十八話 白い式日
扉が静かに閉じていくように、時間は滑らかに流れていく。死と狂気の底まで潜ったはずなのに、今日の朝はどこか眩しい。
「アイリスは本当に男の趣味が悪いな」
自室の片付けをしているアイリスに、仏頂面でエリークが言う。扉を開け放したまま、エリークが大股でアイリスの前に立った。
アイリスの手にある、枯れたようなドライフラワーを不機嫌そうに見る。しかし、捨てろとは言わない。アイリスは、兄のそういう甘やかし方に救われてきた。
「お前ならもっといい男がいるだろうに」
「王族ですよ?」
「もう臣籍降下する」
フン、と鼻で笑いながらエリークが太々しくソファに腰掛けた。兄らしくもない乱雑な所作である。
思わず笑ってしまうと、その頬を撫でるよう優しい風が室内を抜けた。はためくカーテンを見ながら、アイリスは目を細める。
――こうして笑っている時間が、もう怖くない。
かつて未来は死と同義だった。
でも今は違う。
明日を考えてもいい。
この先を望んでもいい。
そう思えたのは、誰かのためじゃない。
ようやく、“自分のため” に未来を望めるようになったからだった。
「お兄様」
エリークの肩が、少し跳ねる。この部屋に入ってきてから、エリークの目が赤くなっていることに、アイリスは気付いていた。
聞きたくないことを、わざわざ聞きに来てくれたのだ。アイリスの決意と別れの内容を、兄はもうわかってる。
兄は昔から優しかった。五歳離れたアイリスを可愛がり、時に叱り、抱きしめて手を伸ばしてくれた。昔からアイリスをいじめる輩は追払ってくれた、それが例え王太子であろうとも。
あの卒業パーティーでも、エリークはウィルヘルムを殴りつけたらしい。アイリスを泣かした奴は兄として殴る、そんな単純な理由で。王族相手に、周りが制止するのも構わずに。
アイリスはしばらく言葉を探したが、結局取り繕わないことにしてそのまま思ったことを口に出す。だって、二人きりの兄妹だから。
「ウィルはね、私のためだって思ったなら、私を本気で傷つけることも厭わないんですって」
「あいつは傲慢で自分勝手だからな」
昔からの兄の口癖だ。アイリスは小さく笑う。
「……それは、捨てないのか?」
手元のドライフラワーを見ながら、エリークが声を顰めていう。アイリスは軽く首を振った。
「ウィルの方が、捨てるなって言ったの。持ってこいって」
粗末な花を捨てなかったのは決して当てつけなどではなかったけれど。
ウィルヘルムはアイリスがあの時渡した野花をまだ持っていることを知ると、顔を顰めながらも言ったのだ。それごと貰い受けると。傷つけた証も、それを受け止めたアイリスの愛も、全て。
――ウィルヘルムは一連の処理が終わった後。
アルガード公爵家に訪問し、頭を深々と下げた。アイリスに対し、不誠実なことをして悪かったと真正面から詫びたのだ。
息を呑む父母を置いて、エリークはウィルヘルムを殴りつけた。ウィルヘルムは酷く不快そうに「お前からはすでに殴られたが」とブツクサと呟いたが、反抗することもなく殴られ続けていた。慌てて父が止めはしたが。
ウィルヘルムは改めて、今回の沙汰を説明した。ミラベルが処刑されたことも含めて。
しかし、王家の秘宝を使ったことは言うわけにはいかなかった。そのため説明は断片的に「ミラベルを油断させ確実に捕縛するため、アイリスにあえて冷たく接した」とした。その上で「今はアイリスと和解したため、予定通り娶りたい」と父の目を真っ直ぐ見て言う。
父は苦い顔をして、「もうこれ以上、アイリスには王族の都合で苦労をさせたくない」と一旦退けた。しかしウィルヘルムは「そのために、王籍を降り、公爵位を得た。アイリス以外、私はいらないのです」と間髪入れずに返す。
その決意と潔さに父は呆気に取られ、母は僅かに黄色い声を出し、アイリスは赤面した。一拍置いて、エリークは息を呑んだ。
意外にも、次に口を開きアイリスとの婚約を渋々と認めたのはエリークだった。
エリークはアイリスの表情だけ見ていたから。そしてそれ故にウィルヘルムを認めたのだ。それが全てだった。
そんな、――つい先日のやりとりを思い出しながら、アイリスは薄く笑んだ。
「……お兄様はいつだって私の味方でした。お兄様だけが私のヒーローよ」
冷たくなってしまった手で、エリークの手を握る。エリークはその手の冷たさを嫌がらない。
