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十一話 断罪劇1

豪奢なシャンデリアが天井から降り注ぎ、無数の光が磨かれた大理石に反射している。

煌めきは祝宴のための光であるはずなのに、それは氷のように冷たく、胸を刺した。


誰もが笑っている。誰もが談笑している。けれど、“空気”だけが確かに震えていた。ざわめきの奥に潜むのは、期待ではなく――黙って見届けようとする残酷な好奇心。

無責任な観衆は望んでいるのだ。今日、この場で、何かが終わり、何かが変わることを。


アイリスはゆっくりと会場に足を踏み入れた。すべての視線が向けられる。だが、声はかからない。称賛でも、同情でも、侮蔑ですらなく――ただ「観客」の目だった。


喉が乾く。けれど顔は崩れない。

王太子妃として育てられた微笑みを、プログラミングされた機械のように張り付ける。

足音が吸い込まれていく。洗練された動きは、もはや亡霊のようにも映るほどだ。


処刑台へ自ら進んでいく罪人にでもなったようだった。煌びやかな祝いの席を模した、張り詰めた処刑場。そう思いながらもアイリスは、堂々と――その歩みを止めなかった。



そして、空気が、ふ、と張りつめた。


誰もが同時に気づいた。

王太子が、来たのだ。


扉が開く音はわずかだったのに、会場の温度が一度、確実に落ちた。

ウィルヘルムの姿は、華やかで、正統で、誰もが憧れるはずの光を纏っている。

優雅で、冷徹で、決して振り返らない。

その姿が視界に入った瞬間、アイリスの呼吸はひとつだけ乱れた。――終わりの訪れを予感したからだ。


歓声も、喝采も起こらない。異様な緊張感が会場を包む。それを皮肉に笑い飛ばすように、ウィルヘルムが口を開いた。


「今日ここで、王太子妃は変わる。――アイリス、分かるな?」


真っ直ぐに向けられた言葉。アイリスはゆっくりと首を垂れ、それから目を開いた。ウィルヘルムはこちらを見ている。

触れたら破裂しそうな沈黙の中、絶対的な王だけがこの場の空気を支配していた。

ウィルヘルムが不意に、己の右目に一瞬触れる。その片目だけで、アイリスを捉えた。


「さあ、アイリス。お前の話を聞こう」


▽▲


――数日前。


『実際のところ、男爵令嬢との恋物語なんて、王都の平民にしか人気はないんですよ』


卒業式間際、呼ばれた執務室の一角で、ジークフリートは事もなげに言った。

日当たりのいい部屋内には、ほうけてしまいそうなくらい暖かい日差しが差し込み、鳥の鳴き声も微かに聞こえる。

「内密なことなので」と人払いされた場の中で、ジークフリートは猫が日向で伸びをするように両手を上げた。

穏やかで、ゆったりとした空気。


その作られた空気の中に、アイリスはどこか夢見心地にいた。いつもウィルヘルムを待っていた温室よりも温かい。紅茶の銘柄も違うことがわかる。温室で出されていたものよりスパイシーさが抑えられ、口当たりが柔らかい。

「リラックスするように」と、言葉以外でも伝えられていた。

ジークフリートは窓を背負うように配置された執務机から立ち、鷹揚に空を見上げた。


『貴族というのはもっと狡猾で、打算的だ。派閥も含め、アルガード家が抜きん出ている。それを反故にしてまで恋を取るとすれば、兄上の信頼は地に落ちるでしょう。ましてや、貴方の瑕疵をでっちあげたともあれば』


窓を見つめるジークフリートの顔は、アイリスには見えない。

ただ、変わらぬ背中がそこにあるだけ。


『兄上が卒業間際に貴方に仕掛けてくる。けれど、逆手にとって兄上に婚約破棄を告げるのは貴方でもいい。もしくは、それ以前に婚約を破棄するのでもいい』


それは、わかりやすい選択肢の明示だった。


ウィルヘルムが整えた舞台に上がるか、上がらないか。そして、その上で、迎え撃つのか。

話はそこまで進んでいる。

アイリスが、そう歩んできた通りに。


幼少期、必死にノートに書き写した前の生の記憶。狂った女の話したシナリオ。その中で、悪役令嬢アイリスは卒業パーティーで断罪される――そう、自分で書いた。何度も何度も、読み返した。


『……貴方の大切なものの中に、ウィルヘルム殿下は含まれると言いましたね。では何故、私にそのようなご進言を?』

『兄上は、本当にあの男爵令嬢と一緒になることで幸せになれると思いますか? 貴方を捨ててまで愛を取ったと仮定して――王位はそのままであるのか。愛はどこまで続くのか』


