十話 断罪前夜
「貴方の周りはいつも人がいませんね。俺は件の男爵令嬢がいいとは思いませんが、彼女の周りに人が溢れ、何かしらの求心力があるのだとしたら、それは才能かと思います」
王宮を一人歩く。
その背に、切りかかるような声が飛んだ。歩調を緩め、ゆっくりと振り返る。
アイリスを嘲るような表情を浮かべながら、こちらを見ているのはダグラスだった。
アイリスはにこりと笑い、会釈する。公爵令嬢に、侯爵家の三男風情が挨拶もなく王宮内で不敬に声を掛ける――そのことを、アイリスは指摘しなかった。
ダグラスは早足で、コツコツとこちらへ寄ってくる。
学園だろうと街中だろうと王宮だろうと、最近は見かけるたびに突っかかってきていた。
アイリスとウィルヘルムの不仲説は今や公然の秘密となっており、社交界での評判も悪い。
それに比例するように、ダグラスはアイリスを攻撃してくる。まるで水を得た魚のように。
気に入らない女を排除でき、口で言い負かせる――それはさぞ気分がいいのだろう。
口元には、歪な笑みが浮かんでいた。
「自分よりも彼女の方が優れていると、欠片も思わないと?」
いくらアイリスがウィルヘルムから不遇な扱いを受けようと、愛されまいと、こんな公的な場で公爵令嬢と男爵令嬢ごときを並べるだけでも礼を欠いている。
それを指摘してもよかったが、それよりも効果的な問いを選ぶ。
「貴方はさも、殿下のことを自分が一番わかっている、自分こそふさわしいとでも言いたげですが――それは慢心では? あの方の一面を見ただけで、すべてを知った気になっているのではありませんか?」
「何を……!」
「貴方のような直情的な方を、殿下が重宝しているのを見たことがありません。捨て駒にはしておられますが。」
くすりと分かりやすい冷笑を投げつける。
それは今までで一番明確な、ダグラスへの悪意だった。案の定、ダグラスは怒りで顔を赤く染める。
実際のところ、今の生でしかダグラスと会ったことはない。ウィルヘルムが何を思って彼を起用しているのか。側近候補としてなのか、監視目的なのか、それ以外なのか。
ただ分かるのは、アイリスに敵意を抱く人間を、あえてそばに置いているという事実だけ。それ以上を、アイリスは知ろうとしなかった。
「お互い、足を掬われないよう気をつけましょうね」
そう言って頭を下げ、去ろうとしたその時だった。
「っ貴方など! それを言うなら、貴方の立場など――あの襲撃の時、怪我をしても誰ひとり泣かなかった! 殿下も心配などしなかった! それが貴方の立場ですよ!」
苦し紛れの叫び。
けれど、それは今までで唯一、アイリスの心に届いた言葉だった。
一瞬、息を吸うのを忘れる。そのわずかな空気の乱れを感じ取り、ダグラスは意気揚々と喋り出した。
「“泣かない貴女”を殿下は誇っていたんですよ。まさか、それがただの“便利さ”だったなんて――哀れですね! ははっ」
誰も泣かない。ウィルヘルムは心配しない。便利。――それを私が望んだからだ。
そうなるように動いてきた。そうなるように「悪役令嬢アイリス」を構築した。
強く、冷静で、理知的で。襲撃されても怖れない。ウィルヘルムの盾になることに喜びを感じる。そういうふうに、成長したのだから。
だから、周囲も心配しない。泣かない。私が平気だと笑うから。
それが正しかった。そう信じてきた。
なのに――頭の奥で、小さな声がした。
集中しなければ聞こえないほどの微かな声。切り捨てたはずの“小さなアイリス”の声だった。
背中に嫌な汗が伝う。息が乱れそうになる。この幻聴を、長く聴きたくない。聴いてしまえば、後戻りできなくなる。
止まったアイリスに、ダグラスは勝ち誇ったような笑みを見せる。
その口がまた何か言葉を紡ごうとした――。
「何をしている、ダグラス」
低く威圧的な声が割り込んだ。
ダグラスもアイリスもはっとして振り向く。そこには、静かに、しかし確かな怒気を纏ったウィルヘルムがいた。
ウィルヘルムの視線はまっすぐダグラスに向けられている。その強さに、ダグラスは蛇に睨まれた蛙のように竦み上がる。
不機嫌を隠しもせず、ウィルヘルムは鼻で笑い、アイリスに視線を移した。その顔は決して優しくはないが、敵意も悪意もなかった。
「久しいな。こうして公の場で顔を合わせるのは。今日は……ジークの下に呼ばれているんだったな」
