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十二話 断罪劇2

煌びやかなシャンデリアの光の中、色素の薄いアイリスの美貌が浮かび上がる。

薄い笑みを携えて。

そうであるように、ずっとしてきた。

だから、体も心も何もかもがこの場を拒否しているのに、表情だけは――笑みを模ることができたのだ。


ウィルヘルムはぴくりとも表情を変えず、アイリスを見据えたままに低い声を出す。


「ミラベル・ウッドウェイ男爵令嬢、前へ」


そう言うと、ミラベルはびくりと肩を揺らした。オドオドとした様子で、しかし足元には期待が滲み出ている。

アイリスと向かい合うように、ウィルヘルムの隣に立つ。

当然のように佇むその姿。怯えた表情でアイリスを見ながらも、優越感が見え隠れする。その怯えが演技であることを、アイリスだけが気づいていた。アイリスを見下しきった目。


思わず顔を顰めそうになって、ハッとして手袋で口元を隠しながら目を逸らす。

アイリスの表層にわずかに滲んだ悪感情に、ウィルヘルムが一瞬だけ目を瞠った――そのことに、アイリスは気づかない。


ウィルヘルムは近寄ってきたミラベルの肩を抱き寄せ、アイリスにも周囲にも聞かせるように、殊更甘い声を出す。


「アイリス、俺の最愛をずっと傷つけていたな?」


言いながら、ウィルヘルムの手がミラベルの髪に絡む。――いつか、アイリスに触れたように。

ぐにゃり、と視界が歪む。唇が震えそうになる。

ミラベルの悪意に満ちた笑顔がアイリスに向けられた。

前の生でミラベルが望んだ「卒業式にウィルヘルムに捨てられるだけの女」となったアイリスを嗤っている。


ざまぁないわね、と。あの牢獄に繋がれた醜い女が言う。

自分の幸せのためには、人を屠ることに何の躊躇いもない女だった。ウィルヘルムを刺したことについてだって、一度も贖罪なんかしていなかった。ただ、「アイリスが悪い」――そればかりを繰り返した、狂った女。


