侯爵家は代々優秀な文官を輩出している家系だ。

それなのにアイリスに一度も成績で勝てたことがない。その八つ当たりなのかもしれない。


心底興味がないので、本当のところは分かりはしないし、本音など聞いたところですぐに忘れるだろうが。


そんな心の内はおくびにも出さず、今日もダグラスの言葉を待った。

アイリスから話しかけたことがないのを、彼は分かっているのだろうか。


「勉強ばかりに精を出しておられるようですが、殿下との交流が最近滞っているだとか。殿下はその地位ゆえに孤独です。貴方はその地位ばかりを見て、殿下自身に寄り添おうとしない。見ていて腹立たしいですよ」


嫌味ったらしく言う男の、ねちねちとした口調に、聞いていた周りの方が顔を顰めている。

ローズが隣にいたら、憤慨ものだったろう。

アイリスはいつも通り、口を挟まない。顔色ひとつ変えない。


ダグラスの額に青筋が浮く。

この男は短気で浅慮だ。しばらく悦に入って話を膨らませれば、バカが自爆することをアイリスは知っている。

だから、待つだけでいい。


「自分よりも殿下を慮れる方に、その席を譲ろうとも思わないのですか?」


ほら、と思った。

今日は手短に済んでよかった。

アイリスはダグラスが話を切ったタイミングで、口を開く。


「王命による政略結婚の意味はご存知で? 我が公爵家との縁組は、王家からの打診ですよ」

「爵位など、養子縁組でもすればすぐに整えられるでしょう。王家からの打診などと大層な言い方をして、爵位をひけらかしているだけだ」

「あら……。そこまで爵位を軽んじているというのなら、あえて私は貴方のご実家に抗議文を――公爵令嬢として送りつけさせていただきましょう。上昇志向があるというなら尚のこと、一度、爵位の意味を考えた方がよろしいですよ」


王命の意味、そして爵位をこき下ろす姿勢。

致命的に空気が読めなさすぎる。定期考査の順位表を見にくる生徒など、大半が高位貴族であるというのに。


アイリスがひやりとした微笑みをそのまま、周囲へちらりと向ける。すると、ようやく冷ややかな視線が他からも向けられていることに気づいたらしい。

ダグラスがグッと息を詰まらせ、早足で立ち去る。

純粋な疑問として――何故、見かけるたびに気に入らない人間にわざわざ突っかかってくるのだろうと、アイリスは内心で首を傾げた。しかも、いつもこのパターンで舌戦は終了する。学ばないのか、もしくは次こそ勝てると思ってくるのか。

