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九話 片割れ

「いたっ!ごめんなさい!」


そう言いながら、一人廊下を歩いていたアイリスに勢いよくぶつかってきたのは、――ミラベルだった。

甘ったるい香水の香りに一瞬ふらつきそうになりながらも、アイリスはなんとか足を踏み留める。怖い、と真っ先に思い、それから湧き出たのは強烈な嫌悪だ。表情に出ないよう、いつもよりも意識してさらに硬質なものに変える。


「あっ……!アイリス様!おはようございます!」

「……おはようございます、ウッドウェイ男爵令嬢」


思えば、この女と正常な状態で接するのはこれが初めてかもしれない。


「そんな!よそよそしく呼ばないでください!ミラベルでいいですよ」

「…………今日は、周りにお友達はいないんですね」

「はい!みんな心配性だからずーっと一緒にいたがるんですけど、たまには一人にさせてーって飛び出してきちゃったんです。あ、アイリス様はいつも一人ですよね?やっぱり楽だからですか?」


アイリスはうっすらと笑って、それには答えない。

無邪気に見える笑顔の下に、透けて見える醜悪さがある。貴族子女ならばある意味持っていて当然の顔ではあるが、ミラベルのその仮面がどうにと異質に映るのは、彼女がそもそも貴族子女らしくはないからだ。平民のようなのに、毒の持ち方だけは異様な陰湿さがある。

このちぐはくさが、ミラベルは際立っているのだ。


「あ、そういえばアイリス様は最近お怪我をなされたとか!大丈夫ですかぁ?」

「ええ、おかげさまで」

「ウィル………あ、ウィルヘルム殿下とたまたま会う機会があって、その時に聞いてぇ……ウィルったら、ろくにお見舞いにもこなかったんでしょ?私、怒っときます!」


そう言って、ミラベルがわざとらしく拳を握ったタイミングで、廊下の端からミラベルの取り巻きの一人が呼ぶ声が聞こえる。慌てたような声に、アイリスも振り向けば、取り巻きはアイリスの存在に小さく息を呑んでから軽く睨みつけてきた。

公爵令嬢に対して、不敬にも程がある。

そうは思ったが、視線を僅かに外すことで見なかったふりをしてやる。ミラベルは「あーもう見つかっちゃったぁ」と言いながら嬉しそうに駆けて行く。

その、アイリスを通り過ぎる一瞬。


「傷物になったからって理由でウィルに責任取らせようとしてるんでしょう?姑息な女」


――それでも、アンタは愛されない。愛されるのは私なんだけどね。


そう、嘲を含んだ毒の声が耳元で落とされる。

アイリスは軽やかにさっていくその背を、ただ静かに見つめる。

醜悪な笑顔が目に焼きつくのを払うよう、アイリスは一度強く目を閉じた。……ああせめて、あの女が心からウィルを愛していて、尊敬ができる女であれば。そうすれば、自分は――。

心の中でくだらないたらればを考えて、息を吐いて整える。

いつのまにか握りしめていた手袋の内側からじわりと血で濡れていた。アイリスは一瞬だけ眉を顰めて、粗雑に血を拭うとそっと変えの手袋を嵌め直す。痛みは、感じなかった。


あの女が語ったシナリオの世界というのは、アイリスたちが学園を卒業するまでだ。つまり、強制力が働くのはそこまでなのだろうか。

そうであるならば、きっとその後の人生についてはウィルヘルム自身がどうにかすると確信していた。そこには物語の世界から退場したアイリスが居なくとも――、いや、いないのであれば、彼ならば大丈夫。

