幕間4名付けない花(side ジークフリート)
君は覚えていないだろう。
小さな君が、俺に王冠をくれたことを。
当時の君はまだ片手で数えられる年齢で、小さく丸っこい手を一生懸命動かすのが好きだった。
公爵家の令嬢だというのに草花が好きで、時間を見つけては領地の端まで駆けて行く。
野花で束を作ったり、気に入った草花を押し花にしたりすることに夢中だった。
俺と君との交流の場は多そうで、実は多くない。
兄上が行事で不在のとき、代理のエスコートとして共に過ごすことはあったが、周囲も気を遣い、その機会は少ない。
けれど時折、兄上の気まぐれで誘われ、君との逢瀬に同行することがあった。
ある時、君は上機嫌で白詰草を編み、王冠を作った。
兄上の頭にためらいもなく乗せてはしゃぐ君。
兄上は眉をぴくりと上げただけで、王冠を外そうとはしなかった。
俺はぼんやりとその光景を眺めていた――それをどう勘違いしたのか、君は慌てて俺の分の王冠も作り始めたのだ。
急いで作ったから、兄上のものよりも歪な王冠。
それを俺の頭に乗せて、満足そうに笑う君。
「ウィルよりも王子様っぽいから、とても似合いますよ、ジーク様!」
無邪気に手を叩いて笑う君。
他の誰かがスペアの王子である俺に王冠を渡せば不敬とされる。意味深にも取られる行為だ。
けれど――その場にいたのは、俺と、君と、兄上だけだった。
誰も咎めず、誰も穏やかな空気を凍らせない。
俺が笑うことに、余計な意味を勘ぐる者もいなかった。
王冠を乗せられたとき、白詰草の茎が髪に触れてくすぐったかった。
彼女の小さな指は、思ったよりあたたかい。
けれど――そんなことも、君はきっと覚えていないのだろう。
アイリス。
兄上にだけ与えられた姫君。兄上のための花。
たった数刻の生まれの差で、俺のものにはならなかった花。
君と兄上が共にいる姿は、平和そのものだった。
兄上は君の隣でだけただの男になり、君は無邪気な少女に戻る。
二人だけの場の、陽だまりのような空気。
年を重ねても変わらず、表では王と王妃として、裏では互いを素のままで見つめ合っていた。
俺はそれを遠目に見て安堵し、時折感じる胸の痛みを誤魔化した。
……そう、見守るだけで満足だったはずなのに。
兄上が死んだ。
君を庇って。
そして君の心も、同時に死んだ。
幸せな時が、こんなにも早く終わるなんて思わなかった。
たった一人の女の狂気で、たった一振りの刃で。
たった数分の出来事で、俺の世界は崩れた。
支えたい二人を失い、この豪奢な王宮で、俺は孤独になった。
心を壊した君。
綺麗な体を残したまま人形になった君。
喋ることも、自力で食べることもできなくなった君。
何を見ても反応せず、何を聞かせても虚ろなまま。
美しい花も、素晴らしい曲も、舌鼓を打つ料理も、上質なドレスも香水も――どんなものを用意しても、君は何も反応しない。閉じた世界にいる君。
誰もが口に出すのを恐れ、けれど同じ考えを抱き始めていた。
――もう、彼女は戻らない。
ならば、せめて、安らかに、と。
こんな時ばかり、周囲の目が集まる。
言いたくない言葉を、言わされる。
言葉にしようとした瞬間、喉が焼けた。
それでも、誰かがそうしなければならなかった。
「王妃アイリスの最期を、私が見届ける」
そう宣言した時、自分の声が他人のもののように聞こえた。
笑ってしまうほど現実感がなかった。
最期の夜、君を綺麗に飾った。化粧を施し、ドレスを整える。色素の薄い髪を丁寧に結う。白い花々をあしらい、微笑むように整えた。
その指先に手を重ね、静かに語りかける。まるで眠るように、君の呼吸は薄れていった。
何も、痛みはなかったはずだ。
まるで長い旅に出るように、安らかだった。
色を失っていく頬。動かなくなる肢体。
一度も俺の名を呼ばなかった君へ、最後の最後に――初めて名前を呼ぶ。
