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二話 そうして、巻き戻る

それは、アイリスにとっては想定外の速さで起こったことだった。


「え……、あの女が、獄中死を遂げた?」

「ええ、ですからもう王妃様があの女を尋問する必要はありません」


宰相が感情を抑えた調子で伝える。


正直、女が死んだことは既定路線でしかない。そもそもあの牢獄は罪人を生き永らえさせる造りをしておらず、短期で獄中死をさせるのを目的として作られている。保って一年といったところだが、女の死はそれよりよほど早い。

まだ、女の中の妄言と真実の切り分けは完全にはできておらず、「攻略対象者」の闇をなぜ正確につけたのか、最終的に「誰が」この計画の手引きをしたのか、その謎が残ったままだった。

アイリスはこれを、魔法によるものではないかと疑っていた。


この国で人が魔力を持つことは既に途絶えて久しい。最後の魔法使いと魔女が史料に現れてから二百年あまり――魔力は人間の血から消えた。残るは、危険故に国家が厳しく管理する魔法薬と、発見され次第王家の宝物庫へ納められる魔道具だけだ。

あの女が触れていたのは、そうした“魔法の残滓”のどれかではないかと、アイリスは考えていた。女の結末としては結局は転落し牢獄行きなのだから、決して万能なものではない。制限があるか、もしくは局所的に効力があるもの。

それを突き止めたかったのだが――。


アイリスが取り憑かれたような頻度で女の話を聞きに行くあまり、秘密裏に、且つ迅速に殺されたのだろう。表向き、衰弱死という体をとって。

それもまた、想定の範囲ではあったが、処理されるのが速すぎる。

まだ、あの女の話を、シナリオとやらの全貌を聞いてはいなかったのに。


「そう……それは陛下のご指示ですか?」

「この国には死刑制度はありません。ただ女が衰弱して、最期は謀反者らしく惨めたらしく死んだだけのことです」

「まだ、あの女と魔法との関係が断ち切れてなかったのに……」

「魔法薬は所持に膨大な手間が必要で、精製方法については国家機密。そして宝物庫の入室は二重封蝋と記録石、開封許可は王のみです。どちらも厳重な決まりがある。あの女がどうこうできるわけがない、それで話は終わりです」


宰相は切って捨てるような言い方をした。実に政治家向けの言い回しだ。今さら、あの女を殺したとて誰に咎められることもないだろうに、一応の体面は保つらしい。

そう、とアイリスは溢すように呟く。もちろん、女の死自体に悲しみや怒りなどは抱くはずもない。


「私、関心を向けすぎましたね。陛下はとにかく、私が他所へのめり込みすぎることを嫌いますもの」


独り言のように零せば、後ろに控えていた宰相が一つ息を呑んだ。

妙な間が生まれ、アイリスが首を傾げながらも振り返れば、宰相は少し青白くなった顔色で、恐る恐る口を開いた。


「……王妃様、それは、前陛下の話でしょう。現陛下は、そのような感情論で物事を判断しません」

「現、陛下?」

「………………今は、ジークフリート陛下の治世でございます」


じーくふりーとへいか――とアイリスはどこか舌足らずに繰り返す。宰相はますます顔を強張らせた。


ジークフリートはウィルヘルムの双子の弟である。容貌は似てはいるが、二卵性のため瓜二つというほどではないし、見間違えることもない。


ウィルヘルム没後、特に揉めるようなこともなく王位はジークフリートへと移った。元々スペアとしての役割をジークフリートは生まれながらに担っていたため、即位自体に大きな混乱は生まれていない。