アイリスはそれを信じていた。

アイリスのような足手纏いがいなければ、彼は正しく歩める人なのだから。



▲▽


決まった曜日、決まった時間。

王宮に用意された温室を訪れる。

ウィルヘルムを待ち、今日もぴくりとも動かず席に座る。


ウィルヘルムが来るのは三ヶ月に一度ほど。

会ったとしても、視線が絡むこともなく、淡々と近況を話すだけ。

アイリスは邪魔にならないよう短く返し、茶会は紅茶一杯分の時間で終わる。


――今日は、来た。


ウィルヘルムは短く形式的な挨拶をし、向かいに座る。

お互い感情の揺れを見せない、穏やかな茶会。

その中で一度だけ、ウィルヘルムの口からミラベルの名が出た。

ダグラスから聞かされていたため、心は乱れない。


「ああ、入学式で遅刻してきた彼女ですか」

「学園内で、それから交流はないのか?」

「残念ながら、少しも」


微笑んで答えると、探るような表情のウィルヘルムが一瞬口籠った。

今日初めて、視線が絡んだ気がする。

短い沈黙のあと、ウィルヘルムは息を整えて語り始めた。

――郊外の医療院を慰問した際、たまたまミラベルがいた、と。


ウィルヘルムの語る内容は、あのノートに記されたものと相違がない。

やはり、あの女はこの世界の筋書きを知っており、“シナリオ通り”に行動している。

そして“本命”のウィルヘルムと、着実に縁を結んでいく。


一度目の世界とは違う“正の世界”――ウィルヘルムとミラベルは結ばれる運命だと、あの女が言っていたことを思い出す。


冷静に分析しながらも、ウィルヘルムの口から女の名が出るたびに、胃の奥から吐き気が迫り上がる。笑顔の裏で、必死に飲み下した。


気づけばウィルヘルムは去っていて、テーブルには数本の切り花が、置き忘れたように残されていた。

真っ白な小さな花弁。端がよれ、萎び始めている。

アイリスは手袋の上から花に触れる。

一度目の生で、ウィルヘルムから白い花を贈られたことはなかった。この世界は違う――その証を突きつけられたようだった。


定刻より早く終わった茶会の席で、アイリスはひとり紅茶を啜る。

悲しいとも寂しいとも思わない。ただ、共に残された花を手に取り、ぼんやりと時間を過ごした。


紅茶を飲んでも、味はしない。

それでも、カップは空になっていく。

――体だけが、まだ生きている。



▽▲


決まった曜日、決まった時間。

王宮の温室へ。

ウィルヘルムを待つ体で、ぴくりともせずに席に座る。


――今日は、来ない。


定刻を過ぎたのを見て、そっと息をつく。

会えないことが悲しいのか嬉しいのか、もう分からない。テーブルの下で掌を開いたり閉じたりを繰り返す。

いつものように、人払いした空間で紅茶を飲み干す。予定された「形式的な時間」を、淡々と終わらせるつもりだった。


「義姉上」


予期せぬ声に、体が強張る。


「今日は、“呼ばれてない方の王子”がご一緒しても?」

「……ジークフリート殿下」


その軽口に、わずかに昔のウィルの面影が宿っていた。驚きながらも微笑み、席を勧める。

ジークフリートは懐かしむように一瞬目を細め、穏やかな笑みを浮かべて対面に腰を下ろした。


第二王子ジークフリート。

ウィルヘルムの双子の弟であり、婚約中のアイリスを“義姉上”と呼ぶ男。

柔らかい物腰と絶やさぬ笑顔――それはウィルヘルムとは違う“食えなさ”を感じさせる。


前の生では、ウィルヘルム没後に王位を継ぎ、アイリスを形式上の妻として迎えた。

とはいえ、互いに後処理に追われ、顔を合わせたのは片手で数えるほど。牢へ行くアイリスの気持ちを汲み、彼は自由を許した。