「綺麗だ、……アイリス」
本心から言って、その頬に触れた。
その時、閉じたままだった瞼がわずかに震え、唇が動いた。
思わず椅子を蹴るように立ち上がり、耳を近づける。
そして君は、振り絞るように呟いた。
当然のように、その名を。
「ウィ、る……」
閉じた瞼の端から、じわりと涙が滲んだ。
それが、最期だった。
「ふ、……そう、か。そうだ、な………」
目を片手で覆う。
きっと心のどこかで期待していたのだ。
兄がいなくなった世界で、今度こそ自分を見てくれるのではないかと。
壊れた君を、自分なら救えるのではないかと――物語の英雄のように。だが彼女は貫いた。兄が生涯を賭して貫いたように、その愛を。
最後に触れた指先は、もう温度を失っていた。
それでも離したくなくて、それでも――離した。
掌に熱い涙が溢れる。
俺のことを最後まで映さなかった彼女への悲しみか、愚かなまでに愛を貫いた彼女への敬意か。
溢れ出す感情の割合はわからない。ただ、涙は止まらなかった。ずっと。……ずっと。
▲▽
城下に足を踏み入れた瞬間、鼻腔を突いたのは硝煙の臭いだった。
火薬と血の入り混じった、焦げつくような鉄の匂い。
かつて美しい街並みだった場所は、今や瓦礫と灰の山だ。吹き抜ける風は、土埃と煤を巻き上げる。
家々は焼け爛れ、骨だけになった梁が空に突き出ている。まるで助けを求めて手を伸ばしたまま、途中で諦めたように。
瓦礫の隙間に転がる誰かの靴。
半ば土に埋もれた銀食器。
誰かが大切にしていたであろう指輪。
日常の残骸ばかりが散乱している。
生きていた証は山ほどあるのに、生きている者だけがいなかった。
ここはもう王国ではない。
俺が愛して、守りたかった風景はどこにもない。
不意に、幼少期の白詰草に囲まれた記憶が蘇る。もう、それは途方もなく遠いものに感じた。
「呆気ないものだな……」
兄と義姉を奪った王国の終焉というには、あまりにも。
俺は最後にもう一度、この地を踏み締めてから、王家の宝物庫から取り出した宝剣を手に取った。
最後に笑ってしまったのは、宝物庫の入室記録を見た時だ。使用されたのは――魂の連結を行う魔道具。誰が誰に使ったなど想像するまでもない。
そしてその狂愛があったからこそ、一つの希望が生まれた。魔道具同士が干渉し、俺たち双子だけではなく、君も一緒に巻き戻る可能性が、ある。
――巻き戻る。取り返す。
ただ一つの可能性に賭ける。
兄の狂愛が見せる、奇跡を見せてくれ。
時を巻き戻すのは俺。
魂の連結を行ったのは兄。
もし俺の目論見どおり、君が王妃アイリスの記憶を持ったまま巻き戻れたとしたら――それは悪夢のように辛いだろう。
けれど、深い愛情を持つ君なら思うはずだ。今度こそ兄を死なせず、守るために動くのだと。それこそが、きっと兄の逆鱗に触れるトリガーとなる。
愚かな君。狂っている君。
どうか――兄が狂愛を貫いたのだというなら、どうか、王妃のあの美しい狂気ごと、愛してやってくれ。救ってやってくれ。悪夢から、今度こそ目覚めさせてやってくれ。
兄がそのためなら狂気的な囲いを作ることは想像できる。そして、あの彼女ならそれさえも受け止めるだろう。
そして王妃アイリスを、まるごと飲み込んでくれ。……俺には、できなかったのだから。
ただ、その代わり今度こそ王国を、あの美しい風景を俺が守るから。
二人がただ笑って、穏やかに過ごせるあの時を、俺が守ってみせるから。
王国は陥落させない。
兄と義姉を奪わせない。
二人の愛で滅んだのなら、――二人の愛で蘇らせる。
アイリス。
もう二度と呼べない初恋の女の名を呼ぶ。生涯最後の思い出を、ここに置き去りにする。人生で一度きりの、拙い恋だった。
それを代償に、全てを取り戻す。
▲▽
――ジークフリートは慟哭し、涙で視界も覚束ぬ中、時戻りの刃を突き立てる。
そして、物語は再生を始めた。




