十六話 おかえり
風が違う。
そう思った瞬間、胸がざわついた。理由は分からない。ただ朝の陽を浴びただけなのに、どこか一度失った季節をもう一度やり直しているような、“戻りすぎた”感覚があった。
胸の奥で、何かだけが途切れずに軋んでいた。
忘れてはいけないものを、忘れている気がする。置いてきてはいけないものを、置いてきた気がする。世界は正しく動いている。けれど決定的な違和感があるのだ。
理屈では説明できない違和感ほど、王族にとって忌むべきものはない。けれどその朝だけは、理屈などどうでもよかった。心臓だけが先に、世界の変化を知っていた。
焦燥。揺らぎ。既視感。回収しきれない記憶の断片。
――アイリス。
アイリスが、違うのだ。
世界のどこにも、お前がもういないような。
けれど同時に、まだどこかで立ち尽くして泣いているような。なのに——今のお前は、まるで違う方を向いて立っている。
幼いまま泣き崩れていたアイリスと、何かを終えてしまった後のような今のアイリス。どちらもお前のはずなのに、どうして分かれてしまっているよう見える?
——俺はどこへ手を伸ばせばいい? 違う、何故、お前は俺に手を伸ばさない? 助けを求めていないんだ?
お前は、俺のものだったろう、アイリス。
取り戻さないといけない。無垢だったアイリスをこの手に戻さなければいけない。あれはあんな風に感情を抑えて冷たく立つばかりの女ではない。
笑い、泣き、その感情全てを自分に傾けていたのだ。疑いもなく。それを今更手放せるわけもない、あまりに馬鹿げている。
だから諦めず疑い続けた。見つめ続けた。
そうして、この世界が巻き戻っていることに気づく。
気づいた瞬間、駆け出していた。
夜明け前、走って向かった先で、片割れの双子と答え合わせをする。
――そして夜が明け、新しい朝に手を伸ばすことができた。
▲▽
白日の光が、アイリスの輪郭を白く浮かび上がらせた。アイリスの目から、ぽたぽたと涙が零れ落ちる。
ずっと失ったと思っていたウィルヘルムがいた。巻き戻ってからは違う人生を歩み、同一ではなかったはずのウィルヘルムが、そこにいる。
アイリスが守りたかった人。前の生から繋がった、彼。
記憶を持った、アイリスのウィルヘルム。
落ちる涙とともに孤独が溶けていく。
「な、なんで! なんで!! 庇ったの! 私を! 私なんかを!」
——気がつけば吐き出していた。
その胸を叩きながら泣き叫ぶ。ずっと言ってやりたかった。ずっと責めてやりたかった。
なぜ私を取り残して去ったの。貴方がいない世界に、どうして、と。
……すぐに後を追ってしまいたかった。
でも、それもできなかった。ウィルヘルムが最期に遺したのが、アイリス自身だったから。
ウィルヘルムはアイリスの止まらない涙を指の腹で拭いながら、愛おしそうに抱き込んだ。
「本当に馬鹿な女だ。お前は。庇った理由なんて、愛してるからに決まっている」
言えば、アイリスがひくりと喉を鳴らして固まる。嗚咽に震える小さな肩、下を向き唇を噛み締める顔。大粒の涙。
ウィルヘルムはよく理解している。この世界で彼女の体は華奢で柔らかく、小さいということを。しかし前の生の時よりも更に一回り小さくなった気がした。そのくせ、泣き声は噛み殺してしまう。
「一度目の時より、可愛げがなくなった」
「……可愛いなんて、一度も……っ言ったこと、ないくせに」
「お前が覚えてないだけだろう?」
そう言って、薄く笑い——次の瞬間、アイリスを抱きしめ直した。
「ただいま、アイリス」
“おかえり”と言おうとしたけれど、結局それは形にならなかった。
大粒の涙が溢れて、言葉を形どるのを邪魔したから。代わりにアイリスは、その指先を握る。移る体温で伝わればいいと思って。