あの卒業パーティーで、誰よりも早くアイリスを抱きしめたエリーク。
きっと、ウィルヘルムはあの時、アイリスを抱きしめるのが誰か、知っていた。幼馴染で悪友だから、エリークの動きなど把握した上で動いたのだ。
だからウィルヘルムは容赦がなかったのだと。
もしくはそんなエリークの存在がいるから、アイリスは立ち直り、またウィルヘルムと歩めるようになったのだと。
そう言ったら、この兄は怒るだろうか、悲しむだろうか。
ウィルヘルムはエリークを信用していた。
アイリスはエリークに甘えられる。
それは、彼ら三人が幼少期からずっと一緒にいたからこそ得られた信頼。
「夫婦喧嘩しても、お兄様は私の味方でいてね」
アイリスが昔のように、ぎゅうっとエリークに抱きつく。
「当たり前だろ」その言葉を一言いうのに、エリークは随分と時間がかかった。喉に涙が絡んだせいだ。
それでも、ぐずぐずと鼻を啜りながらエリークはアイリスを抱きしめ返した。
「………ヴァージンロードを、一緒に歩くのは俺だからな」
「お父様が泣かれてしまいますよ」
兄の涙声に釣られるよう、アイリスの言葉の端が揺れる。
いつもアイリスを守ってくれたその肩に、額を擦り付ける。
「お兄様とローズの結婚式も、楽しみにしています」
いつも私ばかり気に掛けてくれたお兄様。どうか貴方も幸せになって。
そう、心を込めて。
「いってきます、お兄様」
もう私は、大丈夫だから。
▲▽
公爵邸で静かな別れの昼が終わり、日が沈みかけた夕方。
尊大で傲慢で自分勝手な元王子様は、不遜にアイリスを抱え込む。そうなるのが当然だったと言いたげな手で、アイリスの背を撫でた。
ウィルヘルムの寝室。これからは二人の部屋になる寝室。
そういう風に、二人きりになる時間は、音が沈むように訪れた。
向き合ったとき、触れられる前にわかった。
これはもう、奪うための手ではない。
「抱いてもいいか?」
たった一言で、あの日の全てが塗り替えられていく。
拒む自由も、応える自由も、ちゃんと用意された夜だった。抱きしめられた時の体温で、初めて “選べた” と実感する。
「そのために、ここに来たんです」
そう言って、アイリスはウィルヘルムの温かい手を取って、自分の頬を撫でさせた。
それから、少し噴き出すように笑う。
「だめ、ですね、私。まるで戦のように言ってしまって、少しも色気がない」
言えば、ウィルヘルムが珍しいくらい分かりやすく、甘く笑った。
「いや……お前が選んだなら、それで十分だ」
そう言って、熱を分け与えるよう、アイリスの唇にキスをして、ゆっくりとその背をベッドへ沈めた。
アイリスの銀髪が白いベッドに散る。
新雪に足をそっと踏み入れるような高揚感があった。ウィルヘルムはアイリスの前開きのナイトガウンに手を伸ばし、そっと開く。その下は薄く心許ない肌着があり、ほとんど素肌に触れるようなものだった。
透けるような素材のナイトドレスの上からそっとアイリスの胸へ手を伸ばす。心臓そのものに触れるように。
ウィルヘルムはアイリスの吐息ごと食べるよう、唇を押し付けるようなキスを繰り返した。
「……っは、経験は思い出としてあるのに、体は初めてというのも、妙な心地だ」
「………ウィルも、今生で初めてなの?」
「当たり前だろう、お前、俺がどれほど忙しい身だと思ってるんだ。ミラベルの処理、新法だの王位返上だのの準備で、ずっとここまで駆け抜けてきたんだぞ」
そういって、ウィルヘルムは付け足すように「そもそもお前以外を抱いたって何の意味もない」と呟く。アイリスは赤面して、その顔を隠すようウィルヘルムの胸元に顔を押し付けた。
少しだけ、二人の間に沈黙が落ちる。
「……なるべく、優しくする。前よりは、おそらく」
「別に、前の時と同様でもいいですよ」
「だめだ」
そういって、ウィルヘルムは不機嫌そうに唇を塞いだ。
本当に、前の生の時と同様全てを奪うような性交でもいいのに、とアイリスは思う。
嬉しかったから、ウィルヘルムがそこまで熱くアイリスを求める姿が。
だが、ウィルヘルムは自身を落ち着けるよう大きく息をつく。
「……怖くはないか」
その声音は、いつかの“奪うための声”じゃなかった。触れる前に、まず気持ちを確認しようとする、そんな優しい迷いだった。