「捨てる」という直接的な言葉に、アイリスの視線が自然と下を向いた。その仕草を咎めるように、ジークフリートが振り返る。淡い笑みを浮かべ、緩やかに首を傾げた。

アイリスの前に歩み寄り、内緒話をするように顔を近づける。


『フェアじゃないでしょう? 貴方一人が苦境に立たされ、戦い続けるのは。貴方ばかり、奪われるのは』


そうして、悪魔が囁くように――ジークフリートは殊更、甘い声で言った。


『貴方が貴方らしくいられる選択をしてください。

私はその選択がどうであれ、貴方を尊重します』


わざとらしいほど味方だと全身で示すジークフリートの顔は、似ても似つかないはずなのにウィルヘルムの"食えなさ”を思い出させる。本質は、やはり同じ双子なのだと、アイリスは再確認した。



▲▽


ウィルヘルムにも、ジークフリートにも、舞台に上がれと促された。その行き着く先がどうであろうと、アイリスは確かに逃げるつもりはない。

道化は道化らしく、最後まで。


目を一度強く瞑り、それから前を見据える。


心配に満ちた公爵家、ローズの目線を感じる。けれど、誰も止めない。皆が見守っている。それらを背負うように、一歩踏み出す。


好奇、期待、不安、疑念。

様々な思惑の視線を受けながら、観衆の目をすり抜ける。


『その先の、未来も見据えて』

――そう、ジークフリートが最後に言った言葉を思い出す。


一歩、進む。


視界の端に、口元を抑えたミラベルの姿が映る。

隠しきれない愉悦。その表情は、前の生で狂気に堕ちた女のものとは程遠い。この異様な緊張感の中、一人、期待に打ち震え、頬を薔薇色に染める女を通り過ぎる。

――女がどうやってこの物語を始めたのか、掴めなかった。

結局、時間切れだ。謎解きもなしに、強引に舞台は整ってしまった。

魔法薬も、魔道具も、あり得ない。その“分かりきった結論”に縋るほど、事実はねじれていく。証拠はないのに、現象だけが正しい。

その矛盾こそが、この世界の“狂気”だった。そしてこの世界に、アイリスは負けたのだ。――もう、それでいい。


誰もいない。孤独だ。一歩進むごとに、孤独の中を歩いている。隣には、誰もいない。

アイリスにとって、もはやこの場まで辿り着けた時点で、この世界の誰も味方ではない。敵ですらない。ただ、自分は装置なのだ。だから、機械的に動かなければいけない。


真っ白な境界のような手袋を握りしめながら歩く。

歩みを止めてはいけない。震えてはいけない。怯えてはいけない。


色とりどりに飾られた会場の花たち。

切り花、花束、生花。瑞々しく、生命に満ちていた。

自室に閉じ込めた、粗末な花の残骸が頭をかすめ、喉がごくりと鳴る。


小さなヴァイオリンの音が聞こえる。

調律も完璧、曲調も乱れない。狂いのない音の中で、アイリスの心臓がどくどくと呼応するように鼓動する。


「泣かないのがお前の取り柄だったろう? 最後まで誇りを持て」


真っ直ぐに行き着いた先。

ただ一人守りたかった人。愛しい人。

その人も私を見ている。


けれど遠い距離にいるその人は、私を見ているようで見ていなかった。

冷たい声。温度のない視線。差し伸べられない手。


酷い耳鳴りがする。耐え難いほど頭が痛い。立っていられないほど吐き気がする。貴方の瞳の中にいるのが『悪役令嬢アイリス』であるのが、耐えられないと体が叫んでいるのだ。

いくら感情を殺そうと、体は拒否を起こす。

それでも――それでも。


息を吸い込む。口を開こうとした、その時。


ふと何気なく、ウィルヘルムの背後にある燭台が目に入る。

揺らめく炎に、焼却炉の中の炎を見た。狂った女が言ったシナリオを書いたあのノートは全てを焼き尽くし、灰にした。空に還した。

そのはずなのに――焦げた紙の匂いがした。ほんの、かすかに。胸の奥がひどく軋んだ。


焼却炉の前で立ち尽くした日の、指先の黒。

炎に落とした“救いの手引き”。あれは、“もう二度と振り返らないための儀式”だった。そのはずだ。そのはずなのに。

どうして今、胸の奥で燃えている?

どうして、「間違えた」と叫ぶ声が聞こえる?


小さなアイリスが泣いている。

燃やしても、焼いても、灰になっても、消えてくれなかった。――遺っている。


手袋に覆われた手先を見れば、黒ずんでいる。

そこから、闇に囚われる自分の幻を見て、ヒュッと息を呑む。

息が苦しい。喉に灰が絡まったようだった。


その時――アイリスとウィルヘルムの間を通り抜けるように、風が吹いた。

そうして、燭台の細い炎が、あっけなく消えた。


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