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幕間3踏みつけられた手袋(side ダグラス)

定期考査の結果が張り出され、爪を噛む。

変わらない一位と二位の名前。

アイリス・アルガード公爵令嬢の名の後にある、ダグラス・オズウェルの名。

アイリスの名に塗り潰され、己の名が霞むのに歯噛みした。


一方で、アイリスは定期考査の結果をちらりと見るだけで、大した感慨も見せず通り過ぎる。

頭の中がカッと赤く染まり、熱くなる。気に入らない。その全てにおいて冷め切っているような厭世的な態度も、世の中の全てを下に見ているような視線の何もかも。


アイリス・アルガード――最初から何もかもが気に入らなかった。

ウィルヘルム殿下に直々に紹介された時から、彼女は形式的な笑顔を浮かべるのみ。個人を見ようとせず、全ての物事をまるでガラス越しに捉えているような。

何に対しても情熱を燃やさず、人間関係もそこそこ。決して他者に一線を踏み込ませないような、明確な拒絶がいつもある。


得体が知れず、不気味な女。

――それが第一印象だった。


殿下の婚約者でありながら寄り添おうともせずに、しかし立場だけは誇示するために婚約者であり続ける。

公爵家に生まれ、長兄からも愛され、両親にも目を向けられ、使用人も当然のように傅く。

だからだろう、傲慢さが滲み出て、自分が尊重されるのが当たり前という顔を常にする。


その点、俺を重用してくださるウィルヘルム殿下は違う。

王太子というこの国で最も尊い立場にありながら、公正で公平。弱き者にも目をかけ、王族らしい傲慢さなど欠片もない。侯爵家三男という、親にも捨て置かれたような俺の手を取ってくれた、神様のような人。俺の能力を買ってくれ、掬い上げてくれた人。

――この人のためなら、俺は盾になろう。

アイリスという不気味な女を排除してみせよう。





そんな中。

殿下がミラベル男爵令嬢に入れ上げていると聞いた時。取り澄ましたアイリスの顔が浮かび、ざまあみろと愉快な気持ちになった。

男爵令嬢という立場上、流石に王太子妃にはなれないだろうが――殿下が自ら手を差し伸べて隣に置いた女の立場も、素養も、性格も、見た目も。

何もかもがアイリスと正反対であることが、酷くおかしかった。


殿下が市井に降る時はよく俺を伴ったから、ミラベルとは面識がある。アイリスへの当て付けを込めてミラベルを丁重に扱ってやった。そうすると、ミラベルは決まって優越感が透ける笑顔をした。


婚約者のいる王太子を狙う女だ。狡猾さも姑息さもあって然るべきだろう。そして、殿下は決して暗愚ではない。ミラベルの底意地の悪さは見抜いている。――その上で、許容しているのだろう。


アイリスが学園の中で、静かにミラベルを睨んでいる姿を何度か見かけたことがある。それでも結局、一度たりとも彼女は俺にもミラベルにも侮蔑を返さなかった。

愚かな女だ。外面を取り繕うことだけが矜持など。

みっともなく縋る気概もない姿。やはりあの女は淑女の皮を被っただけの、温度のない人間なのだと再確認した。


「お前は俺を止めないんだな。他の側近連中は、アイリスをもっと大事にしろと忠告するが」

「私は殿下が愚かでないことを知っております故。一時の戯れに目くじらを立てません。息抜きは必要ですからね」

「……息抜き、か」


殿下は呟きながら、緩やかに揺れる馬車の中、窓へと目を向けた。

今日も孤児院の慰問には“偶然”ミラベルが来る手筈となっている。

王宮には、定例の交流の場として誂えられた茶会にアイリスが呼ばれた状態で。


殿下は、その口元にうっすらと笑みを浮かべ、それ以上何も言わず外を眺め続けていた。

――その表情は、俺が知る『王太子殿下』のものではなかったと。

違和感が確かに一瞬過ぎったのに。

けれど当時の俺は、それを「気分がいいだけだ」と都合よく片付けたのだ。



▲▽


ずっと、そうだった。

そうしてきていたから。


「ダグラス、アイリスに何を吹き込んでいた」



だから、こうして連れてこられた執務室で威圧されることに混乱していた。

今までアイリスに対してどんな蔑みや侮蔑の視線を投げようと、殿下は俺を咎めてきたことなどなかった。

そもそも殿下は俺に言いつけていたのだ。

アイリスが下手な動きをしないか、見られる範囲で見張れと。

その上で、ミラベルに対し接触しないようにしろと。


殿下の最愛はミラベルであり、アイリスは立場上の婚約者でしかない。

だというのに、先ほどアイリスを詰った俺に対して、殿下は苛々とした様子で執務机を指先でとんとんと叩いている。


「殊更愚かだからとお前を置いたが……とことんお前の狂気はつまらんな。その癖、一線を越えて動こうとするなど……」


そう言って、殿下はがしがしと自身の髪を掻いた。

まるで持ち駒が思った通りに動かなかったと失望しているような素振りだ。


どれだ。どれが殿下をここまで苛つかせた?