どちらにせよ、こちらとしては時間の無駄で迷惑でしかない。


そっと息をついたタイミングで、こちらを伺っていた周囲の一人が苦笑気味に声をかけてきた。


「……お疲れ様でした、アイリス様。あの方も、いつも懲りませんね」


不用意な相槌を打つこともなく、黙礼だけで済ませる。


別に、ダグラスとの会話も、今こうやって媚びるように話しかけられるのも、等しいものだ。

心底どうでもいい。

その他大勢の何者かに敵意を向けられることも、好意を向けられることも、アイリスにとっては変わらない。

心が揺さぶられることなど、一ミリもないのだ。


アイリスはダグラスに向けていた笑顔と寸分違わぬ笑顔を、その生徒にも向ける。

ダグラスはこの顔に酷く苛立つようだが、目の前の生徒は頬を染めた。

対照的な反応。

しかし、それが何故かと分析する興味すら持てない。

笑顔の意味など、好きに解釈すればいい。

そう思いながら、アイリスは笑顔を残して去っていく。



▽▲


「ダグラスは鬱陶しいか?」

「いえ。ただ、私は嫌われているようですが」

「あれは直情的だからな。あえて泳がすと、思わぬ副産物が得られることもある。今回はこの外出だな」


馬車の中。右隣に座るウィルヘルムが薄く笑う。

確かに、いまの状況は、ダグラスがあんな場で弁えもせずに「ウィルヘルムとアイリスが不仲で会っていない」と言外に示唆したせいで、急遽整えられた場だった。


狭い密室の中、馬車は緩やかに進む。

市街に実際に降りる時間は限られていたが、それでも王太子であるウィルヘルムとお忍びで二人きりで出掛ける機会など、そうあるものではない。

歩道を歩く際には、常に自分を左へ置き、車道側をウィルヘルムが歩く。

短い散歩ではあったが、前の生の自分であれば存分にはしゃいだことだろう――と、馬車の窓からぼんやりと思う。


「ローズやエリークとは、忙しい合間を縫ってでも私的な時間を当てていると聞いたが?」

「ローズは確かにそうですが、兄はそうでもないですよ。後継の教育が、兄も忙しそうで」


ローズは調整のため、確かによく茶会をしている。

兄は――、心配が過ぎるところがあるため、共にいる時間を以前より少なくしていた。


不意にウィルヘルムがアイリスの頬に口づけを落とした。

唐突な接触に振り返れば、「随分ぼんやりしているようだから」と、薄く笑われる。

ウィルヘルムは、“あの日”以来、こういった触れ合いが増えた。

戯れを感じるような気安さだ。しかし、たまにこちらの出方を窺っているような気配がある。

試されているような感覚を隠しながら、アイリスは恥じらった笑顔で「外から見えてしまいます」とやんわり押し除けた。

ウィルヘルムはふっと笑って、名残惜しさも見せず体を離す。


密室の馬車の中だというのに、何かに見せつけるような、儀式的な触れ合いと会話のように感じた。

それきり、お互い何も言わずに馬車の中を過ごす。


窓の外では、白々しいほどに穏やかな春の陽光が差していた。




昼が夕へと変わる。

長くも短くもない時間が終わり、最後に王家御用達の宝石店を見て行こうと馬車を止めた。

ウィルヘルムが先に街道へ降り、馬車の中のアイリスへ手を差し伸べる。

アイリスは立ち上がり、胸の奥で、雷鳴にも似た鼓動が鳴った。

何かが、違う。ふと目線を逸らして、その瞳を見開いた。


銀が。銀が向かってくる。

鈍く光る銀の――貴方を害そうとする、不純物。


明らかに常軌を逸したような様子のならずものが、ナイフを構えこちらに向かってきている。襲撃。

これは、こんな事件は巻き戻り前の生では起こりえなかった。では、ミラベルの言っていたシナリオではどうだっただろうか? これは正しい出来事なのか?

私……私、"アイリス"はどう動けば正解だったか?


