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十五話 王家の双子

彼女の最期は、食事もままならないほどだった。

寝たきりの時間が増え、会話など到底できない。それでもいつかは現実と虚像から立ち直るかもしれない――そんな淡い希望に縋り、点滴で延命させていた。


だが、どれほど時を重ねても、彼女はもう誰もが知る「王妃アイリス」には戻らなかった。

たまに目を覚ましても、虚ろな瞳から涙をこぼすだけ。声も、呼吸も、ひどく静かだった。


彼女が苦悶に満ちた顔で、ベッドに横たわる。

訪れる者たちは沈痛な面持ちで、誰もが下を向く。啜り泣くような重い沈黙が室内を満たす。

それを今も鮮明に覚えている。それが彼女の人徳の証でもあった。


そして最期の時。

ジークフリートは、彼女を一人きりで看取った。あの絶望を、あの静けさを、彼は決して忘れはしない。

だから、決めたのだ。

全てを取り戻そうと。




▽▲


――時は、襲撃事件の夜へと遡る。


「ああ、思い出したんですか」


その声は、今日の天気を語るように軽かった。


この世の何もかもが不満だ、という顔をしながらウィルヘルムはソファに足を投げ出すように腰掛けた。

正面に座るジークフリートは、それを咎めるでもなく、肩を竦めるだけだ。


「なぜ言わなかった」

「兄上のことです。いくら俺が言っても、ご自身で思い出さないと納得しないでしょう?」


ウィルヘルムが舌打ちをする。

ジークフリートは、堪えきれないというように笑いを漏らした。


尊大な兄と、謙虚な弟。

表舞台に立つ兄と、影で支える弟。

周囲は勝手に二人を対立させたがるが、実際の仲は良好だった。わざわざ仲睦まじい姿を見せないだけで。


「右目が、完全に見えなくなった」


ウィルヘルムの声は乾いていた。


「なら、帳尻は合いました。私の左も何も映らない」


室内の光の中で、二人の瞳にそれぞれ片方ずつ光が宿る。ジークフリートの軽い調子に、ウィルヘルムはため息を返した。


「時戻りの短剣を使った代償です。兄上の想定通りでしょう。……ミラベル・ウッドウェイが兄上を討って五年後の世界で、俺は短剣を使いました」


ジークフリートは、前の生をやり直すために自らの胸を一突きした。

時戻りの短剣は、二十年の時を巻き戻せる代わりに、使用者の五感のいずれかを奪う。

本来なら、それは王族にとって致命的な欠陥だ。だが、ジークフリートには双子の兄がいた。代償の半分をウィルヘルムが負うのではないか――そう信じての、あまりに無謀な賭け。

しかし王家に生まれた初の双子であるという因果を、ジークフリートは“意味”だと受け止めた。そしてその賭けに、彼は勝ったのだ。


「兄上が記憶を取り戻すのが遅れたのは……、私が使った時に既に没後だったからですかね? 伝承が少なすぎて、なんとも言い難いですが」

「……俺が死んだ後のことを、話せ。時戻りをお前が決断した理由を」


ウィルヘルムが促すと、ジークフリートは笑みを引っ込め、息を吐く。

窓の外は夜。薄雲が月を翳らせ、星の見えない静かな夜だった。


「兄上が思うより、取り残された後の事態は深刻でした。件の狂った女は即刻終身刑に処されましたが、あれを利用して俺を国王に押し上げた連中が……まあ、曲者と馬鹿の二種類でしてね」

「……つまり、俺が殺されたのは、お前の陰謀だと取られたか」

「ご明察。そうして足を掬われている間に、反乱軍が王冠を奪いました」


ジークフリートは額に手を当て、沈んだ声を漏らした。

いつもは笑みを絶やさぬ男が、抑揚を失う。それが、どれほどの憤怒を意味するかをウィルヘルムは知っている。


「命からがら逃げた後は、反乱軍の治世を見届けるつもりでした。……だが、整地の前に隣国が侵攻し、国はあっという間に消えました」

「……アイリスは? アイリスには俺がいなくとも国を抑える力があったはずだ」


ジークフリートは少し逡巡し、静かに答える。


「一度は私が娶りました。ですが……義姉上は精神的に壊れてしまった。晩年の彼女はもう、人と会話もできぬ状態で」


ウィルヘルムが健在の時、賢妃と呼ばれたアイリスは、現実を飲み込めずに全てを拒否するよう衰弱していった。自分を庇って死んだ夫、その事実を直視できずに。


ウィルヘルムは僅かに視線を下にした。目を閉じて、静かに頷く。まるで、その結末を知っていたかのように。


「あれは俺を愛しているからな」


さらりと、恥ずかしげもなく言う。

ジークフリートは思わず息を呑んだ。顔を顰めそうになるが、無理に笑みを保った。


「義姉上の死後に動き出した反乱軍の筆頭は、兄上の側近連中でした」

「単純な駒は、首輪がなければ野犬以下か」

「私が義姉上を娶ったのは、その野犬どもから守るためでもありました」


ジークフリートが澄ました声で言うと、ウィルヘルムは押し黙った。

いい気味だと内心で笑いながら、ジークフリートはわざと真面目な顔を作る。


「兄上の仇、そして義姉上の雪辱を果たす――彼らはそう言うんです。呆れますね」


アイリスのためと言いながら何も見えてなどいなかったくせに、とジークフリートはそこだけ、元側近たちへ向けた冷笑を滲ませた。ウィルヘルムは、そんなジークフリートに、僅かに目を細めた。

