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十三話 食う、寝る



薄暗闇の中、ぼんやりと目が覚めた。

体が泥のように重い。泣きすぎて目が痛い。押さえ込んでいた感情が溢れ出たせいか、頭痛もしている。


上質なベッド。微かに香る石鹸のような柔らかい匂い。

暗闇に目を慣らすよう何度か瞬きをしていると、不意に手を撫でられる気配がした。

「起きたのか」って――優しく、温かい手が聞いてきた気がした。


起きたくない、と掠れた声で呟く。

そうすると、撫でていた手の動きが止まって、ぎゅうと握り締められた。


もう、疲れたの。


そう言うと、沈黙がゆっくりと破られる。


「休めばいい」


その声を、よく知っているはずなのに、まるで知らない声のように感じた。

共に過ごして、ある時を境にだんだん声変わりして低くなっていった声。会うたびに声が低くなってくわねって、いつだったか笑った。貴方は不機嫌そうに、「喉が焼けるみたいに痛い」って不貞腐れて呟く。

痛くても、そうやって私にたくさん言葉を返してくれた。


――そんな些細な記憶が、全部嬉しかったのに。

この生では、そんなの何も経験しなかったね。

生きることに、守ることに必死で、なぁんにも。


休みたいなぁって言う。

短く息を呑む音がした。それから、声が先ほどよりも輪郭を持って、はっきりとした声になる。


「じゃあ、帰ってこい。……アイリス」


うん、そうね。

切実な声に、頷きたくなる。


でも、どこに?


私はどこに帰ればいいのだっけ?


だってこの世界の貴方を、私は知らない。

……でも、その手の温かさだけは覚えてるの。



▲▽


朝日に照らされ、優しく促されるように目が覚めた。

何度か瞬きをして、緩慢に身を起こす。


「起きたのか」


そうすると、ごく近くで声がした。

それから、手が――ずっと握られていたことに気付く。


「手……手袋が、ない」

「捨てた」


言葉は端的で、それ以上の説明はない。

アイリスは手に直接触れられた温かさに誘われるよう、顔を上げた。

枕元の傍、椅子に座っているのはウィルヘルム。


あの卒業パーティーの一件などなかったかのように、その顔は静かだった。ただ、それはアイリスが言えたことではないだろうから、指摘することなく口を噤んだ。


ここは、王宮の一室か。

アイリスはゆっくり辺りを見渡して、状況を把握していく。


てっきりエリークが自分を連れて帰ると思っていたけれど――横からウィルヘルムが連れ去ったのだろう。

とすれば、その頬が殴打されたように赤く腫れているのも納得できる。


アイリスと満足に会話ができないでいると、強硬手段に出て王宮に連れ帰る。――よくあることでもあった。幼少期で、あるならば。

まだウィルヘルムと心を通わせていた時期で、あるならば。


部屋にはウィルヘルムしかおらず、誰かが来る様子もない。人払いがされているのだろう。

何を、何故。これから、どうしたいのか。

聞きたいことは山ほどあるはずなのに、どれも本当に聞きたいことではない気がして、歯噛みする。


傍に座っていたウィルヘルムがそんなアイリスをじっと見ていたが、やがて身を乗り出すように覗き込んだ。アイリスがぴくりと肩を揺らせば、ウィルヘルムが薄く笑う。


「少しは素直な反応になったな」

「な、にを……」

「震えてる。怖いか? 俺が」


違う、と言いかけた。怖いのは、本当に――怖かったのは。


アイリスが視線を下げると、ウィルヘルムもまた押し黙る。それから、耳元に顔を寄せて囁いた。


「ただ、全部は開け渡してくれない。ここまでしても頑なになられると、流石に手詰まりだ。どうしてやろうか」


落とすように言われ、肌が粟立つ。

震える指先で、ウィルヘルムを引き剥がすようにその胸元を掴む。だが、逆にその手を取られるように抱き込まれる。


ぎゅうと背に手を回されて、体だけは喜ぶように温かい熱が灯った。

久しい、ウィルヘルムの匂い。……そうだ、この人は香水などの人工の匂いを好まなかった。ここまで近付かないとわからない、海のような匂い。全てを飲み込んでしまうような、深い青の匂い。


