六話 仕組んだ春
どくん、どくん――自分の心臓の音が大きく聞こえる。
手袋の中に隠した指先がさらに冷えていく。
十五歳になって迎えた九月。
――ついに迎えた、王立学園の入学式。
厳粛に整えられた会場の中、学園主席として名を呼ばれ、舞台に上がる。スポットライトの下を歩けば、好奇の目が一斉にこちらを向く。しかし気にするそぶりひとつ見せず、アイリスは堂々たる面構えでマイク台に立った。
スッと息を吸い込み、言葉を吐き出そうとした、その時。
閉じられた厳かな扉が、勢いよく開かれる。
スポットライトの光と二分されるように、外気の光が入り込んだ。風が吹き抜け、誰もが壇上のアイリスから目を離し、対面の扉を振り返る。
開けた側だというのに、驚いた顔をして固まる少女――ミラベル・ウッドウェイ男爵令嬢。
慌てて来たのが分かる、やや乱れた髪と制服の裾。大きな瞳と、目に痛いほどの鮮烈な赤い髪。幼さはあるが、見る人の記憶に残るほど愛らしい黄緑色の生き生きとした瞳。自然光の中、十五歳らしい無垢で瑞々しい表情がよく見えた。
それは、スポットライトの下で堂々と立つアイリスとは対照的だった。
銀髪に透けるような白い肌、色素の薄い紫の目はどこか冷たい。幼さを捨てきった、完成された美の結晶。
アイリスは、突如現れた自分の晴れ舞台を遮る無法な男爵令嬢を冷たい目で見た。
はっとしたように、ミラベルは各方面へ謝りながら慌てて席に座る。
苛立ちで、僅かに挨拶の原稿を握った手に力がこもり、皺が寄った。
どこか浮つくようになった会場を責めるように、小さく咳払いをしてから――何事もなかったように挨拶を再開する。
会場の皆が、夢から覚めたようにアイリスの言葉を聞こうと姿勢を正す。だが、その意識はあまりに鮮烈な登場をしたミラベルへと向けられていた。
――という構図が出来上がっていた。
壇上から、目立つミラベルの赤髪を見る。
ミラベルは恐縮そうに下を向いている。膝の上で握った手は、ふるふると震えていた。
失敗に怯える哀れな令嬢、そう見えた。
しばらくして、我慢しきれず壇上のアイリスを見上げる、その瞬間までは。
女の目は優越感に満ち、歪な笑いを浮かべていた。頬も紅潮している。型破りだとしても、公爵令嬢より今の彼女は注目を集めている。
その結果に、喜んでいる。
これでいいのだと、そう言うように。
アイリスはどうか、原稿を握るこの手の震えが怒りによるものだと見えるように――そう祈りながら、淡々と挨拶文を読んでいく。
どくん、どくんと、心臓の音がうるさく、自分の声が掻き消されそうになりながら。
それでも「完璧主義な嫌味な女」の挨拶としては十分取り繕えているだろう。
これでいい――と、アイリスは最初の役割を全うし、胸を撫で下ろした。歪な安堵があった。
一度目の人生にはなかった、過剰なまでの演出。注目を浴びることだけで自己顕示欲を満たす女のために誂えられた舞台。
表面上は問題なく終えた挨拶を終え、頭を下げた時、周りからは見えないように唇を噛む。
ミラベルに抱くものが、前の生からの恨みや怒りだったら良かった。
しかし実際にアイリスが感じたものは、恐怖の方が強かった。
それを自覚せざるを得ない初対面に、アイリスはまた、自分に失望するのだ。
入学式には王族として、そしてアイリスの婚約者としてウィルヘルムも賓客として出席していた。
式典の後にはアイリスとの会食の場が設けられた。労いの言葉を掛けられたが、肝心のミラベルについては「とんだ邪魔が入ったな」と、話を振られる。
アイリスは内心はともあれ、穏やかに笑うに留めた。
「遅刻して入学式までに間に合わない生徒が出そうだ、とは先生方に聞いていたのですが、時間も押してましたし、まさかああいう乱入する形で会場に割り込むとは思わなかったですね」
