三話 同じ記憶、変える未来
アイリスの記憶通り、その日の夕方にウィルヘルムは見舞いに顔を出した。
階段から落ちた出来事は、アイリスが九歳、ウィルヘルムが十四歳の時であったはずだ。
「アイリス」
――まだ、声変わり中の記憶よりも少し高い声。
アイリスを真っ直ぐに見つめる瞳。
二度と聞けないはずだった声が、当たり前のように自分の名を呼ぶ。
最期よりも随分と若い、しかし確かにずっとアイリスが共に歩いた人。もう二度と、会えないはずだった人。
ぐっと息が詰まる。涙がこぼれそうになるのを隠すため、アイリスは頭を手で庇うようにして下を向いた。
「ッ! 大丈夫か?! アイリス?」
「……っ、も、問題あり、ません。すいません……頭を、少し、打ったようで……まだ痛むのです」
言いながら深呼吸して衝動を耐える。
ちゃんと、頭が痛くて息が詰まっているように見えるだろうか。どうか胸の内の動揺に気付かないでほしい。
誰よりもアイリスの変化に聡かったウィルヘルムから逃げるよう、アイリスは顔を伏せたままにした。
「そうか、……あの時、庇えず悪かったな。痛いなら、泣いてもいいぞ」
「な、泣きません。………もう、幼子では、ないのですから」
言うと、少しウィルヘルムが押し黙る。沈黙が数秒過ぎて、アイリスは頭を上げないまま、そろりと視線だけでウィルヘルムを見上げた。
ウィルヘルムは真っ直ぐアイリスを見て、少し首を傾げていた。
あ、そうか……と思い至る。この頃のアイリスはよく笑い、よく泣く、感情豊かな少女だった。それをウィルヘルムは揶揄い、エリークが飛んでくる――そんなことを、よく繰り返していた頃だ。
当然、頭に外傷を負っているのであればウィルヘルムの見舞いの時には弱音を吐いて泣いていただろう。現に、一度目ではそうだった。
どくんどくんと、自分の鼓動が全身に広がる。
「泣きません。もう、幼子ではないのです」
宣誓するように、アイリスは今度は先ほどよりもはっきりと言う。それでも、声は僅かに端が揺れた。
ウィルヘルムはそんなアイリスの様子に軽く目を見開いてから、しげしげと見下ろす。
それから、アイリスの冷えた頬へ手を添えてふっと笑った。
「一昨日までびぃびぃ泣いていた子リスが、生意気を言う」
揶揄うように言いながら、熱を擦り付けるよう優しく撫でる。
その体温に泣きたい心地になって、アイリスはぎゅっと唇を噛み締めた。
ウィルヘルムはアイリスの怪我の具合を尋ね、しばらくは気遣わしげにアイリスを窺っていた。
打ちつけた頭はもちろんだが、踏み外した先に運悪く枝が落ちていたために脹脛にも外傷を負っている。脹脛に巻かれた真っ白い包帯に顔を顰めていた。
アイリスは言葉少なに、視線もきちんと合わせない会話をした。その様子をウィルヘルムは訝しんだものの、忙しい合間を縫っての訪問だったようで詳しくは突っ込まれない。
アイリスの冷えた手を撫でてから「また来る」と立ち去って行った。
ウィルヘルムが去ってから、アイリスは大きく息をついてソファに倒れ込むように背を預けた。
目をぎゅっと瞑って、衝動を耐える。そうしなければ涙がこぼれ落ちそうだった。
予想していたこととはいえ、生きているウィルヘルムの姿に胸が詰まってしょうがない。
十四の彼は、あんなにも幼く、あどけなかったのか。頬が熱い。
色んな感情が溢れ、しばらく拳を握って、湧き上がる感情を堪えた。
そうして、拳を開く。
ウィルヘルムが来る前に書き進めていたノートを開く。巻き戻り前の記憶を手繰り寄せながら、また紙に書きつけていく。殴りつけるような勢いで、とにかく思い出せる一言一句を全て書く。
手が回想に追いつかないのがもどかしくて、涙が滲んだ。震えそうになる指先を、ペンで押さえつけるように無理矢理動かした。
もっと、もっと、もっと! もっと思い出せ!
思い出すもの詳細に、確実に、取りこぼすことなく! 全て! 全て書き抜くのだ!
必ず守る。私の手でウィルの、体温のある未来を。あの温かい手を。もう失わない。そのためなら、この世界の理など、いくらでも踏み潰してみせる。
「アイリス? あいつに何かされなかったか?」
そうしていると、不意に部屋のノックがされたため、体を正し、ノートを閉じる。
顔を出したのは兄であるエリークだ。
ベッドで休んでいると思っていたのに、ソファにいたアイリスに少し眉根を寄せながらも駆け寄る。
エリークは妹想いではあるが、愛情表現が過剰だ。アイリスとウィルヘルムの婚約者としての逢瀬にも三回に一度は乱入してくるし、何かにつけてウィルヘルムに突っかかっている。
王太子を「あいつ」呼びするのは、公爵令息ならびに同い年の幼馴染だとしても、だいぶ不敬だ。
アイリスは苦笑して兄を見上げる。
「忙しい中、お見舞いに来てくれた殿下に失礼ですよ、お兄様」
「失礼なもんか。アイリスも目覚めたばっかで疲れてるっつうのに押しかけやがって。あいつら王族ってのは根っから傲慢なんだよ」
「実際、偉い立場なのですから、しょうがないですよ」
言えば、エリークが少し動揺したように目を見開く。
「……なんか、一気に大人びたような言い方するな……? というか、こんな時まで勉強なんかするなよ……もっと休め」
アイリスは答えずにゆっくりと笑う。
それがどういう表情に見えたのかアイリスにはわからなかったが、目の前の兄の混乱は深まったのは表情でわかった。
ふっと窓枠に目を向ける。
秋から冬に変わろうとしている、乾いた風がカタカタと窓枠を揺らしているのに目を細める。
九歳の、秋。
学園生活が始まるのは十五歳の秋だ。あと六年。
あの女との再会が六年後。
そして、あの女の言っていた「シナリオ」が終わるのが学園卒業時。それまでに準備しなければいけない。全ての舞台を整えなければいけない。あの女が言っていた、「悪役令嬢」に成り切らなくてはいけない。
「お兄様、私、今まで以上に勉強を頑張ろうと思います。知識は力ですから」
今度は兄の方を見ずに、独り言のように言う。
だが、傍らに座り続け、アイリスの様子を気遣わしげに見ていた彼が、声だけでも分かるほど困惑したような声で「……いままでだって、アイリスはがんばってる。無理するなよ……」と呟いた。
優しい兄。優しい家。優しい時間。
九歳の自分は、この公爵家が大好きだった。けれど、もうそれも終わり。守られているばかりの子供時代はもうお終い。
涙を拭ってもらう幼さは、もういらない。
アイリスは何も答えず、ただ窓を見た。
秋の花はとうに散り、冬に備えるように葉は紅葉している。寂しく葉を風で揺らす。直きすぐに、それは落ち葉となって地面に沈むだろう。




