第5話 最後の結び目と黒幕の影
夜明けの鐘が鳴る前に、私は再び薬袋を背にして立っていた。
セリスの地図が示す最後の結び目は――街の地下神殿。かつて薬師ギルドが聖域と呼び、今は閉ざされた石の祠。その奥に灰雨の核が眠っている。
「ここをほどけば、灰雨は完全に止まる」
セリスの声は張りつめていた。
「でも、同時に“何か”が待っているはず。十年前、私たちはそれに触れることさえできなかった」
私たちは視線を交わす。バルドが頷き、ルゥが低く鳴いた。
地下神殿の扉は苔に覆われていた。セリスが白い笛を吹き、鍵の鉄片をかざす。
音に応じて石壁が震え、重い扉が音もなく開いた。中から吹き出した空気は冷たく、甘く、そしてどこか懐かしい。――毒の匂いだ。
「気を引き締めろ」
バルドが剣を抜く。私は掌に反転の紋を意識する。
奥へ進むと、祭壇の上に黒い結晶があった。煙を吐き出し、天井へと細い鉛糸を伸ばしている。まるで心臓が脈打つように、毒の循環を維持していた。
「これが……灰雨の核」
私が近づいた瞬間、結晶の周りの霧が渦を巻き、人の形を取った。黒い影。声が響く。
『薬師よ……また来たのか』
それは低い男の声だった。顔は闇に沈んでいるのに、目だけが赤く光っていた。
「誰?」
『十年前、ギルドを潰した者。お前たちが“黒幕”と呼んできた影だ。灰雨は我が望み。辺境を枯らし、王都に依存させる仕組みだ』
セリスが息を呑む。「やはり……」
影は笑った。
『愚かだな。お前の力が毒を薬に変えると? ならば、その力ごと循環に組み込んでやろう。薬が毒になり、希望が絶望になる』
結晶が鳴動する。毒霧が押し寄せ、ルゥが吠えた。私は前へ出る。
「私は薬師。毒は薬に変わる。絶望は希望に変わる。――その逆は、許さない!」
影が腕を振ると、毒霧が蛇のように襲いかかる。
私は白露の種を砕き、霧に散らす。反転調合――毒の結び目を逆へ。蛇の牙は花に変わり、花は光を放って散った。
『ほう……』
「バルド!」
「任せろ!」
バルドが剣で結晶を打つ。火花が散るが、結晶はびくともしない。セリスが笛を強く吹き、結界の音を揺らす。
「アイリス! お前しか、ほどけない!」
「わかってる!」
私は結晶に掌を当てる。熱い。皮膚が焼ける。だが紋が輝き、毒の構造が脳裏に広がった。灰雨の循環――空へ、地へ、人へ。
それをすべて逆に、優しさに、癒しに書き換える。
「〈反転調合〉――!」
光が爆ぜた。結晶がひび割れ、影が悲鳴を上げる。
『貴様ァァァ! その力……王都が……黙っては……!』
最後の叫びと共に、影は霧散した。黒い結晶は粉となり、足元に崩れ落ちた。
静寂。
祭壇の上には、もう鉛糸はない。霧も晴れ、冷たい空気が澄み渡る。
セリスが膝をつき、震える声で言った。
「……終わった。十年の灰雨が、本当に……終わった」
バルドが剣を鞘に収め、笑った。
「やったな。お前がこの街を救ったんだ」
私は掌を見た。焼け跡のような痛みが残っていたが、紋は確かに輝きを失っていない。
ルゥが飛びつき、頬を舐める。私は笑いながら彼を抱きしめた。
「これで……やっと、店を開ける」
地上に戻ると、夜明けの空は透明だった。
灰は降らない。代わりに、鳥の声が聞こえた。人々が空を見上げ、泣きながら抱き合っている。
エドリンが待っていた。
彼は灰色のマントを脱ぎ、静かに言った。
「確かに見た。灰雨は止んだ。君がやった」
「……なら?」
「報告は変わる。『辺境に神薬師あり』と」
彼の瞳は、昨日までよりも柔らかかった。
「だが、王都はいずれ動く。君を求め、君を恐れる。覚悟しておけ」
「そのときは――また拒絶するだけよ」
私の答えに、彼は小さく笑った。
アーデの広場に戻ると、人々が歓声で迎えた。
「薬師様!」「神薬師!」と声が飛び交う。
私は首を振った。
「私は神じゃない。ただの薬師よ。薬が要る人は、いつでも店に来て」
笑顔が広がる。ルゥが尻尾を振り、セリスとバルドが肩を並べる。
十年前に途絶えた朝が、ようやく街に戻った。
――ここからが、私の“スローライフ”の始まりだ。
(第1章 完)