「……はい、殿下」
「あいつはアイリスに甘くて困る」
ウィルヘルムは息をついた。けれど、ジークフリートの下へ行くのを止めるわけではない。
目で「行け」と促され、アイリスは丁寧に頭を下げた。ウィルヘルムの乱入で、開きかけた蓋をまた閉めることができた。
安堵の息をつく。
ダグラスを伴い反対方向へ向かおうとしたウィルヘルムが、一度だけ振り返る。
「アイリス。卒業パーティーはもうすぐだ。……逃げるなよ」
目線が絡む。
その目は探るようで、けれど怒気はない。ただ静かに、冷たくこちらを見据えていた。
数秒の沈黙ののち、アイリスは一度だけ目を閉じ、薄く笑った。
「卒業パーティーですもの。逃げるなど」
ウィルヘルムは眉をひそめたが、何も言わず去っていった。
▲▽
「私と殿下が婚約破棄になる、という噂が出ています」
使用人を下がらせ、両親と兄だけが集まる公爵邸の一室。
アイリスは静かに告げた。
がたり、と動揺で椅子を揺らしたのは母。怒りに立ち上がったのはエリーク。父は頭を抱えるようにして、細く長い息を吐き出した。
三者三様の反応だが、概ね想定どおりだ。
アイリスは少しだけ安心したが、そんな様子は微塵も見せず、悲痛な笑みを貼り付けた。
「……アイリスと同級の男爵令嬢と、ここ最近とくに交流を持っていると聞いている」
感情を抑え込むように父が言う。
アイリスは困ったように、けれど柔らかく笑った。
エリークは怒り心頭といった面持ちで、唇を噛み締めながらも父と妹の会話を堪えるように聞いている。
「……元々、王家からの打診で成立した政略婚だったが、アイリスと殿下は仲良くやっていると思っていた。けれど、ここ最近の噂は把握している。
それでも、アイリスが何か言うまでは待とうと思っていた」
ぐしゃりと、父は前髪を握りしめた。
顔を歪め、辛そうに目を閉じる。そして再び息を吐き、顔を上げた。子の意思を尊重する覚悟を決めた父の顔だった。
「アイリスは、どうしたい?」
「……殿下の心の変化や、ましてや婚約破棄の噂など虚言が混じっているのなら、王家が真っ先に潰しているでしょう。それなのに、こうして私のもとにまで噂が届いている。……そして、殿下と先日王宮で会った際には、はっきり言われました。“卒業パーティーには出るように”と。であるならば、おそらくはそこで――」
アイリスはそこで言葉を切った。
重い沈黙が落ちる。誰もが、彼女の次の言葉を待つ。
「殿下の御心のままに、動こうと思います」
「……わかった」
覚悟していたように、父が頷く。
母は顔を覆い、涙に濡れた目を拭うと、すぐにアイリスの肩を抱きしめた。
エリークは堪えきれず口を開く。
「アイリスは何も悪くない! 心変わりなんぞ、一国の王子が許されることじゃない! 公爵家を馬鹿にするなら、こっちだって抗議を――!」
「いえ、全面戦争は避けるべきです。……それに、もし何か起ころうと、ジークフリート殿下が情けをくれると、私の方に内密に打診してくださいました」
エリークの怒声に、アイリスが静かに、けれど固く告げると、エリークも父も目を見開いて固まった。
――先日の王宮への呼び出しは、そのためだった。
兄がどうあれ、あなたの選択を私は応援する。ジークフリートはそう言い切った。
具体的な話ではないが、アイリスはその言葉に“最後の一歩”を踏み出す勇気をもらったのだ。
揺るがぬ表情のアイリスを見て、父も兄もやがて力を抜く。
「そこまで、根回しが……」
「先日、密かに王宮へ呼ばれた際、“内密に”と仰せでした。黙っていて申し訳ございません」
「……もう“小さなアイリス”じゃないんだな。俺の助けなんて、いらないか」
エリークは苦笑しながら、そっと妹の頭を撫でた。少し寂しげな目で、優しく。
「お前は俺の、自慢の妹だよ」
ウィルヘルムと袂を分かつ時――その先にどんな未来が待つかは分からない。
けれど、もうほとんど関係は手放しているようなものだ。優しい瞳をウィルヘルムは向けない。逢瀬もない。
嫌味も悪意も、ひとりで跳ね除ける。
公爵令嬢として必要な教養も、身の守り方も知っている。誰も寄せつけない一線の向こうで、もう助けなど求めない。
――悪役令嬢アイリスを、演じ切れる。
ウィルヘルムの前で、最後までやり抜く覚悟を決めた。
だから、大丈夫。きっと。
▲▽
――卒業式前日。