魅惑されたかのように顔を上げると、とろりとウィルヘルムが笑った。


「もうわかりやすく、散らして奪ってやればいいだろうか」


顎を取られ、いとも容易く、まるでそれが当然かのようにキスをされる。何も説明されてない。なぜここに居るかわからない。ウィルヘルムの気持ちも、わかっていない。


ただ、昔と同じような慈しみ――愛しげな視線を送られても、もうアイリスには何を信じたらいいのかがわからないのだ。


「それか、いっそ逃避行でもしようか、アイリス」

「やめて、キスしないで」


毅然と言ったつもりが、声は震えて情けない。

ウィルヘルムは低く笑った。

熱を押し当てるように強く、唇の表面を押し付ける。

強引なのに、逃げる余地は残すようなキスの仕方。

ずるい、と思った。


「……なんてな。もう手は打ってある」


ぽたぽたと涙が落ちたアイリスの目元を拭いながら、ウィルヘルムがそっと離れる。それからサイドテーブルにあったスープ皿を手に取った。

スプーンで掬ったスープを差し出す。


「とりあえず食え、アイリス」

「あ、……私、あまりお腹は空いてなくて……」

「だめだ、食え」


真剣な顔でウィルヘルムが言う。

それは有無を言わせぬ圧があった。


「細すぎる」


責めるように言われ、アイリスはおずおずと小さく口を開く。ウィルヘルムが少しだけ笑って、優しくスプーンを傾けた。


まさか、飲み切るまでこのまま世話を焼くつもりなのだろうか。そう目で訴えるも、あえて彼は無視する。

しかも口を開かないと不機嫌そうに睨まれる。


アイリスは、顔がじわりと熱くなるのを感じながら、しぶしぶ口を開いてスープを飲み込んだ。


「――ずっと怖かった。お前がいなくなろうとするから」


半分まで飲み進めた頃、独り言のようにウィルヘルムが呟いた。


「俺からお前を取り上げようとするから」


鈍っていた味覚が、徐々に薄味の優しいスープの味を理解していく。その染み渡る感覚に合わすよう、ウィルヘルムの独白めいた声が響く。


「泣きそうだったよ、アイリス」

「……今も笑っておられますよ。ちっとも、そんな風には」

「本当に?」


アイリスが思わず遮るように言えば、ウィルヘルムの真剣な目が向く。

顔は、ほんのりと笑っている。アイリスの言った通りに。


いつもの尊大で、余裕綽々とした未来の王が、悠然とそこに居るだけ。

――そう、見える。


「本当に俺は、笑ってるように見えるか? アイリス」


咎めるように言われれば、もうアイリスは黙るしかできなかった。

口を閉じる。ウィルヘルムももう何も言わず、黙々とスプーンを口元に運ぶだけになった。




随分と時間をかけてスープを飲み干すと、ウィルヘルムは幾分か満足したようだった。

アイリスがこれからどうすればいいのか――ベッドを抜けようとしたところで、肩を押さえられて転がされる。


は、と息をつく間もなく、隣にはウィルヘルムが寝転ぶ。


「寝ろ、アイリス。疲れてるだろう? 俺も、疲れた」

「……っ、殿下!」


起き上がろうとしても、横で押さえつけられるようにされるとどうにもならない。あがこうとしても、どうにもならないことを悟ったアイリスは、せめてもの抵抗にとウィルヘルムに背を向けた。