王宮の廊下、アイリスとの会話を必死に思い返す。

アイリスがあの能面のような顔を初めて強張らせた瞬間。

思い出せ、勢いで言った言葉を。

あの時、俺は確か――。


「いい、お前に反省など不要だ。どうせ、卒業後は王都にもいないだろう」

「……は?」

「中途半端な正義も常識も、どちらも俺には不要だ」


話についていけない。

ただ、アイリスに対する態度や言動に、殿下が気分を害したのだということは分かった。


ざっと血の気が引く。

でもたった一度。たった一度、態度を間違えただけだろう?たった一度、だよな? 間違えたのは今日の一度だけ……その、はずなのに。

呆然とする俺の肩を、殿下の正式な側近が押す。

殿下は興味なさそうに引きずられる俺を見た。


「ああ、……お前も卒業生なんだから、ちゃんと卒業パーティーには参加しろよ」


そう言って、扉が閉まる直前だけ、殿下は笑った。





▽▲


あの女が――アイリスが泣く姿なんて、見れたら痛快だとずっと思っていた。

実際に見た時、胸の奥がざわついた理由は、まだ言語化できない。……したくはない。


そして、思わず目を逸らした先にいたウィルヘルム殿下を見て、息を詰めた。

その人は、笑っていたからだ。


壊れるアイリスを見て、安堵に笑っていた。

心底、嬉しそうに。


卒業パーティーの会場で見た全てを幻だと言って欲しくて、あんなものは全て演技にすぎないと教えて欲しくて。

俺は体面もなく、無我夢中で殿下の後を追った。

そして今――立ち尽くしている。


王宮の廊下を、殿下は歩いていた。その腕の中には、先程殿下自らが断罪しようとした相手――アイリスがいる。

殿下の顔には殴打の痕があるが、それでもアイリスを離さない。

その口からは、殴ったエリーク公爵令息への文句が漏れていたが――顔はどこか晴々としていた。

大切な宝物がやっと戻ってきた、そんな表情で。腕の中に眠るアイリスを見つめている。


なぜ、あの女が――。


血の気が引いていく。

だって、俺にアイリスを見張らせたのも、ミラベルを隣に置いたのも、全て殿下だったじゃないか。なのに、なぜ。――最後に殿下の腕の中にいるのがアイリスで、突き飛ばされたのがミラベルなのだ?


呆然と、立ち尽くす。声が出ない。


「ああ、来ると思ったよ、ダグラス」


言いながら、殿下は腕に抱えたアイリスに頬を寄せた。

どこからどう見ても溺愛している。とろけるようなその顔は、場面が違えば誰もが見惚れただろう。けれど俺は、ずっと冷や汗が止まらない。


そんなに大事だったというなら、なぜ彼はアイリスを徹底的に壊したのだ?


これは――誰だ?


俺はずっと、この人は「正しさの象徴」だと思っていた。でも本当は――“壊すためだけに美しく立っている怪物”なのではないか、と気づいてしまった。違う、……ずっと、目を逸らしていただけだった。殿下のおかしさを。


手の震えが止まらない。


殿下がふと、アイリスの手に目をやり、眉間に皺を寄せた。それから、乱暴にも見える動作で、彼女が愛用していた手袋を引き抜く。心底忌々しそうな顔で、その手袋を踏み付けた。


あの日の執務室での苛立ちとは比べ物にならないほどの、強烈な怒り。彼女の無垢さを隠してきた手袋に、明確な憎悪を持って唾棄する。人よりも無機物に腹を立てる姿は、どう見ても異常だった。

ひくり、と喉が引き攣る。


殿下はしばらくそうしてから、ふー、と息をつき俺を見た。


「最後に一つ、お前に教えてやろう」


聞きたくない。そう思ったのに、殿下は容赦がなかった。


「お前はアイリスが嫌いだったんじゃない。お前は“俺の異常性”を見た自分が怖かっただけだろう。俺に見ていた虚像が壊れるのが嫌で、アイリスを必要以上に悪として見ただけだ」


だって、アイリスは悪で、殿下は正義である。

――そのはずだった。


なのに。

ボロボロになり、涙の跡が頬に残り、真っ白い手袋に隠された手は小さく、白い。

俺の手なんかより、ずっと。

華奢で、頽れた体は痛々しかった。


学園で毅然と構え、温度なく立っていた氷花。

ただ、彼女が“そうであるしかなかった”としたら――?


アイリスは卒業パーティーで泣いていた。

殿下を思っていたのだと。殿下の渡した野花さえも手離せなかったのだと、告白していた。


俺が、ゴミだと断じた、あの花束を。


咄嗟に口元を覆う。

平衡が保てなくなりそうだった。


だって、それでは。

俺がずっと悪だと断じていた相手は、ただの――壊れそうに繊細な、孤独を強いられて限界を迎えていた一人の少女だったのでは、と。


それを傷つけ、踏み躙り続けた俺は……。


顔から血の気が引く。膝を折って項垂れる俺に、殿下が笑う。得体の知れない化け物のような顔――俺が、いつも見ていた笑顔。いつも見ていたはずの、見ぬふりをしていた狂気を孕んだ笑顔。


俺はその時、俺が見ていたものが全て紛い物だったと、ようやく認めた。


「その手袋は、お前が処理しておいてくれ」


それが、俺の罰だと理解するのに、少し時間がかかった。

もう俺に感情を向けることなく殿下は立ち去った。いや、本当は――俺に向けられた感情など今までひとつもなかったのだろう。

彼の感情は、アイリスにだけ向けられている。


俺でも、ミラベルでも同じ。

感情などひとつも向けられていない。

アイリスを壊すために配置された、ただの駒でしかなかったのだから。


『貴方のような直情的な方を、なかなか殿下が重宝しているのを見たことがありません。捨て駒にはしておりますが』


アイリスが俺に向かって唯一悪意を向けてきた、あの時。

あの言葉は、真実だった。


アイリスの怒りに気付き、忠告を聞き入れるべきだった。それを無視したから、虎が出てきた。


狂気にも、愛にも、正義にもなれなかった俺は――踏みつけられた手袋と共に、置き去りにされるしかなかった。

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