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一話 狂った女と笑う王妃

人は皆、悲劇を語るときに、そこに意味を求める。けれど、あの結末には意味などなかった。

理由を探しても、赦しを願っても、誰も何も答えてはくれない。


狂った女が笑い、王が血を流し、私はその血の上で生き延びた。

彼の温もりは、もう二度と戻らない――そう思っていた。

けれど、世界は残酷なくらい優しい。

終わりの先に、もう一度の朝が訪れた。


やり直せるのならば――あの日、私の手の中で失われた温もりを、今度こそ取り戻そう。

その為ならば、用意されたどんな席でも座ろう、どんな役でも演じてみせよう。

今度こそ、神でも運命でもなく、この手で彼を救うのだ。

たとえ何度死んでも。たとえ世界が壊れても。


私は何度でもこの地獄を歩き直す。

ただ一人、愛しいあなたのために。



▽▲


血の匂いが、鼻の奥を焼いた。

音が遠のく。

瞼の裏に焼き付いた光景の中、ヒステリックな叫び声が木霊した。


――あんたが役割を果たさないから!!!


狂ったような、いや、狂った女の哄笑が響き渡る。女の手には毒々しいほど鮮やかな鮮血が滴り、その足元には背にナイフが突き刺さった男が転がっている。

アイリスは、瞬きすることもできず、ただ茫然と転がった男を見ていた。足の力が抜けて、そのまま男の下へ縋り付く。


「ウィル、ヘルム?」


呼びかけに、男は――ウィルヘルムはピクリとも動かない。いつもの太々しいほどの不遜な物言いも、皮肉げな笑みも何もなく、呼吸の音さえしない。


視界が揺れ、足から力が抜ける。耳鳴りが世界を支配し、手先だけが氷のように冷えていく。

惨めに腰を抜かしたまま、アイリスはウィルヘルムに縋り付く。

ねえ、起きて。……起きてよ。ウィル……。

そう言ってもウィルヘルムは何も言わない。どくどくと真っ赤な血を流すばかりだ。

アイリスの豪奢なドレスは真っ赤に染まっていく。バタバタと周りから慌ただしい音と怒号が飛んでいる。しかし、不思議とアイリスの耳が理解できるのは、目の前の狂った女の言葉だけだった。


「あんたが!あんたがシナリオを壊して自分の幸せばかりを優先する偽善者だから!だから死んだのよ!だからウィルは死んだ!あんたがウィルを殺した!あんたのせいよ!汚い女!……っお前なんかただのシナリオ引き立てるだけの悪役令嬢のくせに!」


女の叫び声を皮切りにするよう、甲高く、耳障りな悲鳴が聞こえた。多分、アイリス自身が出した声。それと認識する前に、アイリスは倒れ崩れたけれど。




賢王、ウィルヘルムは死んだ。


背中を刺され、運悪く一突きで、二十五年というあまりに短すぎる生を終えた。

国中を震撼させたニュースは、貴族はおろか平民にさえも暗澹たる思いを抱かせ、国の先行きを不安にさせる。

首謀者である男爵家の令嬢は速やかに捕縛されたが、この国に死刑制度はない。一番重い罪で終身刑だ。そのため、王妃殺害未遂ならびに国王殺しの女であっても、牢獄の最下層で生きている。ウィルヘルムはこの世にいないにも関わらず。


今日も、アイリスは女を訪ねた。女が収監されている地下牢は地中奥深くであり、あえて土壌を保っている。薄暗く湿り気も多い、生き地獄と呼ばれる場所だ。

重い鎖に雁字搦めにされた女一人しか収容されておらず、女を収容後に埋め立てるように鉄格子を嵌められている。どう知恵を巡らそうとおよそ出られる作りをしていない。

二日に一度の粗末な飯を運ぶ憲兵以外には、虫や害獣が這うくらいしか生き物の気配を感じられないのがこの牢獄だ。獣のねぐらのような臭いと、腐り湿った土の酷い臭いが充満している。

椅子に座る時、一瞬ふらつきながらも、アイリスは憔悴して最早立ち上がれなくなっている乾涸びた女と対峙した。


地下深く、陽の光も届かぬ場所。だがそこに座るアイリスだけが、まるで別世界の人間のように美しく整っていた。


「ごきげんよう」


くだらない定型の挨拶を掛ければ、女は地べたから見上げるようにギョロリとアイリスを睨みつけた。極限状態だろうに、大した度胸だとアイリスは他人事のように思う。そのアイリスの傍、牢獄には不釣り合いな豪華な椅子を、憲兵が恭しく引いた。それに黙礼しつつ、アイリスが座る。牢獄越し、ぎりぎり会話が届くだろうという遠い位置に置かれた椅子だ。


「さて。貴女の夢物語を本日も聴きましょう。前回はどこまで聴きましたっけ?……ああ、貴女が王立学園に入学して、さる貴公子方の抱えるコンプレックスを解消、決められた対象者の悩みを全て解決していくと、卒業パーティーでウィルヘルム陛下が貴女を見初める……でしたっけ?」

「どこまでも……白々しい女……。あんたが私の……ヒロインの、邪魔してたんでしょう……。あんたなんて、卒業パーティーでウィルに捨てられるだけの、女だったくせに……」


相変わらず、噛み合わない会話だとアイリスは溜息をつきそうになる。この女の話は常に事実と妄想を行き来していた。


この女とアイリスは確かに王立学園では同級だったが、学園内で話したことはない。


当時、アイリスは五つ年上のウィルヘルムの婚約者として、学園生活の傍ら、王城へ出向き妃教育を受けていた。

学園卒業を期限として、滞りなく結婚をする手筈だったが、あの頃、ウィルヘルムの父である前国王が体調を崩しがちであった。その関係でウィルヘルムの即位が早まりそうだと内内に通達されていたのだ。