ウィルヘルムは、まるでそれを待っていたと言わんばかりに喉奥で低く笑い、背からアイリスを抱き込んだ。

アイリスが息を詰める。しかし、やはりそんなことを気にもしない王子は、アイリスの無防備に晒された白い頸に唇を寄せる。


「……お前は聞いても答えない。弱ったところを見せてくれない。何も強請ることもなく、一緒にいる時間も減らそうとする。体を開いても頑なになる一方で、ずっと一線を引いた先にいる。ずっと凍った感情と表情で誰も見ようとしない。その割に俺のことを守ろうとする」


小さく、責めるような声だった。もしくは、拗ねている声。振り返りたくなったが、同時に自分の顔を見られたくはなかった。身を固くして、アイリスは押し黙る。


「俺の知ってるアイリスとは、かけ離れ過ぎていた。どんどん変質していくお前にはほとほと困らされた。だからもう、一度全部壊すことにした」


そこで、少しウィルヘルムが沈黙した。


「そうじゃないと、お前が――物理的にも精神的にも、死ぬと思ったから」


静かで、寂しい声だった。孤独を耐えたのはアイリスだけじゃないと伝える、切実な声。

それは、固くなったアイリスを溶かす。


「不安なことは全部俺に言ってくれ」

「……やめて」

「風邪を引いたら俺に看病されて、雷に震えるなら一緒に寝よう。勉強や執務を中断して、一緒にいる時間を大切にしてくれ。花もドレスも宝石も、一緒に選んでお前を飾らせてくれ」


やめてくれ、と思った。

それでもウィルヘルムは止まらない。

聞いていたくないから耳を塞ぎたいのに、後ろから手のひらを抑えられて、どうにもできない。


傷ついたのも、壊されたのもアイリスなのに。

アイリスが悪いと言わんばかりの、勝手な人。


「俺にお前を守らせてくれ、アイリス」

「だめ、……だめなんです。それだけは、だめ。……私、わたし、は……」


声端が震えた。

何をどう言えばいいのかわからない。


この状況を、今までのことを説明してほしいと思った。けれどウィルヘルムだって、ずっとそう思っていたのだろう。離れて行ったアイリスを、ウィルヘルムはずっと責めていた。怒っていた。

そして、悲しんでいた。


「もう貴方に、守られる存在でいたくない」

「アイリス」


ウィルヘルムの顔が、アイリスの華奢な肩に埋まる。


「……お前だけは、俺の愛を否定しないでくれ」


泣きそうな、震えた声だった。


「お前に守られるだけの情けない俺になんて、させないでくれ」


泣いているのかな、と思ったが、実際に涙を溢し、みっともなく嗚咽を漏らしたのは、アイリス一人だった。


「いい、今は寝ろ。……おやすみ、アイリス」


温かい手で目元を押さえられる。

涙が止まらない。いろんな感情が溢れるが、まだそれら全て言葉にできない。ただ、体だけが本能として回復しようとしているようだった。


とろり、とろり。眠気と共に夜がくる。

震えなくていい、優しい夜が。


ずっと駄目だと思っていたのに、誘惑に結局負けて、アイリスはその熱に甘えて身を委ねた。



▲▽


貴方は私がいなくなることを怖いと言ったけれど、私だって同じなのよ。

本当に、ずっと怖かったのはシナリオ通りに動かずにいたら、貴方がまた私を守って、庇って――死んでしまうんじゃないかと思ったの。ずっとずっと、怖い。貴方が死んでしまうことが、何より怖いのよ。

そう、伝えられたらいいのに。


前と後ろが分からない。だから、貴方が差し伸べてくれた手の温かさに縋りたくても縋れない。


私を庇って死んだ貴方。

誰も断罪してくれないなら、私が私を裁くしかないでしょう?


でも、ウィル。叶うならば、またその手を取りたい。

貴方の隣にいたいなぁ。


夢の中でだけ、アイリスは素直に溢す。



現実世界のアイリスが静かに流した涙を、ウィルヘルムは指先で優しく掬う。指先についた涙を口に含んで、「しょっぱいな」と苦笑し、目を閉じた。

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