――恩がある。

アイリスは今でも、それを忘れていない。


「……随分、静かな茶会だね。誰も来ない席で、きちんと座っている。義姉上らしいと言えばらしいけれど」

「ウィルヘルム殿下はお忙しい方ですから」

「私から文句を言おうか?」


首を振ると、ジークフリートは苦笑した。

ふと、彼の手元が目に入る。


「……ヴァイオリン、ですか?」

「ああ。壊れているけれどね。」


机に置かれたそれを、丁寧に扱う指。

それだけで、大切にしているのが分かる。

アイリスも見覚えがあった――幼少期からジークフリートが愛用していたものだ。

体を動かすことを好むウィルヘルムと違い、ジークフリートは楽器や美術を愛していた。前の生では、時折二人で合奏もした。アイリスもヴァイオリンが趣味だったから。


「最近、義姉上はヴァイオリンの授業を受けていないようだね」

「ええ。教養程度には弾けるようになりましたから。たまに手が忘れないように弾くくらいです」

「そうか……残念だな。私は貴方の演奏が好きだった」

「……王妃教育の方を優先せねばなりませんもの。仕方のないことですわ」


喉が引き攣るような痛みを覚える。

穏やかなはずのジークフリートの視線が、なぜかウィルヘルムのそれと重なって見えた。

心の奥を覗かれるようで落ち着かない。最近はウィルヘルムにさえ動揺しなくなったのに、ジークフリートの目にはなぜか怯えてしまう。暴かれるような焦燥。


ジークフリートはそんな彼女を気にする様子もなく、机の上のヴァイオリンを撫でた。


「最近ね、音がおかしかったんだ。騙し騙し調律してたけど、やっぱり駄目でね。修理に出すことにした」

「……わざわざ直さなくても、捨てればよろしいのでは?」

「捨てないよ。直して使う。――大切だから。」


「なぜ」と言いかけた。

音が出ないなら、新しいものを迎えればいい。

――捨ててしまえばいいじゃないか。

喉の奥まで出かかった言葉を飲み込み、「そうですか」と絞り出す。

付け焼き刃の笑顔が、やけに薄っぺらく感じた。


ジークフリートは穏やかに笑い、紅茶に口をつける。

そして静かに、声を落とした。


「私は決して、君の敵にならないことを誓おう。その上で“あり得ないもしもの話”に付き合ってもらっていいかな? それに嘘をつかず、率直な気持ちで答えてほしい」

「……誓いましょう。今この時、私は貴方に嘘をつかない」

「ありがとう」


ジークフリートの笑みは、双子の兄とは似ても似つかない。

穏やかで理性的だった。


「兄上と君は、最近不仲という噂があるね。それを踏まえた上で、僕は君に問いたい」

「……はい」

「兄上にもしものことがあったら、貴方は私と結婚することになる。私は兄のスペアだ。そして、貴方は王妃としての駒であり、貴方以上に妃教育を受けた令嬢はいない。つまり――兄上が正式に王位を継ぐまでは、私は婚約者を持てない」


その言葉に、アイリスは息を呑む。

双子である弟が「もしもの話」で王位を口にする――それ自体が危うい。謀反と取られかねない。

それでも、彼はまっすぐアイリスを見ていた。


アイリスはすぐに表情を戻し、淡々と答える。


「……ジークフリート殿下の婚約者候補では妃教育を行いませんものね。“もしも”の世界に備えすぎると、謀反を疑われかねません」

「うん」


短い相槌のあと、静寂が数秒。

それからジークフリートは慎重に続けた。


「私はね、この国を愛している。この国の安寧を何よりも重んじる。それが統治する者の義務だと信じている。君はいずれ妃となる人だ。――おそらく、どちらの隣であろうと。その覚悟がありますか?」