アイリスから見れば義弟だった男は、そのまま夫となった。といっても、それは保護に近いものだ。ジークフリートはウィルヘルムの生前頃の距離感を保ってくれている。

さすがに「義姉様」という呼び方は変えられたが、妻としての役割を求められることもなく、好きにさせてもらっていた。


「あ、……ああ、そう、そうです、ね。今は、ジークフリート様の、……」


アイリスはそう言って、まるで夢から覚めたかのように視線を左右に散らした。

何度か瞬きをし、アイリスは宰相を見据えた。


「ウィルは、どこ?」


まるで無垢な子供のように、王妃は宰相に聞いた。


その様子に宰相はぐっと言葉に詰まり、控えていた近衛騎士や侍女からも息を呑む音がする。一気に緊迫した空気になるが、アイリスは気にかけることもなく、落ち着かない様子で部屋を見渡す。


宰相が一つ息を吐く。

そうして、慎重に口を開く。


「王妃様、落ち着いてください。ウィルヘルム陛下は、もういません。あの罪人ももう処罰された。悲劇は終息したのです」

「悲劇?」

「ウィルヘルム陛下が築き上げた世は、しっかりとジークフリート陛下と貴方様が引き継いでいます。王妃様、どうか、正気を失わず……」


宥めるように言う宰相の言葉を、アイリスはゆっくり噛み締める。


悲劇は終わった。ウィルが築いた世はもう引き継がれている。女はもういない。ウィルも、もういない。


アイリスは口の中で何度か言われた言葉を繰り返す。その目はぼうっとしたものに変わっていき、焦点が合わなくなっている。

侍女がヒッと息を呑み、誰かがバタバタと出ていく。医者を、いやそれよりも陛下を、という潜められながらも慌てたような声がアイリスの耳に通り過ぎていく。


陛下。ウィルではない。ジークフリート様が、現陛下。


では、ウィルはどこに?


ゆっくりと己の掌を開けば、あの日見た真っ赤な掌に変わる。ウィルヘルムの血を浴びた、真っ赤に染まった手。鼻にこびりつく、血の匂い。


あの女、あの女を問い詰めなければ。

なぜウィルが血まみれで転がっているのか。ウィルが死んだと言うなら、どうすればそれを回避できるのか。回避? 違う、どうすれば――失ったウィルをまた取り戻せるのか。

あの女が語った夢物語を聞かなければ。空想と妄言が入り混じった、頭のおかしい世界。しかしそれを信じて女は犯行に移した。動機と原因、そこに至るまでの犯行の全てを詳らかにして。そうして、ウィルを取り戻さねば。


私を、私を庇って死んでしまった、ウィルを――


「いやあぁあああああああああぁああああああッ!!!」


叫び声が聞こえる。世界を壊すかのようなつんざく女の悲鳴。これは誰の悲鳴? ウィルが血を流し倒れたその時も、この耳障りな悲鳴を聞いた気がする。

アイリスは真っ白になる視界を感じながら、どこか遠くでそんなことを思った。


体が崩れていく間際、「アイリス」と呼ぶ低い声が今にも聞こえそうで――耳を澄ます、目をぼんやりと開ける。

けれど何も聞こえない。届かない。

アイリスはもう、抗うことをやめて目を閉じた。


△▼





アイリスは汗をぐっしょりとかきながら、文字通り飛び起きた。息は荒く、心臓はあり得ないほど早く鼓動している。

柔らかい寝台の上、アイリスは心臓をかきむしるようにパジャマの上から押さえた。はっはっと息を切らせながら、素早く状況を確認する。


此処は――アイリスの実家である公爵邸?