この生であろうと、狂った女の本質は何も変わらない。

今、アイリスは確信した。

狂っている。そんな女がウィルヘルムの隣を独占するなんて。

心臓の音だけが、自分の中でやけに大きく響く。


どれだけその女の顔が歪んでいるかも知らずに。その愚かさを、いっそ呪ってしまいたかった。嘲ってしまいたかった。

押さえ込んでいたはずの感情が吹き出る。真っ赤に染まるような、不快な熱さ。

この世界のすべてが壊れてしまえばいい。全部、全部。いや――いっそ、そうであるならば。アイリス自身が……いっそ。


違う。違う。違う違う。駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。

違う、集中しろ。目を逸らすな、気持ちを保て。

これでいい、これでよかった。――決めたのだから。巻き戻り、目覚めた時に。

泣いてはいけない。泣いたら、あの日に戻ってしまうから。


息を吐く。


アイリスは、ふとミラベルの髪飾りに目を止めた。ウィルヘルムの瞳の色を象徴する、大ぶりの生花が刺さっている。その花に、ウィルヘルムが指を触れた。

ミラベルは恥じらうように小声で、しかし会場中に聞こえるほどはっきりと言う。


「殿下……こんな素敵な花、送ってくださりありがとうございます」

「ミラベルに花を贈ったのは、必要だったからな。……最愛に、示すために」


ウィルヘルムの目がこちらを向く。

その指先は、ミラベルの花ではなく――その花を“見せつける相手”だけを、正確に見据えていた。



不自然に目を逸らし、燭台の消えた火を探す。

探しても、消えた火が灯ることはない。誰かが点けてくれないのなら、当然、消えたままだ。

ウィルヘルムと目が合う。深い緑の目。巻き戻り前、その目の中にアイリスの姿がよく映っていた。甘やかな目で、こちらを見ていた。

その瞳の色は変わらないはずなのに、よく知るウィルヘルムではもうないのだ。違う人。違う、違う……。

ああでも、なぜ、愚かなアイリスはその瞳の色だけは変わっていない気がしてしまうのだろう。そう思うことこそが、辛くなるトリガーになるだけなのに。


「ミラベルをお前が排すよう動いていたと報告を受けている」

「滅相もございません」

「俺たちの仲が冷え切っていることに対しての嫉妬か?」

「それであるならば、殿下こそ私という婚約者がいる立場で、なぜこのような愚かな真似を?」


▲▽


それでも、口が勝手に動く。

私は舞台装置。悪役令嬢アイリス。


焦点が合わない。ずっと耳鳴りがしている。頭が痛い。吐き気が止まらない。全身の震えが抑えられなくなってきた。

それでも――私に与えられた名は、アイリス。

誰にも隙を見せてはならぬ。


正しくあれ。

背筋を伸ばせ。

弱さを恥じよ。

やり返せ。

公爵令嬢らしくあれ。


だって私は、未来の――


「殿下こそ、瑕疵が何もないと? 婚約者である私を差し置いて、随分、その粗末な娘へ目をかけていたようで。共にするだけならばいざ知らず、宝石もドレスも、花も菓子も。殿下自ら送ったとか。よもや男爵令嬢を未来の王妃に据えるとでも?」


未来の――王妃。


……王妃?


王妃では、もうないでしょう?


だって、私が対峙しているのは、未来の国王になるはずだった人。

私はその人の婚約者。そして、その人の間違いを断罪しようとしている。そしたら、この場を逆転したら――婚約者は王太子じゃなくなる。なくなったら、婚約者の私は、王太子妃から降りる。


いや、そうではない。

私は今後も王妃だろう。

ウィルヘルムが失脚し、ジークフリートが繰り上げで王位継承権第一位になり、そうなれば、私を王妃に据えると言われ……


あれ? なんで?

婚約者は変わるのに?

私は王妃? 私は――。


私は、王妃だった。

王妃アイリス。

ウィルだけの、王妃。


ぱきん、と。何か、耳のすぐそばで音がした。気がした。


違う。違う。今はそんなことを無視して、場を収めるのだ。感情に呑まれるな。理性的であれ。

そう、頭の中で本能を押さえつける。

毅然とあれ。思えば思うほど、歪んでいく視界を自覚しながら、なんとか前を向く。


「私には、遠征先の花でした。束として不揃いで、いかにも粗雑に、殿下が適当にあつらえたただけの道端の野花」


しかし――ぱきんと音がしたところから、ガラガラと崩壊していく。


口はなんとか縺れず言葉を紡いでいるが、表情まで取り繕えているか、最早わからなかった。

それでも構わず、血反吐を吐くような思いで、あらかじめ用意していた言葉を、台本のように読んでいく。足元が酷くおぼつかない。倒れそうだ。なぜ私は、ここに一人で立っているのだろう。


「そこの男爵令嬢が誇らしげにも首に下げているルビーの価値になんて、とても敵わない」


酩酊感のようなものがある。

何かが砕け散っていく。そこから、いろんなものが堰を切ったように溢れ出していく。

しかし、未だ声だけは――壊れたオルゴールのように回り続けている。


「渡す時には、もう萎びていて、従者さえ眉を寄せるような、本当に酷い有様の野花。私を嘲った花」


いたい。痛い。

身体中から、血が噴き出ているよう。

なんで、私はウィルヘルムと向き合っているんだろう。憎き宿敵に出会ったかのように、お互いを睨みつけながら。


耳の中に、水がたっぷり入ったような錯覚を起こす。

ふっと力が抜ける。立っているのが、まるで私の体じゃない。

魂が、抜けたよう。


目が合う。ぐにゃりと歪んだ視界では、ウィルヘルムの表情まではわからなかった。けれど――新緑のその凪いだ瞳の色を見た瞬間、いよいよもう駄目だった。

苦しい。こんなにも苦しい。

息をするのも苦しいの。


なのに、なんで。

ウィルは隣にいてくれないの?