そのため妃教育もタイトなスケジュールを極めていた。学園にも毎日出席できていたわけではない。学園側と相談しながら厳しい妃教育を優先しつつ、合間合間に通っていた。


公爵令嬢アイリスが王太子ウィルヘルムの婚約者であることを知らない貴族はいない。だからこそ国内で大きな発言力があるとされ、学園内のさまざまな相談事がされていたわけである。

アイリスが女のことを知っていたのは、よく相談という名の陳情をあげられていたから。


学生時代の女は、女が言うところの「攻略対象者」である複数の子息と、常に行動を共にしており、とにかく悪目立ちしていた。

囲った複数の子息の中には婚約者を抱える者もおり、女との近すぎる距離感には周囲から疑問の声が上がっていた。

アイリスに婚約者側の令嬢からの陳情があがり、何度か対処もしたことがある。といっても、本人らに直接陳言したところで、頭が沸いたとしか言いようがない勢いのみの論で言い返されるとの事前情報も得ていたため、女や子息の生家に忠告をするというものであったが。


公爵家の仲介を無視して、青春の一瞬のときめきを子息に優先させる貴族はいない。

生家からの強い叱責を受ければ、大抵の子息は女の下を離れたが、ごく稀にそれでも女から離れない子息は嫡子からは外されていた。厳しい家門の者だと勘当までされていたはずだ。

アイリスは、義理や責務として忠告まではしたが、それ以上は関与することはなかったため、仔細は知らないが。


時折、遠目で女を見かけることはあったが、直接対峙などしたことはない。ただ、一方的に敵意を含んだ視線を感じることはあったのは確かだ。


その程度の、関係性のはずだった。


「攻略は順調だった……、途中脱落してったやつもいたけど、私の本命は最初から隠しキャラのウィルだから……ルートさえ安定してれば問題ないって気にも留めなかった……なのに、なのにっ……! 卒業パーティーでは何も起こらなかった! ウィルは私を見なかった! あんたの隣にいた! たかが悪役令嬢のあんたの隣に! ……あんた! 転生者チート、先に使いやがって! シナリオを先回りしたんでしょ?!」


這いつくばった女が、土に爪を立て、血反吐を吐くような汚い声を上げる。ありったけの憎悪を込められるが、アイリスにはこの女の言が何一つわからない、届かない。


女は、この世界を前世で知る機会があり、この世界のヒロインは転生者の自分であると言って憚らない。

そして、目の敵にしているアイリスも、女と同様に転生者であると断定している。


何故なら、シナリオ通りにアイリスが悪役令嬢らしくヒロインの邪魔をしなかったから。

そのせいでウィルヘルムとのイベントが起こらなかったから。

それこそが、転生者の知識を使ったアイリスの妨害だ――


と、女の激情任せの分かりづらい供述をまとめると、そういう理論らしい。

支離滅裂な女の説明は、ここまでを調書にまとめるのさえ片手では足りない面会が必要だったが。


さて。アイリスだが、女が言うような転生者ではない。

女が語る夢物語のシナリオなど当然知らないし、アイリスは女と同じような前世の記憶などもない。


ただ、幼少期に不慮の事故で階段から落ち、一晩寝込んだことがある。

その際は意識や記憶が混濁したのか、目覚めて数日は空想じみたことや存在しない記憶について話すこともあったらしい。

だが幼少期ということもあり、子供らしい空想の話と周囲が深刻にならなかった程度のものだ。

アイリス自身は当時のことを覚えていない。幼少期の空想を、いつまでも大事に抱える異常者ではないから。


その異常者に分類される目の前の女だが、意外なことに薬物反応はないらしい。

そして、彼女を取り巻く令息たちが女へ好意を寄せるきっかけは、彼らが抱えるコンプレックスを悉く解消していったこと。

女は学園内で起こるイベントやトラブルといったものに、驚くほどの解決力を見せたのだ。

まるで出来事を予知していたかのように。それぞれの思惑や感情を見通したように。


――女の話が荒唐無稽だと切って捨てられない所以はここにある。

女の妄言は一部だけ、確かに真実が織り混ざるのだ。 


だから辛抱強くアイリスは女の下へ話を聞きに行った。

尋問は王妃の仕事ではないと遠回しに言われようと、アイリスは逆に言い返すのだ。

王妃だからこそ、罪人の行動原理と罪を詳らかにしなければいけないのだと。


「悪役令嬢というのは、本来のシナリオとやらではどうやって貴方を妨害すると言うのです? ヒロインとやらに、ウィルヘルム陛下はどう心を移して行動し、貴方を迎え入れるのです?」


故に、女の妄言をアイリスは回収し続けた。

狂った女の口から紡がれる、愛しい夫の話を聞いてやる。

女が話す、ウィルヘルムの正しくあるべきだったシナリオとやらを。


アイリスは口元だけでゆったり笑い、穏やかに狂った女の話に耳を傾けた。


「忌々しい! 忌々しい女!!! この世界は私のための世界なのに! こんな世界いらない! いらない! リセットしてやる! 捨ててやる! 巻き戻す! こんな強制力が働かない世界、いらない! 課金が足りなかった! もっと課金アイテムに頼るべきだった! ……っ私は私の世界を取り戻してやる! アイリス! 私はアンタを許さない! 許さないからなぁああッ」


その言葉の意味など、当時のアイリスにはまだ理解できなかった。

女が意味不明な言葉を口走るのはいつものこと。ただ、記憶の蓄積だけしていく。


獣の慟哭をあげる狂った女と、異常な牢屋の中でも気品に満ちた顔でゆったり笑う王妃。

どちらも正常に見えないその衝突に、控えていた番兵はひりつく息を静かに飲み下した。

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