四話 構築
あの怪我から目が覚めて以来、エリークへの宣言通りアイリスは勉学に一層勤しんだ。
元より勉強をすること自体嫌いではなかったが、前の生ではここまで取り憑かれたようには励んではいなかった。けれど、今は少しでも多くの知識が欲しい。この世界のすべての構造を知りたい。成り立ちを知りたい。
そして――そうすれば、そうなれれば――。
元からつけてもらっていた家庭教師に加え、更に二人新しい人を雇ってもらった。
前までは庭を散歩したり、領内の川辺や自然をエリークと駆けて遊んだ時間だ。それらの時間をすべて潰すよう、机に向かう機会を増やす。
心配した兄や両親から、遊ぶ時間や体を動かす時間も必要だと言われたので、少し考えてから女騎士をさらに雇ってもらい、剣技を教わるようになった。これには家族皆、頭を抱え出す。けれど、アイリスは構っていられなかった。胸の内の、追い立てられるような焦燥を感じる時間をなくしたかったのだ。
そうして、一人きりになった夜にはベッドの中でノートを開き、前の生であの女が言っていたことを反芻する。何か追加で思い出すことがあったら残すことなく書き足す。何度も開いたノートはくたびれていった。
毎日読み返し、自分の書いた文字を指先で辿る。ノートを抱きながら眠りにつく癖がついたアイリスの指先は、毎朝起きた時には薄らと黒ずんでしまっているため、一番に手を洗うのが癖になった。
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叩きつけるような強い雨と、雷鳴が轟いている。
空はこちらの気持ちを陰鬱にするくらい重く暗い色をしており、時折フラッシュのように雷が青白く瞬く。光と音が届く時間のラグは短く、ごく近くに雷が落ちたことが分かる。
アイリスは詰めていた息を、置かれた紅茶と共に飲み下す。
「こんな日に、我が家への訪問なんて……」
そう、アイリスが溢すように言う。正面に座っているウィルヘルムは、ぼんやりと窓の方を見ては、雷が落ちると少し楽しそうに目を細める。かれこれ数十分はそんなことをしていた。
そもそも彼が来る前には雷までは轟いていなかったが、それでもかなりの悪天候で、馬車の路も悪かったはずだ。先触れもなしに婚約者の家を訪ねる日としては、とても最適に思えない。
しかもとくにこれといった用もないらしいことは、この数十分の間でよく分かる。彼は最初の挨拶以降、何を話しかけてくるでもない。
様子をずっと窺っていたアイリスが、ついに耐えきれず口を開けば、ウィルヘルムの視線がようやくこちらに向いた。
少し悪戯げに笑う顔は、待ってましたと言わんばかりだ。前の生ではよくこの顔を向けられていた。今の生では、随分と久々に見た気がするけれど。
アイリスは気取られぬ程度に目線を外しながら、自然に見えるような仕草で窓を見た。
「こんな日だからだろう」
「え?」
「雷が苦手だろう、お前は」
「……幼き日のことです」
アイリスが目を窓に向けながら釣れなく言えば、ウィルヘルムがくつくつと笑う。立ち上がり、アイリスの隣のソファに許可もなく座った。
頬に触れられ、肩が少し跳ねる。促されるように、そろそろとウィルヘルムの方へ視線を合わせれば、こちらの感情までをも覗き込むような瞳と目が合う。
深い青の目がじっとこちらを見ていたが、やがて和らげるように細められた。
「お前は素直じゃなくなったな。エリークも、甘えてくれなくなったと最近よく嘆いてる」
「もう、小さな子供ではないですので」
もう一度、繰り返す。自分にも、ウィルヘルムにも言い聞かせるような声で。
確かに雷は好きではない。大きな音も、暴力的なまでのフラッシュも。
特にこの頃はよく怯えていたように思う。
エリークやウィルヘルムにぎゅっと抱きついて慰めてもらっていた。すぐに過ぎると優しく背を叩かれると安心して寝落ちしてしまうのだ。
けれど、もうそんな幼さは捨てた。今のアイリスには雷などよりも怖いものがあるのだ。
ぎゅっと手を握ると、ウィルヘルムがその手を上から重ねた。宥めるように撫でられる。身を乗り出すようにアイリスを見たウィルヘルムとの距離は、思いのほか近い。