最後に登校した学園で、
アイリスは前の生の記憶を詳細に書き記した“例のノート”を手に、焼却炉の前に立っていた。
最後に一度だけ読み返す。何度も読み返したおかげで、内容はすべて頭に入っている。
紙は擦り切れ、インクの滲みでところどころ黒く染まっている。怨念そのもののようだった。小さく笑い、軽くノートを投げ入れる。
ごう、と音を立てて燃え上がり、呆気なく灰になる。
そのあと、意味もなく庭園にしばらく佇んだ。
明日、すべてが終わるという実感がまだない。ノートを焼いたように、あっさりと終われるのだろうか。
真っ白な雲に、黒い煙がゆらりと溶けていった。――終焉の兆しは、音もなく近づいていた。
学園から帰ると、ローズが「学生時代最後の茶会よ」と公爵邸を訪れた。
彼女はすでにエリークから婚約の件を内密に聞いていたらしく、悲痛な顔をしていた。
――エリークから事情を聞く。それだけで、二人の信頼関係がどれほど深いかが分かる。その“信頼”が、今は刃にしか見えなかった。
「婚約破棄の話が進んでいると聞いたの。……エリーク様、殿下、アイリス。三人が並んでいた頃が、遠い昔のようね」
ローズの優しい眼差しは、誰よりも鋭くアイリスを刺す。
本人に自覚がなくとも。
アイリスは感情の波を必死に抑える。
それでも、ローズは容赦がなかった。
「……私、エリーク様と婚約を決めたのって、公爵邸で殿下とエリーク様とアイリスが一緒にいるのを見たからなの」
ローズが悲しげに言う。
ぴしり、と心の中に亀裂が入る。
「殿下とアイリスは、一緒にいるのが自然で。それなのにエリーク様が一人で騒いで爆発してるのがおかしくて。あの輪に、私も入りたかった」
――やめて。
薄い笑みの下で、心が叫ぶ。
耳を塞ぎたくなる。これ以上、聞いてはいけない。やめて、と大声で叫びたい。
柔らかく優しい声。けれど、その声はアイリスの心を引き裂いた。
「……あんなに自然だったのに、もう二人は一緒じゃないんだね」
ダグラスの言葉で見つけた“小さなアイリス”が、ローズの泣き笑いの中でも顔を出した。
「何か、三人はずっと変わらないのかと思ってた。
御伽話みたいに、普遍的に。三人が並んでいた頃、私は未来なんて疑わなかったの」
泣いているのだ。小さなアイリスが。
ウィルヘルムを救うことだけを目標にしてきたのに。それなのに、小さなアイリスは聞き分けなく泣く。必死に押し込め、鍵を掛けたはずなのに。
「勝手なこと言ってごめんね」とローズは苦しげに笑った。その瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
目眩がした。
取り繕うため、アイリスは手袋の中で掌をぎゅっと握る。そうしなければ、倒れてしまいそうだった。
覚悟が本当にあるのか――ローズが最後の刺客のように試してくる。
アイリスは口の中を噛み、血の味を感じた。
「アイリス、良かったら、私に辛いことを話して?」
「ローズ」
――婚約者と円満な貴女に、何が分かるというの。何を分かち合えというの。
「………少し、明日の準備で疲れてしまっていて。
今日のお茶会は、終わりにしましょう?」
言いたいことをすべて飲み込み、完璧な笑顔を貼り付ける。
怒りも悲しみも綺麗に隠し、何事もなかったように微笑む――それが、今の私。
そう、あなたも、もう疑わないでしょう? 虚像のままの私を。
泣き叫びたい気持ちなんか、ちっとも誰もわからない。
私は、アイリス。
公爵令嬢アイリス。悪役令嬢アイリス。王太子妃アイリス。
ヴァイオリンが捨てられないというなら、それは言い訳も立つだろう。楽器で、ずっと使ってきた相棒のようなものだから。
けれど、これは言い訳が立たない。
店に並ぶようなドライフラワーでも、フリーズフラワーでもない。
ただの、ちっぽけな野花。ウィルヘルムが思い出したように差し出した、名もない花。
それでも、もらうたびに捨てられなかった。
アイリスは部屋に持ち帰り、誰にも触らせず、鍵のついた引き出しにしまい込んだ。誰にも見つからないように。誰にも触れられないように。
まるで、記憶を隠すように。
ふらふらと立ち上がり、引き出しを開ける。
そこには、色褪せた花がいくつも重なっていた。アイリスはただ、意味もなくそれを見つめる。いつまでも、いつまでも――見つめ続けた。




