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第2章 第3話 鍛冶屋親方と煙の病

 昼下がりのアーデは、槌の音で賑やかだった。

 灰雨が止まったおかげで、鉄は赤々と燃え、火花が空気を割って飛ぶ。けれどその音に混じって、ひどい咳の音も響いていた。


「ごほっ、ごほっ……!」

 鍛冶屋の親方――大きな体と太い腕を誇る男が、作業の合間に咳き込んでいる。胸板は岩のように厚いのに、その咳だけが彼を小さく見せていた。


「親方、少し休んでください!」

「休んでたら、注文に追いつかん! 剣も釘も馬蹄も足りねぇんだ!」


 弟子たちの必死の声を振り切り、親方はまた槌を振り下ろす。その度に火の粉が舞い、煤と粉塵が肺を蝕んでいく。


「……薬師。来てくれたのか」

 工房の隅で私を見つけた親方は、額の汗を拭いながら言った。


「約束したでしょう。街を救うだけじゃなく、人を救うって」

「だが、鍛冶屋の肺はしょうがねぇ。火と鉄を吸って生きてるんだ。薬でどうにかなるもんじゃ――」


「それをどうにかするのが、薬師よ」


 私は薬袋を広げた。弟子たちが目を輝かせ、ルゥが工房の中をちょこちょこと歩き回る。


 私は三つの素材を取り出した。

 一つは「灰笠茸」。普通なら発熱毒を持つが、反転すれば呼吸を整える滋養となる。

 二つ目は「煤草の根」。黒く硬い根だが、砕けば痰を切り、肺を潤す作用を持つ。

 三つ目は「薄青石の粉」。粉塵を吸着し、体外へ流す特性がある。


「この三つを組み合わせれば――」


 私は乳鉢で混ぜ合わせ、指先に力を込めた。紋が淡く光り、毒が薬へと編み変わっていく。

 湯気を帯びた液体が生まれ、私はそれを小瓶に注いだ。


「《煙切りの滴》。一口で、胸の重さが軽くなるわ」


 親方は逡巡したが、弟子たちの「試してみてください!」の声に背を押され、小瓶を受け取った。

 一口。

 飲んだ瞬間、親方の肩が大きく上下し、喉からごろりと黒い痰が吐き出された。


「……っ、息が……軽い」


 目を見開いた親方が、深く息を吸い込む。肺が広がり、胸が軽くなる。弟子たちが歓声を上げ、工房に笑い声が広がった。


「薬師……お前はすげぇな」

 親方が大声で言う。その声は咳に邪魔されず、力強かった。

「十年、この胸の重さは仕方ないと思ってた。けど違った。俺は、まだ槌を振れる」


「槌を振るのは大事。でも、薬も続けて。無理すればまた苦しむわ」


 私は追加の瓶を弟子に渡し、服薬の間隔を丁寧に説明する。


 夕暮れ。

 工房を出ると、親方が私を呼び止めた。


「これを」

 差し出されたのは、一振りの短剣。銀色に輝く刃に、花の模様が彫り込まれていた。


「俺の礼だ。護身にしろ。薬師だからといって、世の中の全部が優しいわけじゃねぇ」


 私は刃を見つめ、静かに受け取った。

「ありがとう。大切にするわ」


 ルゥが尻尾を振り、親方の足元に擦り寄った。親方の大きな手が、優しくその頭を撫でた。


 その夜。

 街の広場では、子どもたちが走り回り、鍛冶屋の弟子たちが笑って酒を飲んでいた。

 私の小さな薬房に、再び灯がともる。


「少しずつね」

 私は呟き、ルゥを抱き上げる。

「毒を薬に、絶望を希望に。手順どおり、一歩ずつ」


 だがその時、窓の外に灰色の影がよぎった。

 王都からの伝令兵――。彼らはもう、アーデを放ってはおかないだろう。

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