酷い男は薄く笑って、キスをした。
「お前の体の低温さは、時戻りをした代償だ」
「時戻りの、代償……」
「ジークが使った時戻りは二十年前に戻ること。代償に、巻き戻り前の生と巻き戻った後の五感の一部が失われる。俺たちは双子だからな、片目ずつで分散されたわけだが」
しばらく二人は沈黙のまま抱き合っていたが、やがてゆっくりとウィルヘルムが話し始めた。その間、手がアイリスのそこかしこに触れてくる。今のアイリスを確かめるように。
細い首筋に熱い手が触れ、思わず身震いする。しかし、アイリスは無防備に体を晒し、怖がることも拒むこともなかった。愚かなことだ、とウィルヘルムは思いながらも、何も指摘はしない。
アイリスはウィルヘルムの言葉を一つ一つ噛み締め、はっとして顔を上げた。
「ウィルの視力がないのって、左?」
「右だが?」
「……貴方、いつも私を左に置きたがる。見えない右の補助には、なれないの?」
「俺が右に置くのはジークくらいなものだ」
敵は死角にいられては困る。
アイリスは、守れない位置に居ては困る。
そこには明確な違いがあったが、何やら軽く落ち込み始めたアイリスに、あえて教えてやりはしない。
“餌はとっておこう”と、ウィルヘルムは笑いながら「むくれるな。ジークだって俺以外を片目の代わりにしないだろう」と、適当に慰めた。
アイリスは納得いかない顔をして口を尖らせたが、気を取り直すように頭を振る。
「……何で私も時戻り前の記憶を? 出会った中で他に記憶を保持してる人を見たことがない」
「ああ、それは……」
言いかけて、ウィルヘルムは一度だけ目を逸らした。
口元を手で覆い、不自然にそっぽを向いたまま、視線だけをアイリスに向ける。
「……教えてもいいが、怒らないと先に誓え」
「………………………貴方がそう言う時、私が怒らなかったことがありますか?」
嫌な予感にアイリスが半眼で睨むと、ウィルヘルムは視線を彷徨わせ、観念したように溜息をついた。
「お前が八歳の頃、公爵邸で頭を打っただろう。その時に落ちていた枝で足を怪我した。その枝に付着した血で」
「……血で?」
「魔道具を使って来世の魂も繋がるように連結を行った。おそらくその弊害で、俺が時戻りを起こした時にお前も引きずられたんだろう」
不貞腐れるように一息で説明するウィルヘルムに、アイリスは目を見開いて固まる。
ウィルヘルムの愛が一般的なそれより独善的で狂気じみていることは以前から感じていたが、まさか王家の魔道具でそんなことをしていたとは思わなかった。
だから——八歳のあの日に目覚めた時、時戻りの記憶が蘇ったのだ。齢十三にして、完全に囲い込もうとしていたウィルヘルムの執着の深さ。
閉口し、何を言うべきか分からないアイリスに、ウィルヘルムは自棄になったように続けた。
「俺には昔から、その程度の覚悟があった。だというのにお前は、前の生で少し絶望したくらいで俺から離れようと……ああ、言っていたら腹立たしくなってきた。俺が人生二回目じゃなければ、早々に監禁でもしてたぞ」
矢継ぎ早に言われ、感情が追いつかない。ウィルヘルムは興奮を鎮めるように一息つき、アイリスを見直す。
今度は真っ直ぐな目。アイリスはその目に逃げたくなったが、それより先にウィルヘルムの指がアイリスの指に絡む。
じわりと、指から温度が伝わる。
何度もこの指先が温度を分けてくれていたと思っていたが、それは比喩ではなく、事実だったのだ。
「……なぜ俺に言わなかった。助けを求めなかった、アイリス」
再び、アイリスの目元がじんと濡れていく。
ウィルヘルムが、繋いだ爪先をそっと撫でた。
「信用がなかったか? 意地の悪いことばかり言いすぎたか」