「随分型破りな令嬢だな。……市井育ちの、男爵令嬢、だったか」
巻き戻り前の生では、アイリスが式の開始自体をぎりぎりまで延ばす選択をしたためにあのような乱入の形にはならなかった。ギリギリまで延ばした後、それでもミラベルが来なかった為、アイリスが忠言したのだ。「恥をかくかもしれないから、もし該当生徒が来たら裏口からそっと通してください」と。
もちろんアイリスからしたら全て善意だったわけだが、このことについても牢獄にいたミラベルから言わせれば「登場シーンを潰す妨害」だったらしい。
だから、今回はミラベルが語ったシナリオ通りの動きにしてやった。式の開始時間を延ばすこともしなかったし、まさか乱入する生徒もおるまいと戸口に教師を立てることもしなかった。
「ミラベル・ウッドウェイ嬢というそうですよ」
アイリスが付け足すように言う。
ウィルヘルムは相槌を打ったが、あまり関心はなさそうだった。もっと言及したい気もしたが、あまり深追いするのもおかしい。
とりあえず、布石は置いた。アイリスは人知れず、息を吐く。――その様子を、じっとウィルヘルムが観察しているのには気付かずに。
入学してからのミラベルといえば、一度目の人生と同様に様々な令息たちと接触し、順調に交流を図っているようだった。
前と同じで、やはり女友達には欠片も興味がないようで、女生徒からの評判は悪い。
一方で、学園のアイリスの隣には誰もいなかった。巻き戻り前の時であったならば、友人を作ったり親しくしてこようとする者にはそこそこに対応した。
しかし、今生では一切の交流をやめたのだ。
同い年であるローズがこの学園にいれば事情は変わっただろうが、都合よく彼女は領地の方針で、王立学園には通わない。
孤独で、孤高。そして誰に対しても壁を作り冷たい笑顔を浮かべる女。それがアイリスだ。
友人など作ってる暇はない。そしてそれらを作ったところでアイリスに待ち構えてるのは「卒業パーティーでの断罪」だ。下手に友人を作り、連座になってしまっても、アイリスに庇う余裕はない。それであるならば、何も持たない方が楽だった。
妃教育との忙しさの合間を縫ってミラベルを観察すれば、やはりあの女は牢獄で語っていたように、『攻略対象者』たちが抱えるコンプレックスや悩みに対して解決能力がある。
知っている――そんな風にも見えた。
前世の記憶がある。あの女が頻りに話していた内容だが、荒唐無稽とも言い切れないほど。
アイリスは、女が語った『悪役令嬢』として、あの女に対して何度か接触を図ろうとした。けれど結局できなかった。近寄ることができないのだ。
手が震え、喉が張り付き、声が出なくなる。
ウィルヘルムの仇の女だと思っても、存在自体に定義ができず、女が不可思議な力を使ってまた悲劇を起こすかもしれない可能性が、恐ろしくて堪らなかったのだ。胸の奥で心臓が二度、抜け落ちた気がした。
そもそも女が語っていた『悪役令嬢アイリス』の悪事といえば、ノートを破いただとか、私物を投げ捨てただとか、学園の敷地内での暴力沙汰だとか。そんな、高位貴族であるならばやるはずもない幼稚なものだった。
わざわざ実行犯になるより、誰かを雇ってやらせる方がよほど貴族らしい。
ましてや人を介すにしても、学園外でやった方がよっぽど犯人の絞り込みができず都合がいいだろうに。仮に王太子妃の座を男爵令嬢が狙っているのであれば、婚家の家からはもちろん、派閥の家からでも暗殺されかねない世界だ。
そういう命の危険がない悪事という、現実味のないちぐはぐさに頭を捻る。
ただ、下位貴族同士であれば、そういったレベルの「嫌がらせ」で実際に溜飲が下がるらしい。女はすでにそういった嫌がらせを受けていた。
