五話 悪役令嬢アイリス
「アイリス様は何故そんなに頑張るの?」
春先の庭に、まだ風が冷たく残っていた。
薔薇の蕾がほころぶ音が聞こえるような静けさの中で、ローズ・トンプソン伯爵令嬢が問いかける。
兄エリークの婚約者である彼女は、その親交を深めるため月に何度か公爵邸を訪れる。しかし、その言葉通りばかりでないことをアイリスは知っていた。
彼女とエリークの婚約は随分と昔から交わされており、仲は良好だ。だからこそ信頼され、エリークから時折アイリスと二人きりのお茶会をするよう頼まれているのだ。
勉強や鍛錬にばかり打ち込み過ぎるアイリスを心配する家族は、しかし身内の制止をアイリスが聞かないことも分かっている。
ローズとの茶会で、アイリスの息抜きの場を作ってくれているのだ。
歳も同じローズとは昔も、そして前の生の時も仲が良かった。彼女に誘われると、確かに無碍にはできない。
公爵邸内のガゼボに整えられたティーセット。芳しい香りの紅茶に、色とりどりの可愛らしいお菓子。
庭に咲く花々に、平和に鳴く鳥たち。注ぐ光。気遣わしげにこちらを見つめる友人の柔らかい瞳。
自分が安全で優しい世界の中にいるのだと、この時ばかりは思うことができる。
それでも、緩みを出しすぎないよう注意しながら、アイリスはゆったりと仮面のような笑みを浮かべる。
判子のように決まった微笑みを作るのが、近頃はなおさら上手くなってきていた。
「私は王太子殿下の婚約者ですから」
ローズ以外にも聞かれる問いの答えは、ずっと前から決まっている。
定型のそれを繰り返すと、家庭教師や使用人であれば素晴らしい心構えだと褒め、家族であれば心配しながらも無理をしすぎるんじゃないぞと言われるばかりだったが、ローズはどちらでもなかった。
「公爵家の令嬢で殿下の婚約者で……私とは重圧が違うのは重々わかるのですが」
彼女は丁寧に前置きした上で、顔を曇らせながらアイリスをまっすぐ見たのだ。
「焦っているように思うのです。何かに急き立てられるかのように。……アイリス様はマナーも教養も、最近では体術にも優れていらっしゃるのに、何をそんなに焦るのか、私には分かりません……」
ローズの言葉は真っ直ぐだった。真実、アイリスを友達の立場として心配していることがよく分かる。
アイリスはその言葉を噛み砕くまでに、僅かに時間がかかった。
それから咀嚼が済むと、更に笑みを深めた。
その笑みをどう取ったのか、少しローズが慌て出す。
「ご、ごめんなさい! 知ったかぶって、出過ぎたことを……!」
「ローズ様」
慌てるローズを制して、アイリスはその手を取った。
アイリスよりもずっと温かみのある手は、優しい人柄そのものを示しているようだ。
焦っている、など。
誰にも指摘されたことはなかったのだ。
しかし、ローズの言う通りである。おっとりとして人のいいローズは、昔から人のことをよく見ていた。
――そうだ、アイリスは焦っている。
いつだって切迫感に追い立てられている。何をしても足りていないような気がして、喉が常に乾いていた。
「そのことに気付いてくれたのはあなたが初めてです。よかったら、これからも私を見てて、気になることがあったら教えてくださる?」
そう言えば、ローズは眼を瞬かせてから、はにかんだ。
ローズは自分の言葉が届いたと思ったのか、安堵したように息を吐く。
「はい! ……アイリス様は今の段階でも本当に素敵な方です! 無茶をしてはだめですよ!」
「ありがとう。嬉しいわ。……よかったら、私たち、敬称も敬語もなしにしない? お友達でしょう?」
そう言って、淑女らしく笑いながら、アイリスは午後の平和なお茶会を晴れやかな気持ちで過ごした。
もっともっと、教えてほしい。友達として、気軽に言ってくれればいい。
ボロが出ているところ、隠しきれていないところ。直さなければいけないところを。
完璧になるまで、努力して修正しなければいけないのだから。
だめなところを、もっと教えて。
▲▽
熱が出た。
高熱らしく、家中の使用人がバタバタと動いている。両親やエリークが落ち着かなく部屋を何度も行き来している気配を感じた。
時折、頭を撫でられていたが、それが誰だったのかまではいまいち分からない。
脳が真っ白くぼやけているように機能せず、息が短くしか吸えない。体の外側が酷く冷え込んでガタガタと震えそうになるのに、内側は不快な熱が溜まり続けて逃せない。
自分の体が思うように動かせないストレスだけが募っていく。
ふと思った。ここで死んだら、果たして「シナリオ」はどうなるのだろうと。
アイリスが死んでしまったら――それでもいいかという気持ちが湧くが、あの女が言っていた悪役令嬢アイリスのいない「シナリオ」が下手に動く可能性も捨てきれない。
ならやはり、とりあえず自分は生きていた方がいい。与えられているらしい役割を全うしなければ。
ああ、なのに、情けない。