アイリスがウィルヘルムに触れられた中で怖いと思ったのは、学生時代の襲撃前後のふれあいの時だけだ。それも、ウィルヘルムは分かった上で聞いている。
アイリスは、ごく小さく息を吸う。胸の奥に残ったわずかな緊張が、まだくすぶっている。
「……あの頃は……少し、怖かったんです」
「……お前が、意地を張るからだ」
ウィルヘルムの眉が、かすかに寄った。
言葉だけ聞くと、不遜で、アイリスの意思を無視しているかのようだ。でも、アイリスはもう思い出していた。この人と話すのに必要なのは、表情を見ることでも、言葉を反芻することでもない。瞳の奥を覗き込むこと。深い深い、森の奥深くのような緑の目。それと目を合わせるだけでいい。
アイリスの視線から、流れるようにウィルヘルムが目を逸らした。
本当に、視線だけが素直な人。アイリスが小さく笑う。
「今は……私だけじゃなくて、ウィルも、必死だったって……やっと思えるようになったから」
言葉にするたびに、胸の奥に溜まっていた硬いものがひとつずつ落ちていく。
アイリスからしたら嵐のように訪れた圧倒的な体への懐柔、しかしウィルヘルムからしても決して本意ではなかっただろう。理由も告げず、ただ離れようとしたアイリスにウィルヘルムも必死だった。
お互いに意地を張った、それだけのこと。
アイリスは謝らない、ウィルヘルムも謝らない。もう、それでいいのだと思えた。
ウィルヘルムはアイリスの頬に触れた。その仕草は恐れるように、悔いるように、そっと。
「……アイリス。痛い思いも、苦しい思いも、もうさせたくない。お前が望むなら、この夜は……ただ抱きしめて眠るだけでもいい」
その言葉を聞いた瞬間――緊張が、すっと解けた。
ああこの人は、あの世界を思い出したまま、まだ私を大切にしようとしてる。それが胸に溢れて、自然に笑みがこぼれた。
「怖くないです。もう、大丈夫。……ウィルだけが、その権利があるでしょう?」
ウィルヘルムの肩が僅かに震えた。
アイリスの言葉が、彼の長い孤独を溶かし、目の奥が熱と安堵で揺れる。
一度、アイリスが縋るようにヴィルヘルムの指先をするりと撫でた。
ウィルヘルムはアイリスの髪を梳き、耳元に唇を寄せる。熱が落ちてきた。その度にアイリスの背中が小さく弾む。
「……好きだ、アイリス」
その一言で、空気が変わった。
頬に、額に、まぶたに、ゆっくり、丁寧にキスが落ちていく。
キスが深くなるたびに、アイリスの肩の力がするすると抜けてゆく。
アイリスは導かれるようウィルヘルムへ手を伸ばすが、握る前に彼の手が止めた。
「いい、触るな」
「……でも、わたし、ばっかり」
「余裕なんかない。お前が積極的になると男として情けないことになる」
予想外の言葉に、ぽかんと口を開く。
アイリスの間の抜けた顔を見ながら、ウィルヘルムは薄く笑って首を振った。
「……お前はよっぽど、俺を余裕のある男だと思ってるようだが、お前に対して余裕があったことなど、一度もない」
それこそ、前の生の時の無様な初夜のように。
……いや、今はそれ以上かもしれない。失うかもしれないと思ったアイリスが、今やっと全て戻ってきたのだから。
ウィルヘルムに、王妃アイリスが抱えた絶望は分からない。彼が死んだことで狂った最期を見てはいない。
しかし、アイリスだって、この生で訳も分からないままウィルヘルムから離れていこうとしたアイリスへの絶望や耐え難い怒り、――悲しみを、理解できないだろう。
暗闇の中、存在を確かめるようにただ名前を呼ぶ。
頭でだけは覚えていた快楽の記憶に、体が追いついていく。お互いに初めてな二人なのに、不慣れではない。数えきれないほど重ねた、躰。
合間、ウィルヘルムが願うようにアイリスを見つめた。
「……アイリス。できれば、子を産んでくれ。前の生の時はそれができなかった」
小さい声でウィルヘルムが語る。
前の生の時、前王が逝去して直ぐにウィルヘルムが世襲したために常に互いが忙しかった。共寝はしていたが、タイミングからか子供に恵まれることはなかった。
ただ、二人は焦ってはいなかったのだ。まだ即位して間もない上、これからの時間はまだまだ続く。今焦らずともいずれで良い。
周りには子を望む声はあったが、側近連中ももう少し落ち着いてからでも良いと言われていた。ならば二人で過ごす時間を大事にしよう、と。
