第2章 第1話 辺境に店を構える
灰雨が止んで三日。アーデの街は、信じられないほど明るさを取り戻していた。
屋根を覆っていた灰は洗い流され、子どもたちは咳をせずに走り回る。井戸の水は澄み、鍛冶場の火は赤々と燃え続け、教会の鐘もよく響く。
街の人々は「神薬師」「救世主」と私を呼んだ。けれど私は笑って首を振る。
「私は神様なんかじゃない。ただの薬師よ」
そう言って、私は古い薬師ギルド跡を掃除していた。
埃を払い、棚を磨き、作業台に布を敷く。窓際に乾かした薬草を吊るすと、甘い香りが風に乗る。
ルゥが棚の上で丸まり、尻尾を振った。青い瞳はすっかり元気だ。
「看板はどうする?」
バルドが木板を持ち上げて尋ねてくる。
「そうね……『アイリス薬房』でいいわ。堅苦しくなく、誰でも入れるように」
「神薬房じゃないのか?」
「それは呼びたい人が勝手に呼べばいい。私は薬師として名乗るだけ」
木板に文字を刻むと、小屋は本当に“店”らしくなった。
開店初日。
扉を開けると、すでに人が列を作っていた。老婆が杖をつき、鍛冶屋の親方が胸を押さえ、孤児院の子どもたちが目を輝かせて並んでいる。
「順番にどうぞ。無理に押さないでね」
私は笑顔で迎え、薬棚から小瓶を取り出した。
腰の痛みに効く膏。肺を守る吸入薬。夜泣きに効く糖衣。どれも辺境の人々にとって必要なものばかりだ。
ルゥが人の足元を走り回り、子どもたちを和ませる。笑い声が絶えない。
セリスは後ろで記録を取りながら、静かに言った。
「十年前、夢見た光景よ。薬師の店に人が集まり、笑顔で帰っていく……」
私は少し照れながら、彼女に頷いた。
昼過ぎ。
行列がひと段落した頃、一人の旅人が店に入ってきた。灰色の外套をまとい、目だけが鋭く光っている。
私はすぐに気づいた。――エドリンだ。
「視察かしら?」
「いや……薬を買いに来た」
彼は低く答え、腰の袋から銀貨を出した。
「この街は、王都の報告とは別の道を歩み始めた。だが……君が“灰雨を止めた女”であることは、隠しようがない。いずれ王都は動く」
「だからこそ、店を開いたのよ。逃げ隠れせず、誰でも迎える。薬師として」
私が差し出した瓶を受け取ると、エドリンはほんのわずかに笑った。
「……強いな。君は」
彼は背を向け、外套を翻して去っていった。
夕暮れ。
店先に腰を下ろし、私は息をつく。
ルゥが膝に乗り、バルドが隣で欠伸をした。セリスは帳簿を閉じ、ほっとした表情を浮かべる。
「思っていたより忙しかったわね」
「でも……いい店だ」
私は空を見上げた。
灰雨はもうない。澄んだ空の下、辺境の街はゆっくりと息を吹き返している。
「ここからが、本当の始まりよ。薬師としての、私の生活が」
ルゥが「きゅ」と鳴き、私の言葉に応えるように尻尾を振った。