アイリスは自分に失望する気持ちで、眼を閉じた。
白と黒のあいだを漂うように、思考が途切れていく。遠くで雷が鳴った気がした。けれどそれは、鼓動の音かもしれない。
「気が付いたか?」
「…………………うぃ、る?」
「懐かしいな、その名前では久々に呼ばれた気がする」
言いながら、汗で張り付いていた髪の毛を優しく退けられる。
その手をぼんやりと追ってから、はっとした。
夕陽が差し、薄暗い部屋に浮かび上がるように佇んでいたのは、確かにウィルヘルムだった。
完全に想定外だとはいえ、婚約者の立場だ。見舞いに来たのだろう。
さあっと血の気が引く気持ちで上半身を起こす。ずっと寝ていた体は泥のように重く、一瞬つんとした痛みが頭を走ったが、構っていられなかった。
「し、失礼しました、殿下」
「いい、わざわざ起きあがろうとするな」
ウィルヘルムの輪郭が夕陽で柔く照らされ、オレンジに縁取られる。
そのまま溶け込んでしまいそうで、思わず指先を伸ばす。
しかしはっとして指を下ろす。自分から触れるなんて。やはり病で気が弱っているのだろうか。弛んでいる。
しかし、うろ、と彷徨った指先はウィルヘルムに気付かれ、そのまま手を握り込まれるように取られた。
体の熱はだいぶ抜けている気がするが、まだ全快ではないのだろう。思考がいつもより飛びやすい。
このままでは迂闊なことを言ってしまいそうだ。
アイリスは下を向き、唇を噛むことで衝動を堪える。
ウィルヘルムはそんなアイリスの様子を、体調不良によるものだと考えてか、言及はしなかった。
その無言のまま、ウィルヘルムがアイリスの手を撫でる。
まるで体温を分け与えるかのような触り方に、不意に涙が込み上げた。
前の生でも、体調が弱るとこうやって側にいてくれた。忙しいのに、立ち止まり視線を合わせて看病するのだ。一国の王の立場の人間が。どんなに忙しくても、絶対に。
アイリスの周りは、いつも皆優しい。
公爵邸の使用人、両親、兄、友人。皆、優しい手でアイリスを労ってくれている。
今も、前も。
ウィルヘルムの手も無骨なのに、そうだ、いつも優しくて、温かくて――
「指先が冷たいな、アイリス。以前はこんなことなかったのに」
――ウィルヘルムが言う。
ぱん、と頬を叩かれた気持ちだった。
それは特別な意味が込められた言葉じゃない。ただ、事実をぼんやりと呟いただけだ。
けれど、アイリスは夢から覚めた心地だった。
そうだ。もう、以前とは違うのだ。
皆の手は温かく、けれどアイリスの手は冷たい。そこには明確な線引きがあるようだった。
アイリスには、戒めのように巻き戻り前の記憶がある。
けれどウィルヘルムにはそれがない。
まるでそれは――罰のようではないか。アイリスを守って死んだウィルヘルムと、ウィルヘルムをむざむざ殺したアイリスの、対比のような。
この人の愛情深さを誰よりもアイリスは知っている。だから、手を伸ばしてはいけない。握り返してはいけない。
アイリスが怯えると、怖がると、この人は何を置いてもアイリスをその背に庇おうとするのだから。
「殿下、……申し訳ありません。やはりまだ、体調が優れないようで」
青い顔を隠さず、アイリスが言う。
下手に強がって笑顔を見せず、弱った姿をそのまま見せた方がウィルヘルムが気遣って引くことを知っていたからだ。
ウィルヘルムはアイリスの思惑通り、気遣わしげにアイリスの体調を慮り、部屋を辞した。
ウィルヘルムが去った扉を見つめ、少しぼんやりしていた。
ふと気がつくと、ベッドサイドにはウィルヘルムが見舞いで持ってきたらしい花束が置かれていた。淡く明るい色で、匂いが薄い花でまとめられている。体調を気遣ったまとめ方は、ウィルヘルムらしい気遣いだ。
笑おうとして、しかし漏れ出たのは笑いではなく嗚咽だった。
苦しい、熱い息が漏れ出る。胸をぎゅうと抑えながら、布団の中に潜り込んで丸くなる。
小さい嗚咽一つ、誰にも聞かせてはいけない。
唇を強く噛むと、血が滲んだ。手を握り込むと、爪が内側に刺さり痛かった。
でも、巻き戻り前のあの時、ウィルヘルムが流した血はこんなものではなかった。大きな水たまりのように、膨大な血が流れていた。あの、鉄臭さと生温い最期の温度。あれを忘れてはいけない。あの罪を、赦されてはいけない。
頭が痛い。胸が痛い。手が冷たい。体が芯から冷たい。痛い痛い痛い痛い、苦しい苦しい苦しい苦しい。
いつのまにか、夕日はとっくに沈んでいる。冷たい夜がアイリスを包む。
息を殺し、祈りながら朝日が昇るのを待った。
▽▲
「アイリス! 心配したのよ! もう体調は大丈夫?」
「ええ、心配させてごめんね。もうすっかり元気よ」
「ならよかった! ……あら? 手袋をすることにしたの?」
「ええ。冷えが酷くて。改善するといいのだけど」
真っ白いシルクの手袋をするアイリスに、ローズは無邪気に「似合ってるわ」と笑うのだった。