頭の中、どこか冷静に考える部分は確かにあったが、それが答えを出すより早く、体が動く。

倒れ込むようにウィルヘルムと暴漢との間に体を割り込ませた。

一瞬、目が合ったウィルヘルムがまともに驚いた顔をする。

場違いにも「……あ、久々に見た表情だな」と思ってしまい、小さく笑みが漏れた。

さらに、ウィルヘルムの目が見開かれる。


肉が鈍く引き裂かれる音。

「ああ、痛い」と遅れて思ってから、そのまま倒れ込む。

痛む腹に手をやれば、どくどくと血がつく。ぬるりとした、生暖かい感触。赤。

一瞬だけ頭が混乱しかけたが、深呼吸をして現状を理解する。

これはアイリスの血である。痛みも、アイリスが受けたものだ。

……そう、よかった。今度は。


安堵に気を抜いた瞬間、力強く体を持ち上げられた。

ウィルヘルムがきつくアイリスを抱える。呼吸が浅く乱れ、苦しげに目を細めている。動揺しているのだ。常なら揺るがないウィルヘルムが。

アイリスを抱きしめる手の甲を撫でたのは、ほぼ無意識だった。


ウィルヘルムが、その手の動きに顔を背けた。それから大きく息をつく。

もう一度顔を上げた時には為政者の顔をしていた。アイリスを抱えたまま、周囲に目を向け、大きく怒鳴る。


「取り押さえたか!」


その声を合図にするよう、アイリスの世界が開けていく。

怒号、悲鳴、駆ける音、取り押さえる音、土埃、こちらを向く視線。

暴漢は憎しみの籠もった目でこちらを見ている。

自死を防ぐために猿轡を咬まされているので、恨みの声は届かないが、視線はウィルヘルムから逸れなかった。


ウィルヘルムの世界とは、前の生からずっとこうだ。

直接的にしろ、間接的にしろ、恨まれ、命を容易く狙われる。だから、アイリスはウィルヘルムに寄り添おうと――ああ、違う。それは、前の生の時に誓ったことだ。


血はそこまで出ていないはずなのに、視界がぼんやりと霞んでいく。呼吸が浅くなっていく。

それでも死には届かないだろう。

ただ、痛みと疲れが体を突き抜けていく。


「……何故、庇った?」


他所へ逸れかけた意識を引き戻すように、小さく低いウィルヘルムの声が掛かる。

抱えられた体勢のまま見上げるウィルヘルムは、霞む視界でも分かるほど怒りに震えていた。

暴漢に対してというより、アイリスに向けられたものだというのは直感で分かった。


「腹に傷なんて作りやがって」


常より荒い口調が、彼の心情をよく表していた。

庇うことで良い顔をされるとは思っていなかったが――。


白くなっていく視界の中、それでも懸命にウィルヘルムの表情を見ようとする。

ウィルヘルムは大きく舌打ちし、アイリスの視線から逃れるようにその大きな掌で視界を遮った。


「……こんな傷など、代わってやりたい」

「わ、私のことなどいいのです。尊いのは貴方の御身です」


暗い視界のまま、聞き捨てならない台詞を言われてアイリスは震える息のまま言い返す。

ウィルヘルムの怒気が一層強まるのを感じたが、それに怯える余裕はなかった。


私は――だって私は、もう一度貴方に助けられている。

貴方に守られた命だ。だから今度は、私が貴方を守る。そうでなくてはいけない。


「お前は俺に守られていればいいんだ」


息が止まる。

腹を刺された衝撃なんかよりも、ずっと大きく体が引き裂かれた。

はくはくと、酸素を求めるように口を何度か開いては閉じる。それを繰り返してから、ウィルヘルムの手がじわりと濡れ出すのを感じ、覆っていた手をそっとどける。


「だ、だめです、そんなの……。ぜ、絶対にだめ。だめなの、だめ……!」


焦点が合わなくなっていくアイリス。

明らかに動揺し、体が震え始めた。尋常でない彼女の様子に、しかしウィルヘルムは怒気を緩めることなく睨み続ける。


アイリスの中の何かが、ぷつんと切れたようだった。

瞳はウィルヘルムを向いているが、見ていない。怯えたように――ウィルヘルムの先にある“何か”を見ている。

手が、もがくように小さく動く。何度か言葉にならない声を発して、それから力尽きたようにぐったりと気を失った。


瞬きもせずその様子を捉えていたウィルヘルムが、もう一度大きく舌打ちをした。

気絶したアイリスを抱え直す。

護衛たちが寄り、アイリスを引き受けようとするが、ウィルヘルムはそれを退けた。獣が唸るような声で、低く短く言う。


「いい、触るな」


その殺気を孕んだ声に、護衛たちは顔を青くするのだった。



▲▽


信頼できる医師にアイリスを預け、命に別状もなく傷跡も残らないだろうと確認してから、ウィルヘルムは大きく息をつく。

王宮の一室で寝かせたアイリスの頬は白い。

元より陶器のような白さではあったが、それでも以前は生気があった。

その頬に手を伸ばす。


「……冷たいな」


まるで、生気が失われていくような冷たさに眉を顰める。


アイリスは目を覚まさない。

顔はぴくりとも動かず、苦しみも痛みも、ましてや安堵や喜びといった感情すら見せない。

ただ、深く眠り続けている。


部屋に掛けられた置時計の振り子の音が耳につく。

秒針が、静かに時を刻んでいる。

――カチ、カチ、カチ。音がする。


「……手袋」


決定的となった違和感は、それだった。


カチ、カチ、カチ。音がする。


「体温の低下」


カチ、カチ、カチ。音がする。

ウィルヘルムは右目を押さえた。

視界の端で、いつもより強く光が滲む。


――気づくたびに右目が疼くようになったのは、いつからだ?


「雷を怖がらない。風邪を引いても甘えない。エリークにさえ本音を言わない。……そもそも、体が弱くなった?」


カチ、カチ、カチ。音がする。

ウィルヘルムの指が、振り子の音に合わせるように、ベッドサイドの木を軽く叩く。


「勉強時間が増えた。剣を習い始め、体術を覚えた。俺とは会おうとしない」


カチ、カチ、カチ。音がする。


「ローズ。入学式。学園生活。ウッドウェイ男爵家。ダグラス」


カチ、カチ、カチ。音がする。


「笑わない。泣かない。けれど何かに怯えている」


カチ、カチ、カチ。音がする。


「婚約破棄を示唆する。体の接触に身を強張らせる。時折、何かを懐かしむ顔をする」


カチ、カチ、カチ。音がする。


「……俺に、守られることを厭う」


――渦鈴が、鐘を叩く。

金属が打ち鳴らされる音が、柔らかく体に響いた。


ウィルヘルムは顔を上げ、精巧に作られた人形のようなアイリスを見つめる。

彼女は未だ、目覚める気配を見せない。


「――なるほどなぁ。そういうことか」


低く、怒りを孕んだ声が冷たく部屋に落ちる。

その声を拾う者は誰もいない。


怒りに煌々と燃えるその瞳を、今はまだ、誰も知らない。

ただその瞳は、アイリスただ一人を、真っ直ぐに捉えていた。


しばらくの間、ウィルヘルムは動かずに立ち尽くしていた。

やがて席を立ち、外套を羽織る。

次に向かう場は、もう決まっていた。

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