「あんな悍ましいことを、言いたくなかった。忘れているなら、忘れてくれていた方が……私は嬉しかったのです」
私はあの記憶で狂ってしまった。苦しかったのです。
そう言えば、ウィルヘルムが喉で笑う。
「お前、もしかして俺が庇ったことを悔いているのか?」
「あ、当たり前です……」
「謝るな、悔いるな。守られた自分を責めるな」
震えたアイリスの言葉尻を切り捨てるよう、強くウィルヘルムが遮る。
なんでもないことのように、彼の指先がアイリスの髪先をいじる。照準を合わせるよう、ひたりと視線を合わせられた。
「バカだな。お前を守って死んだことが、俺にとって悍ましいはずがない。むしろ——」
その先の言葉は聞いていられなくて、アイリスはそっと塞ぐようにウィルヘルムに口づけた。
本当に、独善的で狂気的な、酷い男だ。
▽▲
暗闇がゆっくりと引いていく。
光が、まるで二人のために満ちていくように差し込んだ。もう「終わりの夜」ではなく、「始まった昼」が訪れていた。
しばらく後、ぽつりとアイリスがこぼす。
「しかし、ジーク様が……本当に巻き戻りを……」
それに、ウィルヘルムが肩を竦めた。
いつまでもベッドの上で語り合うわけにもいかず、立ち上がろうとした男を、アイリスはもう不安に思わない。
似ているけれど違う、ウィルヘルムと似た男の背を同時に思い出す。
再会後の彼は意味深で、本心を晒すことはなかったけれど、ただアイリスの選択を尊重してくれていたように思う。ウィルヘルムの計画を知りながらも、悪役令嬢を演じ切ろうとしたアイリスの選択を、一度も止めなかった。
嘘はつかないと言った彼は、もしアイリスがウィルヘルムから逃れる未来を選んでいたらどうしていたのだろう。
本当に、逃してくれたのか。
彼なら、そうしてくれた気がした。
おそらく兄の狂愛の果てを予想しながらも、もし万が一アイリスが逃げようとしたなら、彼は——。
そもそもジークフリートは王位自体にはこだわりを持っていなかった。持っているのは王国としての在り方、秩序や矜持だ。柔らかな笑みの下、固い意志が宿っていることを知っている。
今生では、様々な要因から彼がウィルヘルムを見限り、王位簒奪を口に出したのだと思っていた。
結果的には今生はジークフリートが王位につく。
しかし、彼が前の生とは変わらないのであれば、決して玉座が欲しいという単純な理由で、ウィルヘルムを臣籍降下させたわけじゃないだろう。
時戻りに巻き込んだ責任を感じているのかもしれない。そこまで考えて、アイリスが複雑そうな顔をすると、ウィルヘルムがちらりと視線を寄越す。
「礼など言うなよ。これはあいつの自己満足で、ある意味俺たちが巻き込まれた結果でもある」
「そのような言い方……」
ウィルヘルムからみれば明白なのだ。
とぼけてみせていたが、巻き戻り前のジークフリートはウィルヘルムが魂の連結を行ったのを確認した上で、時戻りを起こしている。
おそらく弟も賭けたのだ。――王妃アイリスの記憶を失わない可能性に。
ジークフリートは、確かに託した。ウィルヘルムに、壊れた王妃アイリスごと。
ウィルヘルムにそれをあえて正直に伝えてこなかったのは、恩着せがましく聞こえさせないためか。
あるいは――ウィルヘルムの知らない、王妃アイリスの最期を、己だけが独占したいという思い故か。
しかし、弟がそれ以上言わないことを探ることはしない。もちろん、アイリスに伝えることもしない。
弟自身が、それを望んでいないのだから。
「……俺にも気付く横恋慕はある。双子だからな」
野暮をこれ以上言わせるなと短く遮るようにウィルヘルムが言う。
「何の話です?」と、不思議そうに言うアイリスには答えない。
代わりに、その鼻を小さくつまんでやった。




