第4話 薬師の誓いと二度目の夜
夜が深まる。灰雨の降らぬ朝を迎えたアーデは、静かにざわめいていた。
昨日まで当たり前だった重苦しい灰が消えただけで、街の声は軽く、笑いの調子も明るい。女たちは桶を磨き、子どもは空を見上げ、鍛冶場の槌は少し力強く響いていた。
だが私は知っていた。循環を一度崩しただけでは終わらない。あと二度、糸を逆に編み込まなければ、灰雨は必ず戻る。
「今夜は、どこへ?」
バルドが鍛冶場の前で待っていた。傷はすっかり癒えている。あの膏は確かに効いたようだ。
「北の丘。水脈の下に二つ目の結び目がある。セリスが地図を調べてくれた」
「護衛は任せろ」
ルゥが私の肩に飛び乗り、耳をぴんと立てる。もふもふの温もりが、胸の奥に勇気をくれる。
夜半。丘の洞穴は冷たく、霧が薄くたまっていた。
セリスが白い笛を吹き、リズムを刻む。私は粉と種を合わせ、霧を可視化する。浮かび上がったのは、昨日より太い鉛糸。地脈に深く食い込み、脈動している。
「ここは……強い」
セリスが息を呑む。
「けど、やれる」
私は指先を毒に浸し、祈りを具体に変えていく。
毒は、薬になる。灰は、土になる。雨は、芽を育てる。
紋が熱を帯び、視界が白む。体力が吸い取られ、胸が軋む。だが、ルゥが鳴いた。
「きゅ」
励ますような声。私は最後の結び目を掴み、逆へと編み直す。
――糸がほどけた瞬間、丘の霧が晴れ、夜空に星が覗いた。
「……やった」
膝をつく私を、バルドが支える。セリスの目が潤んでいた。
「星が……十年ぶりに、こんなに見えた」
丘の上から見下ろす街の屋根にも、灰は降りていない。焚き火の煙がまっすぐに立ちのぼり、子どもたちが歓声をあげている。
けれど――
背後で鉄靴の音がした。
「やはり、君はここにいたか」
灰色のマントを翻し、エドリンが現れた。背後には王都の衛兵が数名。
「二度目を終えたか。……認めざるを得ないな。君が街を救っている」
その声は硬いが、昨日より揺れていた。
「だったら邪魔しないで。あと一度。最後の結び目をほどけば、灰雨は終わる」
「……だが、王都はそう言わない。『処刑された令嬢が蘇った』と聞けば、恐怖に震え、討伐を命じるだろう」
彼の目は真剣だった。敵でありながら、迷いがあった。
「私は王都のために生きない。けれど、救える人がいるなら救う。それが薬師の手順よ」
「君は――」
「処刑された薬師令嬢。今さら王都に戻れと言われても、もう遅い」
私の言葉に、エドリンの瞳が揺れる。
衛兵たちが槍を構えたが、彼は片手で制した。
「……次の結び目を終えるまで、私は見逃そう」
そう言い残し、灰色の影は闇に消えた。
丘を下りながら、セリスがぽつりと呟いた。
「彼は、本当に敵かしら」
「少なくとも、今は証人よ」私は答える。
ルゥが喉を鳴らし、星空を見上げる。
残り一度。最後の循環を断ち切れば、灰雨の呪縛は終わる。
私は唇をかみしめた。
「次で決める。――薬師として、この街に朝を取り戻す」
(つづく)