わざとらしく咳払いをして、ジークフリートはウィルヘルムに向き直る。


「……聡明で優しく、国思いの美人だ。未亡人となれば食いつく奴もいます、傾国の美女、というより“傾国の夫婦”ですかね」

「あんなに俺に一途な女へ、横恋慕してたのか? ただの側近連中が?」


言ったきり、呆然とする兄を見て、ジークフリートは小さく肩をすくめた。


「……兄上、なぜ無策で庇ったのです? その後、義姉上がどうなるか、分かっていたというなら」

「勝手に、体が動いたんだ。アイリスに刃が向いたと思ったら」

「なるほど、愛ですね」


ウィルヘルムは苦い顔で沈黙する。ざまあみろ、と思う自分の性格を、ジークフリートは自嘲した。


しばしの沈黙。

ジークフリートが紅茶を淹れ、ウィルヘルムへ差し出す。彼はそれに口をつけず、考え込むように顎へ手を当てた。


「お前の直感では、反乱軍は俺への忠誠とアイリスへの横恋慕、どちらが多い?」

「個人差はありますが……四対六、くらいですかね」

「なるほど」


ウィルヘルムは低く笑う。

その笑い声は、獰猛な獣が獲物を見つけ、喉を鳴らす音に似ている。


「反乱軍の名を教えろ。今生のちょうどいい捨て駒にする」

「よろしいので? 多少なりとも情があったのでは?」


答えず、口端を吊り上げるウィルヘルム。

ジークフリートは苦笑し、紅茶をひと口。やけに甘い味がした。

ウィルヘルムは息をつき、重く口を開いた。


「……アルガード公爵家は、どうなった?」

「反乱軍とは合流せず、隣国へ亡命しました」

「そうか……。エリークのシスコンぶりを考えれば、反乱に加わらなかったのは理性的とも言えるな」

「兄上の没後、義姉上は狂気と正気の狭間にいました。公爵家も何度も面会を求めましたが、義姉上自身が拒否なさった。……その失意は、計り知れません」

「……そうか」


ウィルヘルムは目を伏せた。

秒針の音だけが部屋を満たす。やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。


「……今生のアイリスの様子がおかしい。時戻りの記憶があるのだろう」

「は? 俺たちは双子ですが、義姉上は関係が――……」


ジークフリートは言いかけて、はっとした。

前の生で、宝物庫の扉が一度開かれた記録があったのを思い出す。

それは、まだ自分たちが少年だった頃。


持ち出されたのは――死後の魂を連結する魔道具。

死してなお、来世で出会う運命を作る道具だ。


ジークフリートは固まった。

ウィルヘルムは頬杖をつき、そっぽを向く。


「……兄上、まさか……」

「幼少期、アイリスが頭を打つ事故があった。その時、血のついた木の枝を拾った」

「……から?」

「魔が差した」


しれっと言い切る。だが嘘だ。

機会を窺っていたのだ。もちろん、アイリスの同意など取っていない。ジークフリートは顔を覆った。


「巻き込まれた義姉上の代償は?」

「おそらく体温の異常低下。それに伴う体調不良もあるだろう。……アイリスがおかしくなった時期と、俺が魂を連結した時期が被っている。断定していいだろう」


魔道具による魂の結びつき。

本来なら、触覚そのものを失っていたかもしれない。

勝手に魂の連結を行った兄の狂気と、勝手に巻き戻りを行った弟の狂気。それがアイリスの運命を大きく歪めた。

ややあって、ウィルヘルムが諦めたように自白する。


「宝物庫の記録が一度、扉の開閉を記していたのを覚えていないか?」


ジークフリートが口を絞る。窓外の月が、昔の記録を白く照らした。

そして、今日一番のため息をついた。


「……あの壮絶な記憶を持っているなら、義姉上の今生での振る舞いも変わるでしょうね。それに義姉上は熱心にあの女狐の牢獄に通っていた。女狐が何か特殊な能力を持って世界を改竄していると思ってもおかしくない」

「特殊な能力?」

「義姉上が巻き戻る前に手記を残していました。女狐が前世の記憶があるだの言っていたようです。得体が知れないのは確かでした。女狐が何か特殊な能力を使い令息たちを陥落したと当たりをつけていたようです」

