最終話 アイリス
幸せを形にしたら、きっとこんな形になる。
俺は本気でそう思った。
▽▲
アルガード公爵家に第二子が生まれた。
長男エリークとは五歳差になる長女だ。
アルガード公爵家は数十年ぶりの王家の血が全く入っていない、陞爵によって公爵家になった家だ。堅実な領地経営と、災害があったような他領への資金提供なども行うため国内人気が高い。そのため、王家への離反を防ぐ策として「アルガード公爵家に長女が生まれた場合、特例を除き王族に嫁がせること」を約束されていた。そして順当に、歳の差も気にならない女児が生まれたのだ。内々に、けれど確実に囲い込みがされ――いずれ、俺の妻となる。
と、当時の俺はそこまでの政治的理由を分かっていたわけでない。
ただ、うっすらとその赤子が将来俺の婚約者になるだろうことは分かっていた。
そして、同級であるエリークがあまりに生まれたばかりの妹に心を向けていたから、興味が湧いた。それだけの理由だった。
そうして出会った赤子は、信じられないくらい小さかった。公爵夫人の腕に抱かれ、とんとんと背を叩かれる。足を畳むと、夫人の上半身に収まるほどだった。
その小ささにたじろぐと、夫人は柔らかく笑う。
「よかったら、抱っこしてくださいますか?」
その問いに躊躇う前に、隣にいたエリークが反発した。
「ウィルはだっこなんてできない!」
そう勝手に拒否をしたものだから理性よりも意地が出た。確かに赤子なんて触れたこともなく、抱くなんてしたこともなかったのに。エリークが「信じられないほど小さくて柔らかいんだ」と誇らしげに語ってたのが思い出されたのだ。触って、みたくなった。
恐る恐る夫人から赤子を引き受ける。やはり小さく、柔らかく、そして温かい。慣れない手つきで赤子を抱き込むと、優しい匂いがした。
腹が膨れた直後で笑う赤子はすやすやと眠っている。たまに、むずがるように額を胸に擦り付けてきた。
こんなに小さいのに、それは確かに懸命に生きていた。
「まだ、首も据わっておりませんから、横抱きがよろしいですよ」
夫人がそういうので、言われた通り横抱きにする。
顔がよく見えた。小さいが、手足はぷくぷくと丸く、頬もふくよかだった。つついてみる。そうすると、反射のように口が動く。
ふっふっと息を漏らし、瞼をうっすらと持ち上がった。泣くか? とぎくりと身構えたが、薄く開いた目は俺を捉えると――笑った。
薄い紫の目は、室内に優しく届く射光でもきらきらと輝く。どんな宝石よりも美しく。それを見ているだけで、胸の奥が痛くなるほどに愛しいと思った。
そのまま、赤子の手が伸びて、俺の頬へ無遠慮に触れる。手が届いたのが嬉しいというように、キャッキャと笑う、無邪気な声。
「あら、殿下が気に入ったのかしら」
「ちがう!いつもあれくらい機嫌がいい!おれがだっこした方が気持ちよさそうにしてる!」
夫人は柔らかく笑い、エリークはむきになって俺の腕から赤子を奪おうとする。それを無視して、俺は夫人を見た。
「名前は、なんて言うんだ?」
初めて守りたいものができた。
守るべきものができた。
そう思った。
力もなく、ただ手が触れただけで無邪気に笑う、幸せそのものを吸い込んだような赤子。俺に、人生ごと捧げられた存在。
俺は生まれた時から「王になる」と教えられていた。
守るのは国であり、民であり、象徴。
……けれど今、腕の中の命を前にして、そんな理屈は霧のように消えた。
不意に、笑っていた顔が真っ赤に染まり、ふるふると音もなく震え出す。と思ったら、爆発するようにふぎゃあふぎゃあと泣き出した。一生懸命、足をバタバタさせながら。
「あー!ほら!ウィルが泣かせた!」
「こらっ、エリーク!……ああ、いいんですよ。殿下。赤子はそれでいいのです。力一杯笑って、力一杯泣く。嘘がない分、全力なだけです。まだ自分の痛みの形も知らないから――泣くことでしか、不安を伝えられないのです」
夫人が、優しく俺から赤子を取り上げようとするが、反射的に首を振る。小さな体をぎゅっと抱え直すと、夫人は少し驚きながらも優しく笑って、俺の腕の中にいる赤子の頭を優しく撫でた。
赤子は、ぱたぱたと力一杯手を振り回す。その小さな手に、指先を伸ばす。そうすると、ぎゅうと指を握られる。それだけでいたく胸が震えた。
赤子が、支えを見つけたように泣き声を小さくしていく。
「可愛い、……可愛いな」
先ほど火がついたように泣いていた赤子は疲れたとでもいうように、寝息を立て始める。思わず、笑みがこぼれた。
「アイリスと言うんですよ」
「……アイリス」
染み込むように、溶け込むように。
俺はまるで心に欠けたピースがはまるような思いでもう一度、赤子を抱き直した。
ずっと、そうしていた。そしてこの時に、俺は――生涯をかけてアイリスを守ると決めたんだ。
抱き上げたその瞬間の温もりを、何度でも思い出す。
たとえ時を越え、世界を越えても。
俺はきっと、またこの笑顔を見つける。
お前の笑顔を曇らせるものを、俺はなにものであろうと許さないだろう。お前だけを慈しみ、お前だけを守ろう。
弱くて、小さい。
けれど俺の生きる意味となった強い光。
お前を。お前だけを。
end.
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