「アイリス、俺に隠していることはないか?」
ウィルヘルムが、真剣な声で問う。
雨風の音に紛れてしまいそうな小さな、潜められた声だった。
アイリスが誘われるように小さく口を開きかけた時――地面を裂くかのような大きな雷鳴が落ちた。おそらく邸内のほど近く。下手をすると庭に落ちているかもしれない。
世界が白く弾けた。鼓膜が軋み、心臓の音だけがやけに鮮明に響く。その瞬間、アイリスは息をすることすら忘れていた。
しかし、その衝撃のおかげで正気を取り戻す。
今、無意識に言いかけた言葉をカラカラになった喉奥に押しやって、代わりの言葉を吐き出す。ほぼ無意識に、握られていたウィルヘルムの手を退けていた。
「そ、のようなこと、ございません」
アイリスがなんとかそう言い切れば、ウィルヘルムがじっとアイリスを見る。
目が合っているはずなのに、ぐにゃぐにゃと視界が歪んでいくようで、アイリスにはウィルヘルムがどんな表情をしているのかが分からない。見えているようで、見えていない。
それが何秒か、何分かの沈黙であったかも分からない。
「アイリス、知ってるか。お前、嘘つく時は瞬きが多くなるんだ」
「………そのようなことは、ありません」
「瞬きをしていたぞ」
「瞬きもしていないし、そのような癖もありません」
どうだかな、とウィルヘルムは軽い調子で笑う。
実際、その瞬きの癖というのが本当なのか、そして今アイリスが瞬きをしていたのかは分からない。
瞬きの癖なんて、少なくとも巻き戻り前では指摘されたこともなかったのだから。
ウィルヘルムはこういう、言葉遊びにも似た挑発をよくする人間だ。
むしろ自分が言った言葉での揺さぶられ具合や動揺を冷静に見ている。王族としての外交時もよくよく人を観察していた。
そんな男に、駆け引きで勝てる気がしない。しかし、はったりでもなんでも、心の内を暴かれるわけにはいかないのだ。
「まあいい。少し膝を貸せ。ここ最近、新法の制定などで疲れてるんだ。少し寝る」
「そんな……こんなところで……体を休めるのなら、王宮に帰ってからの方が……」
「どうせこの天気だ、落ち着くまでは帰れん」
そう言って、アイリスの返事を聞かずにウィルヘルムは投げ出すように体を横たえる。
猫が気まぐれに甘えるように、ぼんやりとした顔でアイリスの細い銀の髪を指先で遊ぶ。
「ジークがやたらと身を乗り出しててな。絶対に法案を通すから、手を貸せ知恵を貸せと煩いんだ。俺をあんなに扱き使えるのはジークだけだ」
「……双子の弟ですもの。殿下の限界や能力など、信頼なさってる故でしょう?」
「――随分、聞き分けがいい。もっと会えないことえの文句でも語るかと思ったが」
ウィルヘルムが皮肉げに片方の口を上げる。
猫の機嫌は急降下したらしく、そのまま鼻で笑ってからもう何も言わず、彼は目を閉じた。
ソファからは脚がはみ出てとても寝心地はよくないだろうに、アイリスの動揺を置いて早々にウィルヘルムは寝息を立てた。
膝に婚約者の顔。
一見すると仲睦まじい婚約者同士そのもののようであるが、アイリスとしては懐かない猫がふらりと気まぐれに擦り寄ってきたような感覚だ。
落ち着かない。気恥ずかしい。
しかし本当に疲れているような様子のウィルヘルムを退かす気にはなれず、手持ち無沙汰に長めの前髪を払うように撫でた。
ウィルヘルムの意志の強さをそのまま思わせるような黒くまっすぐな髪の間に、眉間の皺が寄っている。
この雷が去るまで。雨が遠ざかるまでの間だけ。
少しだけ笑いを漏らしながら、その存外幼い寝顔を眺めた。今だけ、今だけだと心の内で言い訳する。
そんなふうに甘やかな思いの反面、ウィルヘルムとのやりとりも回想する。
やはりアイリスが弱いと、ウィルヘルムが気にしてしまう。振り返ってしまう。隙を見せれば、強がる内面まで暴かれてしまう。
もっと強くならなくては。もっと自分を偽らなければ。
もっと、隙のない悪役令嬢にならなければ。
動揺も、困惑もすべて飲み込んで、しっかりと演じ切る。――この役を完璧に演じ切ったとき、未来は変わる。必ず。
少し青くなった唇を噛みながら、アイリスは強く思い直すのであった。