王位を巡る危うい問い。

アイリスは一度考え、ゆっくりと口を開いた。


「恐れながら申し上げます。私の一番は国の安寧ではなく、殿下と同じ目線には立てないでしょう。

けれど、私には私の目的があります。そのために日々邁進しております。――その上で、一つ尋ねてもよろしいでしょうか?」


ウィルヘルム没後、悲しんだのは自分だけではなかった。

彼を支え、信頼を得ていたのはこの男だった。これは謀反の話ではなく、情の話だ。アイリスは一度深く息を吸い込む。


「貴方の一番大切なものは国の安寧と理解いたしました。では――一番にならずとも、貴方が大切にするものの中に、ウィルヘルム殿下は含まれるのでしょうか?」

「私は私なりに、兄上を尊敬していますよ」


そのはっきりとした声には、嘘がない。それで、アイリスの心は決まった。


「ならば、本懐を遂げた後に王妃になってもいいですよ」


悪役令嬢らしく、傲慢に言い放つ。

ジークフリートは瞠目し、それから短く笑った。しばらく余韻を噛み締めるように笑い、顔を片手で覆う。

左目に浮かんだ涙を指先で拭うと、そっと手を差し出した。


「王妃が“足がけ”とは恐れ入る。……だが、それでこそ国母になれる人だ」


アイリスは本能的にジークフリートを恐れていた。

異なる表情、異なる口調で語りかけてくるのに、本質は似ているからだ。だからこそ脳が混乱するが、ウィルヘルムではないから――嘘をつかずにいられた。北風と太陽のようだ、とアイリスは少しだけ昔の顔で笑う。


「本音で答えてくれてありがとう。……私も、今の貴方のことが少し分かった気がします」


ジークフリートは微笑んだ。


「用意された紅茶が渋すぎますね。兄上には、私から文句を言っておきましょう」


アイリスは穏やかに頷いた。

この人はウィルヘルムの敵でも、アイリスの敵でもない。おそらく、信じてもいい人だ。


ジークフリートの言葉で、アイリスは初めて考えた。

“悪役令嬢アイリス”を演じきったその先のことを。

ウィルヘルムの悲劇を防いだ後、自分は――どう生きるのか。その答えを、考えたことなどなかった。けれど今、初めて視界が開けた気がした。


ウィルヘルムの未来を守り抜いたあと、自分の人生を取り戻して生きねばならない。その立場が王妃であろうと、なかろうと。


アイリスの眼差しが変わったのを見て、ジークフリートは深く頷く。

――どうか今度こそ、自分の大切なものを失わず、見失わないでほしい。

絶望の中でも譲れぬものを、折れず、見つけてほしい。そう祈りながら、脳裏に浮かんだのは“片割れ”――兄の姿。


ジークフリートは言うべきか迷い、そして小さく口を開いた。


「……兄上の言動は確かに苛烈です。けれど、このヴァイオリンを“捨てるな”と言ったのは、兄上の方なんですよ」

「え……」

「私はおそらく、貴方の愛の形を知っている。けれど、兄上の愛の形も、よく知っている」


――貴方との思い出を、兄上は捨てたことなど一度もない。


そこまでは言わずに、ジークフリートは弦を撫でる。

変わってしまったもの、失ったもの。それらを慈しむように、儚むように。そして呼応するように、ジークフリートの滲んだ左目が疼いた。

貴方たちが二人で並ぶ、その姿が好きだった。そう言ってしまいたかった言葉を、ゆっくりと消す。今、彼女にそれを伝えるのはあまりに危ういと、ジークフリートはきちんと理解していた。

兄が苛烈な思いを抱え、愛を模索する中、彼女もまた踠いていることを、きちんと理解できていたからだ。

でなければ、ヴァイオリンを捨てろなどという彼女ではない。


けれど、まだ。

手は差し伸べられない。今はその時ではない。


ジークフリートは紅茶をひと口飲み、先ほど握手した手を見つめながら呟く。

手が、冷たいすぎた、手袋越しに触れても。


「……その手袋、外せる日が来るといいですね。――できれば、兄上の隣で」


困ったように、それでもはっきりとした声で、ジークフリートはそう言った。


それから彼は、ヴァイオリンをそっと撫でる。音のない弦が、わずかに陽光を反射した。


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