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十七話 円環

静寂は、死体より重い。


地下の拷問室は、元より音を吸うようにつくられている。

壁は石灰で塗り固められ、鉄格子には手垢すらついていない。

血の跡も、呻き声も、記憶さえ残さないように磨かれた場所だった。


縄で縛られ、猿轡を噛まされ、ミラベル・ウッドウェイは椅子に括りつけられていた。

泣き声も喚き声も許されない。ただ怯えた目だけが、ぎらぎらと湿って動いている。


対面には、ウィルヘルム。

足音は一定。感情の波形を持たない歩みだった。

彼はミラベルを見下ろし、ほんのわずかに吐息を漏らす。


「……お前の“シナリオ”とやらが狂ったのは、お前自身のせいだ」


ミラベルの喉が震える。

猿轡越しに何かを叫んでいるが、意味はない。


「異物を混ぜたのはお前だ。歯車がずれたのは必然だ。“運命を知っていた”と誇るなら、その結果も飲み込め。お前はここを現実と思わなかったらしいが、お前がした“現実”は一つだ。薬物中毒者を多数出し、試験で一人を殺した――それだけだ」


淡々と告げる声音は、怒りよりも遥かに低かった。


「アイリスはお前の言う“転生者”ではない。記憶の保持も、予定調和の破綻も……すべては俺の意思で起きたことだ」


近づき、猿轡に触れもしないまま、冷たく目を細める。


「お前程度の小物に怯えるあいつも悪くないが、やっぱり駄目だな。俺以外に感情を揺さぶられているのを見ると、辛抱できない」


一拍置いて。


「一秒でも早く殺せ」


それだけ言うと、背を向けて部屋を出る。

扉が閉まる音は、葬送の鐘より静かだった。



残されたのは、ミラベルと、もう一人だけ。


ジークフリート。


ウィルヘルムとは違い、笑っていた。だがその笑みは、温度を持たない。

ミラベルの口から猿轡を外すと、溢れるように絶叫が飛び出す。


「い、いや!! なんで!? どうして!! ……どうして! 攻略は上手くいってた! 好感度上げも! 私は“ヒロイン”なのよ!?」


甲高い声で、狂ったように喚く声は濁流の如く塞がらない。

それをあえて、ジークフリートは止めはしなかった。


唇を震わせ、怪物を見るような目でジークフリートを捉える。

正気が失われていく目で、女は叫ぶ。


「そっ、そもそも、あんたは誰なの!? ウィ、ウィルには双子がいるなんて設定なかった! 誰よあんた!? 存在しないキャラが混ざってるのおかしいでしょ!!」


ジークは少しだけ眉を上げる。笑みを深めながら。


「へえ……存在しないはず、ね。それはおもしろいな」


視線が冷えた水銀のように透明になる。

おもしろい推理小説でも読んだかのように、ジークフリートはゆったりと喋り出す。

その間も、ぎゃあぎゃあと喚く女の様子を気にも留めず。


「じゃあ逆に考えよう。――ウッドウェイ嬢が知っていたという“運命の台本”に私は最初からいなかった。つまりその時点で、シナリオは破綻していた」


真っ白な紙にぽたりと黒の絵の具を垂らすよう、毒の言葉が広がっていく。

静かな語り口に、ミラベルは徐々に勢いを失っていく。


ついには震えて押し黙るミラベルに、ジークは丁寧な声で続けた。


「つまり負けるために生まれてきたんだよ。台本に、勝利条件がなかったんだ」


ミラベルの顔から血の気が引いていく。

それを眺めて、ジークはわざと大げさに両手を上げておどけた。


「まあ、何はともあれ……もし間違って義姉上を害していたら、殺してもらえなかったと思うよ?」

「……え?」

「苦痛も絶望も、“生きている間に”しか与えられないからね。そういう意味では君、幸運だった。楽に死ねるんだから」


怯える女に、静かに微笑んで。


「よかったなあ、ウッドウェイ嬢。ハッピーエンドじゃないか」


そして最後に、ふっと首を傾ける。


「なあ、最後に教えてくれ。ミラベル・ウッドウェイ。お前は結局、何者だったんだ?」

「――ッいや、いやよ! いやいやいやいやいや! こんなの間違ってる! ウィルは私にあんな顔をしない! 私は愛されて当たり前で! 課金アイテムだってそこにあるんだから使っただけ! モブなんか死んだことにもならない! なのに、なんで! どうして!? いやッ――」