その時は、そんな風に話していた。
あの時、子供がいたら。
何か未来は変わっていたのだろうか。
考えてもしょうがない、たらればの話。
アイリスが思考に耽りそうになった時、ウィルヘルムがぽつりと溢す。
「お前の子を、抱きしめたい」
そういって、ウィルヘルムは新緑の目に、涙を滲ませた。それは、前の生を通しても見たことのない――優しい、涙だった。
言葉を返す間も無く、キスが落とされた。
荒い息が漏れ、汗が落ちる。
手を繋ぎ、そっと身を隠すように抱き合えば、意味もわからず涙が溢れた。幸せだ、とそれだけが心に満ちる。
そして、二人の距離が完全に溶けた。
▽▲
綺麗に飾り付けられたアイリスの真正面を陣取るように座るウィルヘルムは、眩しそうに目を細めた。
二人の結婚式当日、一度目の人生の式ほどの厳かさはない。目立った国賓客もおらず、警備も物々しさはない。国王と王妃、披露目の意味の方が強かった結婚式ではなく、結婚を祝うための式はどこか気恥ずかしいものがあった。
意味と格式をいちいち考えるのではなく、アイリスの好みも取り入れた式。ウィルヘルムはとくに大きな要望は言わなかったが、澄ました顔で「アイリスの花をテーブルに」と言っただけだ。……いちいち顔を赤くしてしまう自分を恨めしく思う。しかもアイリスの瞳と近い薄紫色の花だけは、自分の机の周りにしか置かなかった。その並々ならぬ執着心を感じ、少し背筋が伸びたが。
あとは入場だけ。
そんな僅かな本番前の時間。
飾り付けを手伝った使用人たちは既に席を外し、二人だけの時間を作ってくれていた。支度室のガラス張りの大きな窓からはカーテンが開かれている。清々しいまでの青空と、大きな陽の光が白く部屋を照らした。
窓から鳥が羽ばたく音が聞こえ、アイリスが追うように目を向ける。ざわりと、木陰が揺れていた。
輪郭を縁取るように淡い陽光に照らされたアイリスの横顔を掬うよう、ウィルヘルムが指先で触れる。逆らわず振り向くと、そのまま音もなく自然に唇を落とされた。
「……お前は、白が似合うな」
「………あんまり、言われたことがないです。黒とか、暗い色やはっきりした色の方が映えるとは言われておりましたが」
「お前が下手に悪役ぶるからだ。似合ってもいないのに」
そういって、ウィルヘルムは皮肉げに口の片方を持ち上げた。
「白が一番、似合う」
そういって、胸元に編まれた白い華奢なレースをウィルヘルムは手繰り寄せるように触る。
レースの際の素肌も、鎖骨もついでに触られて軽く肌が粟立った。
「ウィル、ちょっと……」
「けど、まだ細いな。もっと食え」
「………もう少し太い方が好み?」
「お前が減るのが嫌なだけだ」
そう言って、ウィルヘルムがぐりぐりとアイリスの胸に頭を押しつけた。
それだけで心臓が落ち着かなくなる。そんな自分を誤魔化すように、アイリスが「ウィルっていつも余裕綽々でムカつくわ」とぼそりも零す。
色素が薄い肌では、顔を隠しても赤い耳がその銀髪からよく見えた。
ウィルヘルムは短く息をつきながら、アイリスの手を取って己の心臓に導く。
それは、明らかに常ならぬ速さで鼓動していた。
ひゅっとアイリスが息を呑むのと同時に、ウィルヘルムは些か臍を曲げたような声を出す。
「何故お前が頑なに認めないのか分からんが、俺ほど余裕のない男も珍しいと思うが」
「あ、あなたは、表情に出にくすぎます」
ぼそりと、零すようにウィルヘルムが言うのにいよいよアイリスは耐えきれなくなり、背に回した手に力を込める。
ウィルヘルムは一拍置いて、その手を優しく解いてアイリスを真正面から見下ろした。
「……綺麗だ、アイリス」
もう一度、今度は先ほどよりも強く唇が押し付けられた。
ゆっくりと惜しむように唇が離される。
誤魔化すように、「口紅が取れてしまいます」といっても、ウィルヘルムは笑みを深めるばかりで言葉は返さなかった。
そのまま、手袋を嵌める前のアイリスの素肌の手をするすると撫でる。冷たいアイリスの体温に、自分の体温を分けるよう。擦り付けるよう。
「いこう、アイリス」
「ええ」
伸ばされた手を取る。
同じ歩幅で歩く。
二人で前を向く。
開け放たれた扉をまっすぐ向かう。もう、歩みを止めることも後ろを振り返ることもない。白い光が、二人の未来を包んでいた。