張っていた背が、丸まる。

相手を威嚇するよう伸ばしていた指先から、力が抜けていく。勝ち気に見せようと吊り上げていた口元が、徐々に真一文字になっていく。張り上げていた声から、威勢がなくなる。


正しくあれ。公爵令嬢らしくあれ。

――次期王妃らしくあれ。


そう、言われて、た。

言われて作った“私”が、砂上の城のように崩れていく。誰にともなく呟くように小さくなった最後の一言は、それでも誰も喋らない会場の中、誰の耳にも届いた。


「でもあれは、……私のためにウィルがわざわざ取ってきた花だったの」


だから捨てなかった。それだけだった。


視界が、ぐるんと変わる。

耳の中に入った水が、体中に溢れる。――ああ、違う。違う。水が溢れてるのは瞳から。視界が変わったのは、立っていられなくなった私が蹲ったから。


ひぃん、と情けない、子供のような泣き声が聞こえる。

違う、違う。これは私の泣き声。


ガラガラと崩れる、虚勢。


私が、強くありたいと思ったのは、貴方のためだったはず。貴方を隣で支えるために、王妃を目指したのに。

王妃になりたいからじゃない。

貴方の隣にいる手段が、王妃だったというだけ。


なのにどうして、私は貴方を断罪しているの。





――次の瞬間、誰かの影が光の中から飛び出した。



▽▲


蹲り、泣き出す。


およそいつもの威風堂々としたアイリスとはかけ離れた姿に、会場中の誰もが硬直し、動くことができなかった。

ざわめきさえも生まれない。


そんな彼女の肩を庇うように抱き、慌てた様子で王子を睨みつけたのは彼女の兄――エリークだった。


エリークのそれは反射だった。だからこそ反応できた。

ウィルヘルムにいじめられたアイリスを庇うのは、いつだってエリークの役目だったから。

無垢なまでの“癖”だった。


「ウィル! お前、絶対に許さないからな! 妹をここまで泣かせやがって!」


まるで子供の喧嘩のような言い草だ。

しかし彼は彼で、いつも理路整然としていて――兄の自分でさえ時にたじろぐような理性的であるアイリスが流した涙に、動揺していた。


それまでは、あの完璧な妹のことだから自分が特別フォローしなくても上手くやると、確信していたのだ。むしろ足手まといになる。そう思って傍観していた。

だが、蹲り、小さな子供が自分を守るように泣き崩れるその華奢な背を見て――唐突に思い出したのだ。

まるで子供のように、じゃない。


妹が自分より五つも小さい、まだ守るべき子供だったことを。

彼は、この場の誰よりも早く思い出した。


そうだ、昔は、アイリスの涙に動揺することなんてなかった。

よく泣く子だったから。


子供の頃。

彼女は感情豊かで、少し臆病な、ただの少女だった。

粗暴で粗野、口の悪いウィルヘルムに泣かされることもしばしばで、その度に兄であるエリークが飛んできて、ウィルヘルムに怒鳴っていた。

「俺の妹に何をする!」――そう言うと、ウィルヘルムはぐっと詰まってから、「俺の婚約者だ」と拗ねたように返していた。

それは一度や二度の光景ではない。


「アイリスを! 俺の大事な妹を、大切にするならって俺たち公爵家はお前にアイリスを任せたんだ! ふざけるな、……ふざけるなよ!」


ウィルヘルムが王太子だろうと、エリークには関係ない。

アイリスが泣く限り、彼は誰にでも食ってかかる。

変わろうと、変わるまいと。

子供だろうと、大人だろうと。

アイリスは、たった一人の妹なのだから。


アイリスは嗚咽を漏らしながら、止まらない涙を流し続けた。

兄の腕の外に聞こえる群衆のざわめきが遠い。兄の呼吸と鼓動の音だけしか、もう聞きたくなかった。

焦げ臭さとは違う。

兄の服に染み込んだ、家の木の匂い。


――ああ、これが。私が帰っていい場所だった。

やっと、息をしてもいいと言われた気がする。

   

久しかった人の温もりを手繰り寄せ、その顔を隠すように、アイリスは目を閉じた。

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