「……過去の記憶のせいで、俺から離れようとしているなど許し難い。しかも、きっかけがその女狐だと?」


ウィルヘルムの顔は凶悪だった。

弟から見ても、その執着は異常だ。けれど、止められない。それが、この男の“唯一の愛”だから。

兄の狂愛をよく知っている。隣で眺めてきていたから。


決して近づき過ぎず距離は保って眺めていたジークフリートから見て、兄の義姉に対する思いは度を越している。冷徹で理性的、傲慢な絶対王者である兄が、唯一ムキになる存在。それがアイリスだ。

アイリスはアイリスで、そんなウィルヘルムを自然に受け止めてしまっている。


生まれながらに婚約者と定められたアイリスと、そんなアイリスを自分の所有物として扱うウィルヘルム。


二人の関係性は、傍目から見たら常軌を逸している。

しかも本人らがそれを苦に思っていない。前の生ではなんとか仲が睦まじいだけで済んでいた夫婦だが、今生はアイリスが壊れたまま巻き戻っているため、決定的な亀裂が入っている。

兄の狂愛を受けながらも手綱を握れていた賢妃はもういない。ただ、ウィルヘルムを守るため彼女は変わろうとしているのだろう。アイリスの愛はいつだって根底が健気なものだった。

しかし、それを、この兄は許すはずがない。アイリスが自分を守るため崩れ落ちようとしているなど、絶対に。


短くジークフリートが息をつく。……しかし、だからこそ――


「前王妃アイリスの像を徹底的に壊す。協力しろ」

「……では代わりに、私に王位を譲ってください」


予想外の返答に、ウィルヘルムは目を細める。


「王位など、お前が欲しがるものではないだろう」

「ええ。ですが、傾国の夫婦揃って王位から退いてもらいます。愛に溺れた愚かな夫婦には、国は務まりません」


揺るぎない声だった。

ウィルヘルムが何か言う前に、ジークフリートは続けた。


「まずは、ミラベル・ウッドウェイの排除から。発端は、あの異物ですから」

「……ああ、ちょうどいい駒だ」


ウィルヘルムが生きている時点まで巻き戻ったのは、そうするためだ。

兄が自分と同じ“目的”を持つなら――これほど安寧な王国再興はない。


現状、まだミラベルが何をしたのか、本当に特殊な能力があるのかは判明できていない。しかし、王妃アイリスが残した手記を、ジークフリートは頭に叩き込んでいた。

前の生ではあまりにアイリスの並々ならぬ執着心の危うさを感じ、実態を掴む前にミラベルを秘密裏に殺してしまった。しかし、あの手記の内容を一から精査し、王家が影から身を乗り出せばおそらくミラベルのからくりは掴める。

そして、そうするために兄が記憶を取り戻す前から、ミラベルを処断できるよう、新法の――死刑制度の導入を整えてきていたのだ。反対はしなかったものの、死刑制度の導入を急ぐことに首を傾げていた兄も、ジークフリートの思惑が分かれば一層力を貸すことだろう。


ついでに、ミラベルが執着していた兄を“囮”に仕立てればいい。常であれば絶対に断るだろうが、むしろ今の兄は王妃アイリスを壊したいのだ。アイリスのために、身を乗り出すだろう。


「兄上」


そこまで算段をつけてから、ジークフリートは静かに言った。

全てをやりきるためには、兄の覚悟を聞かねばならない。


この兄を、そしてその兄を支えた彼女を、彼は誰よりも尊敬している。二人はジークフリートにとって、l唯一無二の存在だった。


できれば、今度こそ幸せに。

狂気の彼女を壊して再生できるのは、兄しかいない。

そして、その兄の狂愛を利用して、この王国を再生する。それが、ジークフリートが王族として巻き戻りを施行した責任なのだから。


「壊したあとの彼女を、兄上はどう扱うつもりです?」

「一欠片も残らず、抱き込むさ」

「……それなら、いいのです」


思わず笑いが漏れ、顔を覆った。

壊れた彼女を知っているのは、自分だけ。その彼女を再び抱きしめると言える兄を、怖れながらも尊敬していた。


どうか、兄上。

私が救えなかった彼女を――あなたが救ってくれ。

彼女が望むのは、ただ一人なのだから。


また会えて嬉しい、なんて陳腐な言葉は要らない。

ただ、そこに兄が“いる”現実を噛み締めながら、ジークフリートは拳を静かに握った。


「先に死んで破滅を招いた兄上。反乱を止められなかった俺。俺たちは半人前の双子です。一度は運命に負けた。けれど、二人であるからこそ――巻き直せる。今度は勝ちましょう。足掻きましょう。運命に」


時計の秒針が、夜気を刻む。

ジークフリートは瞼を細め、刃のような声で言った。


「もう負けはしない。失ったものを悼むのは葬送の間だけでいい。これからは奪う側だ。……王冠も、秩序も、未来も。運命ごと」


おかえりなさい、兄上。

その一言は口にせず、二人は同じ静けさで頷いた。

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