アイリスは、それを止めはしなかった。
女が見合った嫌がらせを受けることで悦に入っているのがわかったからだ。悲劇のヒロイン。まさにそれを女は体験している。
――前の生の時と同様、それらしい魔道具を持っている様子もなく、何か魔法薬を服用している姿も見られない。
念のため出来うる限り女に近づきもしたが、魔法薬に特有の薬品臭や魔力の残り香があるはずだ。だが――何もない。
しかし実際に、あの女の希望通りに物語はリセットされ、軌道修正されながら第二の生が始まっている。
あの女には、アイリスのように一度目の人生の時の記憶はないようだが。
何故自分だけが記憶を持っているのか。その謎も解けない。
しかし既に場だけはすでに整えられている。間違うことは許されない、一度きりの大舞台が。
アイリスは、じっとりと背に嫌な汗をにじませながら、女を遠目に観察し続けた。
そうやって、ミラベルという異物が、アイリスの世界の秩序を少しずつ侵食していく。
▲▽
「随分、構ってくれなくなった」
アイリスの髪先を指にくるくると巻き付けるよう遊んで、ウィルがつまらなそうに言う。
瞬く間に入学の時期から季節が巡り、もうすぐ雪が降りそうな頃。王太子妃教育も本格的に始まり、王宮に通うことも増えている。しかしそれを皮切りに、ウィルヘルムに会う回数は減っていた。
ウィルヘルムはもう二十になる。
公務も増え、いよいよ立太子の儀も間近だ。
彼こそ忙しいはずなのに、それでもこうやって合間を見つけては、アイリスのもとを訪れた。王宮の一室に整えられた彼女の授業に、乱入する形で。
今日も早々に教育長を下がらせ、二人きりになってしまう。
豪奢なソファに、わざわざ距離を詰めて座るウィルヘルムに、心臓がトクトクと鳴る。
「殿下はいつか、隠し事はないかと聞かれましたね。殿下こそ、ございませんか?」
アイリスが問えば、ウィルヘルムの手が止まる。
あの女の周りに、僅かにウィルヘルムの手の内の者が含まれている。前の生ではいなかった面々が。
あの女は攻略しきれなかった対象者もいると言っていた。それがずれただけかもしれないが、どうにも気になる。ウィルヘルムの反応が詰まったのが、その証左のようだった。
そっと息をつきながら、曖昧にウィルヘルムを見た。
「殿下、もしも私以外に心を移すような女性が現れた場合、お教えくださいね。私たちは所詮、政略結婚なのですから」
どこまで『シナリオ』に忠実でなければいけないのかは分からない。それでも、ウィルヘルムの隣を去ると言う大前提があれば、離れる時期はさして問題ではないのかも――そんな風に、アイリスが思考をよそに向けていると、胸元を引かれる。
ぐっと息が詰まった。
引き寄せられ、額を合わせられるほどに距離を詰められた先、ウィルヘルムは獰猛に笑う。
「教えて、それでどうする?婚約を破棄するか?それとも妾として許すとでも?」
「………………殿下の御心のままに、対処、いたします」
「……気に食わないな、アイリス。それは、逆の立場になった時にお前の不貞を俺も許せと言うことか?」
ウィルヘルムが酷薄に笑う。ヒュッと息を呑むアイリスに、さらにウィルヘルムが凄む。
機嫌が悪い。瞳を見れば、すぐに分かる。
「少し味見でもしようか、アイリス。婚約者同士でしか、できないことでもしてやろう」
躊躇いなくキスをされる。
口内を深くなぞるようなキスは、思考をぐずぐずに溶かしていく。突然の熱にアイリスがくたりと頽れてからのウィルヘルムの動きは迷いがなかった。アイリスが「おやめ、ください」とか細く牽制をする。
しかしウィルヘルムは躊躇う様子がない。
息を呑むアイリスに、ウィルヘルムは容赦なかった。アイリスの様子を存分に観察しながら、口内を味わうように舌を突き入れる。するりと頸に手を回されて、するすると撫でられると体が震えた。
