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十四話 対話

次にアイリスが目を覚まし、時計が四時を指しているのを見た時――それが午前だったのか午後だったのか、一瞬分からなかった。


いつの間にか対面になって、抱き込まれるように寝ている。

ウィルヘルムの胸元からそっと抜け出そうとすると、邪魔するように抱く力が強くなった。

アイリスはトントンとその胸を叩く。

目は閉じたままだが、起きているのは気配で分かっていた。


僅かでも食事をしたからだろうか。

もしくは、深く眠ったからだろうか。


頭は冴えていた。気分も悪くない。

朝日が昇る前の薄暗い部屋の中、それでもぼやりと浮かぶウィルヘルムの輪郭を捉えながら、ぺちぺちと頬を叩く。

朝が来るのを待つ前に――話をしたかった。


「起きてるでしょう? 卒業式の続きの話をしましょう、ウィル」


声を潜めて。けれど、確実に届く声で言う。

それを皮切りに、ウィルヘルムの瞼がゆっくりと持ち上がる。

暗闇の中、鈍く光る瞳が不機嫌そうにアイリスを捉えた。


そのゆったりとしながらも隙のない姿は、貫禄のある獣のようだ。

けれどもう、アイリスは恐れない。話をすると決めたからだ。悪役令嬢でも王妃でもない、ただのアイリスとして。


「話を逸らすのが上手いな、アイリス」

「本題でしょう?」

「俺にとっては、あんなものはついででしかない」


数秒、二人で睨むように見つめ合う。

ウィルヘルムが何を本題と捉え、何を話したいかは分かっていた。けれど、アイリスとて譲れはしない。


結局、先に目を逸らしたのはウィルヘルムだった。舌打ちをして身体を起こし、頭をガリガリと掻く。


「分かった。……まだ暗いな。ランタンを付けよう」


そう言ってウィルヘルムがベッドサイドのマッチで火を点ける。

小さな炎がゆらりと揺れ、ガラスの中で守られる。それを見ていると――アイリスは何故だか泣きそうになった。



▽▲


「ミラベル、だったか。あいつは斬首刑になる」


くあり、と欠伸をしながら、いかにもどうでもよさそうにウィルヘルムが言った。


「は?」


アイリスは、彼の言葉の意味を理解できずに呟く。

――ざんしゅけい。

呆然と顔を見るも、訂正はない。


混乱したまま、アイリスは何度か頭を振った。あの女が、そんな簡単に排せる?しかし、それでは――“ シナリオがまた狂うのではないか。


死の間際、あの女が狂乱しながら叫んだリセットという言葉を思い出し、アイリスの顔色が青くなる。


「そもそも斬首刑など、出来るはずも……我が国はそんな制度などないでしょう?」

「作った。新法を制定するとお前にも話したことがあっただろう? それが、死刑制度だ」


終始、ウィルヘルムはつまらなそうだった。

青ざめたアイリスの頬を温めるよう、指の腹でそっと撫でる。


指先に灯る熱で、いくらか冷静さを取り戻す。だが、それでも現実味はなかった。

――あの女が、もう、いない?


「怯えたお前に牢獄へ通われても困るだろう?」


言葉に詰まり目を逸らすアイリスを、ウィルヘルムは鼻で笑う。震えそうになる気持ちを誤魔化すように、アイリスは口を開いた。


「しかし、……罪状は?」

「魔法薬の無許可製造。ならびに、それを非合意で複数の令息に服用させ、魅了状態にしたこと」


飲み損なった息が、ひゅっと鳴る。

ウィルヘルムは意味なく窓へ顔を向け、目を細めた。


「魅了を付与できる魔法薬の精製など前代未聞だ。広めてもらっては困る。……それに、既に一人、死亡者まで出ている」


学園入学前のことだ、とウィルヘルムは事もなげに補足した。


確かに、アイリス自身もあの女の求心力や行動の裏に、何らかの魔法が関係しているとは感じていた。

だが、魔法薬の精製など思いもしなかった。


――魔法薬の精製は、国立魔法薬学科に八年通わなければ得られない特殊技能。

原材料も工程も秘匿とされる。

それを、ミラベルが独自に? 俄かに信じ難い。


ミラベルは「前世の記憶」を持っていた。

局所的な知識や技術――それが、これなのかもしれない。

だが、他人に無理やり服用させていたとなれば、あまりに外道だ。怖気立つアイリスに、ウィルヘルムは軽く肩を竦めた。あえて戯れるように、髪先を指で弄ぶ。


「……で、」


一瞬、手が止まる。

わざと軽い調子で、皮肉に笑いながら言った。


「俺は国を揺るがす大罪人の女にハニートラップを仕掛け、そのために公衆の面前で婚約者を泣かせたろくでもない男だ」


付け足された台詞に、アイリスは息を呑む。


「あんな面前で辱めたからな。責任を持ってお前は俺が貰い受ける。婚約者だ、正式な破棄の話なんて何一つ進んじゃいない」

「こ、婚約者、って……貴方がそれを破棄するようなことを……」

「俺を捨てるか? アイリス。お前が断れば俺は無様な生涯独身。ついでに王太子はジークに譲るしな」


言いながら、ウィルヘルムは身体をぐっと伸ばした。混乱で固まるアイリスを置いて。


つまり。

あの断罪の場は、あまりに派手すぎたのだ。


『アイリスを貶し続けたのは、男爵令嬢を捕縛するためだった』と、いくら釈明しても口さがない貴族たちには届かない。そして、あの場で泣き崩れたアイリスもまた、未来の王妃としての資質を問われる。

