第2章 第2話 孤児院の夜泣きと薬師の灯
辺境の空は、昼と夜でまるで顔が違う。
昼は明るく澄み、復活した畑に希望を芽吹かせる。けれど夜になると、街は急に静かになる。
人々はまだ十年の灰雨の記憶に縛られていて、闇が来ると「また降るのでは」と不安に震えるのだ。
その夜、私は孤児院の前にいた。
木造の古い建物。壁の板はところどころ割れているが、子どもたちの声と笑いが満ちていた。
ただ――夜になると、その笑いは泣き声に変わる。
「……夜泣きがひどくて」
院長のサラが、私に小声で言った。まだ三十代半ばのはずなのに、頬の皺は深い。
「灰雨の間、子どもたちはずっと咳き込み、眠れなかった。その記憶が消えず、今も真夜中に泣き出してしまうの」
「身体の症状だけじゃない、心の傷ね」
私は頷く。
ルゥが足元で耳をぴくりと立てた。子どもの泣き声に敏感に反応している。
私は薬袋を開き、三つの材料を並べた。
一つは「ミルク花」の乾いた花弁。甘い香りがする。
二つ目は「白露の種」。毒を吸い、逆に安らぎを与える力がある。
三つ目は「青月草」の粉末。淡い青光を放ち、夢見をやわらげる。
「これらを合わせて――」
私は乳鉢でゆっくりとすり潰した。香りがふわりと広がり、子どもたちが泣き声を止め、目をこちらに向けた。
彼らの瞳は不安に揺れている。それでも好奇心も混じっていた。
「ほら、見ていてね」
私は指先に少量の粉をとり、掌で温めるようにこすった。左手の紋が淡く光り、粉が丸い飴玉に変わっていく。
光を帯びた飴は、まるで星のかけらのよう。
「これが《ミルク花の糖衣》。舐めれば、夜泣きがおさまる」
子どもたちは目を丸くして、一斉に手を伸ばしてきた。
私は数を数え、ひとつずつ手のひらに渡す。
「……甘い」
「きれい!」
「おなかの中が、あったかい」
飴を舐めた子どもたちの顔に笑みが浮かんでいく。
さっきまで泣いていた子も、ルゥの背中に頬を寄せて微笑んだ。
「夜泣きは、一晩では消えない。でも、こうやって“眠れる記憶”を少しずつ重ねていけば、きっと治るわ」
サラは目を潤ませて、私に深く頭を下げた。
「ありがとう……子どもたちの寝顔を、こんなに穏やかに見られるなんて」
夜更け。
孤児院を出ると、空には満天の星が広がっていた。
灰雨が去ってから初めての、静かな星空。
バルドが外で待っていて、肩をすくめた。
「子どもたち、すぐ寝ちまったな」
「薬だけじゃないわ。安心が必要なのよ」
「安心、ね」
バルドは星空を見上げる。
「この街も、安心を取り戻せるのか?」
「取り戻すの。薬師の手順で、一歩ずつ」
ルゥが「きゅ」と鳴き、私の足元を駆け回る。
私は笑って空を見上げた。
「明日もまた、朝は来る。その積み重ねが、人の心を癒やすのよ」
こうして「アイリス薬房」は、辺境の孤児たちの夜を照らす小さな灯になった。
だがその頃、王都では――「処刑されたはずの令嬢が生きている」という噂が広まり始めていた。