まだ日が昇り切る前の早朝だ。室内に目を向ければ、アイリスの自室ではあったが、記憶よりも部屋全体が幼い。

まさかと思い、己の手を見下ろせば、小さく丸っこかった。

目を見開き、立ち上がる。部屋に掛けてある姿見までおそるおそる歩けば、そこには十歳前後の少女時代の自分がいた。

信じられない思いで息を呑む。


では、あれは長い悪夢? いや――それにしては夢は詳細で、リアルだった。

凍りつくアイリスは思考を巡らせ、どうにか冷静であろうとする。心臓が痛いほど鼓動し、体全体が緊張のためか冷たい。


固まって身じろぎもできないまま、幾ばくか経った後、ノックの音が響く。そのまま、アイリス付きの侍女が一声かけてから入室した。

侍女は十年以上公爵邸に仕えている馴染み深い者で、しかし身籠ったのが原因でアイリスが十二になった時には辞めていたはず。思わず息を呑んだ。

約十年会っていなかった侍女が、平然と目の前にいるのだ。仕えた当時の姿のまま。


侍女は侍女で、目覚めていたアイリスに目を丸くして忙しく駆け寄ってきた。


「アイリス様! 目が覚めたのですね! よかったです! お嬢様は昨日、ウィルヘルム殿下と遊んでいたら階段から落ちてしまい、寝込んでいたのですよ! 頭も打ったと聞いています、体調はいかがですか?」


固まったままのアイリスの驚愕は、寝起き特有のものだと判断されたらしい。

侍女は厳しい顔をしながらバタバタと医者を呼びに行き、入れ替わるように侍女長が訪ねてきた。その手には薄紫の薔薇の花束が抱えられている。芳香な香りが鼻を満たす。


「アイリスお嬢様、目が覚めたようで何よりです。こちらはお見舞いとして――」

「ウィルヘルム殿下が、王宮のガーデンから手ずからまとめてくれた薔薇の花束、よね?」


震える声で侍女長の言葉を攫えば、侍女長はなぜわかったのだろうという顔を一瞬した。だが、アイリスの体調を気遣ってか、深く問うこともなく花束を渡す。


――階段から落ちた翌日のお見舞いの花束をアイリスは知っている。この花束の中に、埋もれるようにメッセージカードが添えられているのも。

震える手でアイリスは花束をかき分けてメッセージカードを見る。

流麗な文字で「怪我をさせて悪かった。傷跡が残るようなら申告しろ」との言葉。

覚えのある薔薇とメッセージカードを、アイリスは呆然と見つめた。


しばらくし、父母が来て、更に怒り心頭な兄が来た。

兄はウィルヘルムを随分と悪様に言い、人の妹に傷つけやがってと不敬にも言い捨てていた。

アイリスが階段から落ちたのは事故で、そこにウィルヘルム殿下が居合わせたのはむしろ不幸中の幸いだったじゃないか、と父は言う。

だが兄は、仮にも婚約者だっていうなら身を挺して庇ってみせろと更に悪態をつき、母にひっぱたかれる――既視感のある流れに、アイリスは何も言えなくなった。

夢の中の記憶が、再現されていく。

頭が混乱していた。家族はそれを、アイリスがまだ全快していないからだと解釈したようだったけれど。


まだゆっくりするようにと言われたアイリスは、一人きりのベッドの上、動揺しながらも首を振った。

あの夢は、ただの夢ではない。あれを自分は経験している。何故死に戻ったのか、何故記憶があるのかはわからない。

しかし自分は確かに死に戻っている。


――あの、あの女。


そういえば最後に会った時にリセットをするなどと言っていた。

あの時はいつもの狂言だと気にも留めなかったけれど、あの女は狂気と正気の狭間でずっと生きていた女だ。

謎が解けなかった令息たちの闇を晴らす手腕、前世だという記憶……。あの女は異常者であったが、特別な記憶を持っていたのは確かだ。


もしも、記憶ではなく大いなる力も持っていたのならば?

もしもあの女が言う「リセットされた世界」がここであるとするならば?

あの女が求める限り巻き戻るとするならば?

――この世界の、強制力とは?


真っ青になりながらも、アイリスは震える手であの狂った女が話した「シナリオ」を書き留めた。

巻き戻ったというなら、アイリスがやるべきことは決まっていた。



これから先の未来がどの程度変えられるかもわからない。ただ、ウィルヘルムが自分の腕の中で温度が失われ、生命が絶たれる生々しい感触だけが忘れられなかった。

あんな悍ましいこと、二度と起こしてはいけない。

混乱する頭をなんとか働かせながら、そのためならどんな可能性だろうと潰してみせると決意を固めた。

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