その上での「責任」としての“臣籍降下と婚約継続”。


頭でそこまで理解して、思わず呻き声が出た。

アイリスがこのウィルヘルムの申し出を断らないことが、確かに一番収まりがいい。健気にも愛を信じたアイリスに恥をかかせ、しかしウィルヘルムは正義のために断腸の思いでアイリスを追い詰めていただけだった。本来仲の良かったはずの二人は見事和解し、婚約を継続する。

卒業パーティーの場で大々的に立ち回った二人の、綺麗なストーリー。


しかし実態は違う。心底からウィルヘルムはミラベルなどどうでもいいのだ。あるのはアイリスを囲う強固な檻を作るという意志。アイリスの断り辛い状況。

そんな……そんなことを、アイリスは望んでいない。アイリスを捨てず、共に歩もうとする未来など。


「互いの愛に溺れた国王夫妻は愚かだが、臣籍降下した公爵夫妻なら“愛の物語”として語られる」

「……な、にを言って……そんな、めちゃくちゃな話、筋が通らない。お兄様に言いつけます。お兄様ならそんなの許さないわ!」

「お前はいつもそれだ。二人の問題に、すぐエリークを介入させる」


咄嗟に兄を引き合いに出すアイリス。つられたようにウィルヘルムも言い返す。

どちらも、子供っぽい。その自覚が互いに訪れて、思わず沈黙した。


ウィルヘルムは、はぁ、と息を吐き、頭をガリガリと掻く。


「こんな間抜けな会話で俺に本気を出させるのなんて、お前くらいだよ、アイリス」


次期国王だった男に、結局すべて嵌められていた。

あの断罪も、壊すための儀式。アイリスがもう潰れないように。狂気的で、愚直なまでの愛がそこにある。混乱する頭を必死に働かせ、アイリスは口を開く。


「……ずっと、国王になるべく精進なさっていたのを知っています。それを、私のために投げ出すのですか?」

「能力があればいいというものでもない。俺は国を一番に考えて行動したことは一度もない」


アイリスは、男に戻ろうとするウィルヘルムに、困り果てたように額を胸元へ寄せた。

何と言えばいいのか分からない。喜べばいいのか、悲しめばいいのか。


王という重積は確かにあった。

だが、それこそがウィルヘルムの“核”だったはず。責務から逃げたことなど一度もない彼が、いま――それを捨てようとしている。


ただ一人の女のために。アイリスのために。


ウィルヘルムは、アイリスの困惑も葛藤も分かった上で笑った。

心底、晴れやかに。


「俺にお前を一番に守らせてくれ、アイリス」

「だめ。……だめなんです。それだけは。……何を言っているか分からないかもしれないけれど、貴方はそれで一度、私の目の前で死んでしまった」


私も一緒にいたい。

――その叫びを飲み込み、出たのは自律の言葉。“あなたを死なせたくない”。それだけを胸に、生きてきたから。


瞳を揺らすアイリスを見ながら、ウィルヘルムは彼女の頭を抱き込み、堂々と告げた。


「俺はお前を庇って死んだ自分を、誇りに思う」


静かな声だった。

けれど、その静けさが言葉の重さを際立たせる。


アイリスは顔を上げる。震える唇。

言葉は探せなかった。ただ、胸がぎゅう、と痛む。


その時、ようやく気づいた。

ウィルヘルムは「もう牢獄に通わせない」と言った。――彼は、自分がアイリスを庇って死んだことを知っている。


巻き戻る前の記憶を、持っているかのように。


パズルのピースが、カチリと嵌まっていく。呆然と、アイリスはウィルヘルムを見た。

そうだ、アイリスはこの男の狂気をよく知っている。けれど"今の生"でそれを向けられるのはあまりに不自然だった。アイリスは今生でウィルヘルムと対話をしていない。意図的に避けていたから。

だというのに、ウィルヘルムは自分に執着し、王位も捨て、汚名を被ることも厭おうともしない。いや、八歳までの自分の歩みは確かに元のアイリスと同じではあった。だが、それだけにしては、あまりにも執着のされ方が強すぎる。


アイリスがウィルヘルムの生にこだわったように、ウィルヘルムもアイリスの元の在り方にこだわっている。

――その執着はアイリスと同じようだ、巻き戻る以前と地繋ぎになっているように。


はくりとアイリスが息を飲む。

正解を示すように、ウィルヘルムはゆったりと笑う。


「時を戻したのはミラベルじゃない。……ジークだ」


ランタンの光が揺れ、部屋の空気が一瞬、張り詰める。

朝日が射そうとしていた。

白日の光が、ゆっくりと部屋に届く。


そうして――全ての種明かしが、始まった。

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