ジークフリートの質問に対する答えはない。期待などしていなかった。ただ、こんな浅ましい結末にすら“筋書き”を求める彼女が、心底哀れだった。

乾いた笑いを一つ落とし、彼は背を向ける。


閉じた扉の先、叫びは途切れ、音も感情も、すべてがそこで終わる。

ただ、何者にもなれなかった何かが“落ちた音”だけが残った。




▽▲


そうして、もう後に振り返ることもなく。

ミラベル・ウッドウェイの『処理』を適切に終えた二人は、またある種の現実に戻る。


執務室には、紙の擦れる音だけが落ちていた。

焦げた王国と、取り戻された未来。

その両方が積み重ねられた報告書が、机の上にある。


沈黙を破ったのは、ジークフリートだった。


「……言っていた通り、国は私が引き受けますよ。兄上が治めた方が民は喜ぶでしょうが」


書類から視線を上げず、淡々とした声。

それでも“決定”を告げる音だけは揺らがない。


「俺はもう、王冠より重いものを持っている」


ウィルヘルムは椅子にもたれ、穏やかに言った。


「俺にはアイリスが作った白詰草の冠くらいがちょうどいい。……王位は、お前の方が似合う」


ジークフリートの手が一瞬止まる。

それは、ウィルヘルムが“王”ではなく“男”として返した答えだった。


「……本気でそう思っているのですか?」

「今さら言うまでもないことだろう。俺は愛に死ぬ、愚かな王だ」


短い沈黙。

兄弟のあいだに流れるのは決裂ではなく、別々の矜持の確認だった。だからこそ、この国は二度と誰かの愛に殺されることはないだろう。

ジークフリートは書類を閉じ、ふっと笑った。


「あの人は……生き直せそうですか?」

「お前が残した道標がある。後は俺が導く」


静かに、なんの誇張もなくウィルヘルムがそう言った。

ジークフリートは、低く息を吐く。

笑っているのに、どこか救われたような顔だった。


彼女を実質的に壊したのはウィルヘルムだが、ジークフリートはそれを止めずに加担した。時戻りで死に戻った彼女が記憶を有していたら、おそらく誰の助けも求めないだろうことを予期しながらも。

現に、一度手を貸そうとしても彼女は本当の意味で助けを必要としなかった。やっとウィルヘルムと決別した後の未来を想像しただだけだ。結局、彼女がジークフリートに明け渡したのは今生だろうとそこまでだった。――あんなに深い愛情を抱えた彼女が、ウィルヘルム無しの未来なんて歩めようもないだろうに。

痛々しくて、そして彼女はどこまでも美しく気高い、王妃アイリスのままだった。


ジークフリートは、王妃アイリスの記憶を有した彼女をそのままにすれば、彼女という本質がバラバラになると最期を見て確信していた。しかしそれでも、王妃アイリスを無かったことにして、二人が歩んで欲しくも無かった。

彼女には、酷なことをしたと思う。けれどそれでも――二人を信じ、愛に託してよかった。


「そうですか。……なら、安心した」


ジークフリートが抱えた複雑な感情をそのまま受け止め、ウィルヘルムは立ち上がる。

ウィルヘルムがジークフリートの真正面に立ち、目を細める。ジークフリートは苦く笑った。


「あの女が、最後に言っていたんです。あの女のシナリオの中に、私という存在はそもそもいなかったんだと」

「……くだらないな」

「あの女の言葉など、大して意味はないと思っているんですが、なかなか興味深いと思いませんか?」


肩をすくめてジークフリートは冗談混じりに言ったが、ウィルヘルムは顔を顰める一方だった。

そう――あの女は確かに何かしらの特殊な知識を持っていて、この世界の上面を知っていた。


もしも女がもう少し賢かったら、この世界を現実だときちんと認識した上で正しく行動していたら、この世界の異物は自分の方だったのかも知れない――ジークフリートがそんな風に思考を巡らせているのを見透かしたよう、ウィルヘルムが低い声を出す。


「お前は何度もやりすぎだと責めたが、アイリスに枯れかけた野花を渡したのは、元はそういう女だったからだ。本来は野花だろうと花屋の花だろうと、垣根なく喜ぶ。公女だというのに、野原に座り込み白詰草で王冠を編んでいただろう?」

「……ええ、覚えてますよ」

「幾度か、お前にもあのままごとに付き合わせたな。……たまに、ジークとアイリスが、演奏に興じることもあった。アイリスはジークと似ているところがあるからな。随分気が合って……、妬いたこともある」


そういって苦虫を潰したように吐き出された本音は初めて聞くものだった。

確かに、たまに三人で過ごした時にはそうしてアイリスとジークフリートで演奏に興じたこともある。ウィルヘルムは大体聞き手だった。ただ静かに目を閉じて、たまに本当に寝こけていた時もある。

その穏やかな思い出の中で、そんな風に思っていたなど知らなかった。


締め切っていたはずの室内に風が通った気がした。鼻の先に、僅かにありし日の白詰草の匂いが蘇る。

ジークフリートは座ったままの体勢で、ただウィルヘルムを見上げることしかできない。


「ヴァイオリンでも野花でも、なんでも良かった。思い出して欲しかった。アイリスに、自分の性根を。ただ、あれは存外頑固だったな」

「そう、……そうです、ね。義姉上は、頑固な方です」

「その頑固さで今生でも……巻き戻り前でも、随分お前に迷惑をかけた」


――そう、彼女は頑固だった。頑なだった。一途であった。

最期まで。愚かなほどに。

でもだからこそ、守らねばいけないと誓ったのだ。


ジークフリートの喉に、塩辛いものが広がる。


「ジークフリート王太子殿下。貴殿に生涯の忠誠をここに誓おう」


そう、兄が――元王太子が膝を折り、頭を垂れる。ジークは呆気に取られ、二の句が告げなかった。

ウィルヘルムは、そんな片割れに小さく笑う。


「ジーク」

「……なん、ですか?」

「俺は三人で過ごしたあの思い出を生涯忘れない。――お前が、いてくれてよかった」


ジークフリートは一拍、目を伏せて――片手で顔を覆った。震えながらも、小さく頷く。言葉はなかった。


震える手が、机の上の書類を掴んだ。

白い紙の上で、黒いインクが滲んでいく。


その滲みは、二人だけが知る再出発の朝を描いていた。

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