アイリスのその震えを笑いながら、しかし――ふと影が差すように、ウィルヘルムの目が細まる。
「………ここに、いるだろう。アイリス、お前は…….」
一瞬、ウィルヘルムの手が躊躇うように震えたことに、翻弄されているアイリスは気付けない。
ウィルヘルムは、熱を逃すよう目を一度だけ閉じた。
アイリスの口からは息が漏れる。何か言葉を発したいのに、喉がひりついて抵抗が遅れる。羞恥と、僅かな恐怖。
ウィルヘルムの目は、そんなアイリスの様子を確かめるように見つめ続けた。
「アイリス、我慢をするな」
その言葉に従うよう、くてりと、体の力が抜けた。
肩で息をしながら、ウィルヘルムの肩に力なく顔を寄せる。すっかり疲れ切ったアイリスと違い、ウィルヘルムの機嫌が戻ったようにも見えた。
少しな沈黙の後、ぽつりとアイリスが口を開く。
「……慣れてる、ような気がします」
「そうか? けどまあ……誓って、俺はアイリスが悲しむような愚行は犯さない」
そう、軽い調子でウィルヘルムが笑う。
アイリスが押し黙ると、ウィルヘルムはその頭を撫でながらくつくつと笑う。
アイリスが悲しむようなこととは、一体何だと思っているのだろう?
王族の子種は無闇に広めることは良しとされず、王族は妃を迎えるその初夜まで性行は禁じられている。
といっても、それは表向きの慣習であって、近年の王族がそれを律儀に守っているかというと別だ。
たとえば娼館や、閨教育の一環としてアイリスではない女を抱くこと。
確かにそれは精神的な浮気とはいえない。
今生のアイリスとウィルヘルムは、前と違い圧倒的に触れ合いが少ない。そんな中で、アイリスが真に嫌だと思うことを、ウィルヘルムが理解しているか、図り辛い。
精神的な浮気でも、肉体的な浮気でも、アイリスは等しく嫌なのだ。しかし、今さらそんなことを言えるわけもない。
口籠るアイリスに、ウィルヘルムが目を細める。
「ああしかし、女の純潔と違って証明が難しいな」
その言葉に、遠い夜の残響が胸を打ち、アイリスは目を見開いた。
――男には、女と違って純潔の証明が難しいのが惜しいよ。俺は本当に律儀に、今この時までお前しか抱こうともせず、いい子で待ってたんだ。
一度目の初夜の場で、ウィルヘルムは苦笑いと共にそう洩らした。それを思い出したからだ。
前の生の初夜の時。
その言葉通り、何でもそつなくこなすウィルヘルムは、らしくもなく本能に突き動かされた様子でアイリスを貪った。アイリスにも無論余裕はなく、大波に翻弄されるように受け入れるのみだった。
快楽や痛みより、ただ服を脱ぎ捨て、素肌でぴたりと触れ合うことの安堵を一番に感じていた。
女のしっとりとした吸い付く肌質と、男の弾くような硬さの肌質。それがぴたりと合わさり、溶け合うような心地だった。
嬉しかった。幸せだった。あんなに満ち足りたことはないと思うほど。
一度目のウィルヘルムは、一度迂闊に触れるとタガが外れそうだからと、初夜のその時までアイリスに触れることはなかった。
けれど、この生では簡単にアイリスに触れてくる。
アイリスの態度や歩み方が一度目と違うために、ウィルヘルムも引っ張られ、違う行動を起こすのだろうか。
仮令そうだとしても――ここにいるウィルヘルムは、アイリスが焦がれたウィルヘルムと言えるのだろうか。
口に出さない問いに、当然返る言葉はない。
全身を覆うような圧倒的な悲しみに体がついていかない。
いや、逆なのだろうか。
体の圧倒的な熱に気持ちがついていかないのかもしれない。
頬がじんわりと濡れたのが、生理的なものだったのか感情的なものだったのか、最早アイリス自身にもわからなかった。




