第3話 灰雨の遺産と、白い笛
扉の前に立つ黒衣の人物は、確かに谷で笛を吹いた誰かの匂いをまとっていた。湿った薬草、乾いた羊皮紙、古いインク。長い旅をして、風に磨かれた匂いだ。
「名乗るわ。セリス。旧薬師ギルド・アーデ支部の記録官だった者」
低い声。フードの陰から覗く瞳は、疲れているのに透明だった。私は椅子をすすめ、ルゥが警戒しないよう軽く合図する。バルドは壁にもたれ、いつでも動けるよう拳を握っている。
「谷で合図を出したのね」
「ええ。谷に薬師の気配が立った。十年ぶりに、ね」
セリスは卓の上に小さな包みを置いた。開けば、白い笛が現れる。私たちが裂け目の途中で見たものと同じ形、けれどこれは使いこまれて艶があった。
「薬師ギルドの呼子。薬と祈りを交換した昔の合図。もう使う人はいないと思っていた」
「祈り?」
「ええ。薬師の祈りはいつでも具体的よ。『この痛みが〇時間で引くように』『この毒が〇歩先で弱まるように』――祈りという名の手順」
私は微笑む。気に入った言い回しだ。セリスは息を整え、顔を上げた。
「助けてほしい。アーデを覆う“灰雨”の毒、十年放置されて、根が石まで回ってる。神官の聖水も、王都の回収隊も手を引いた。残っているのは、毒で咳き込みながら畑を耕す人たちだけ」
「王都は、見捨てたのよね」
「そう。理由は『採算が合わないから』。だから、ギルドの私たちが残り、最低限の手当てだけ続けてきた。けど、私たちももう限界――素材も、手も、希望も」
セリスの言葉には、乾いた割れ目みたいな諦めと、それでも捨てきれない火が同居していた。私は小屋の窓から外を見やる。夕暮れのアーデは薄金に染まって、井戸端で笑う声が途切れ途切れに届く。灰雨にさらされ続けた街にしては、音がやわらかい。
「具体的に、何が必要?」
「灰雨の核を落とす。広い意味では、街を覆う“毒の循環”を断つ。灰雨はただの雨じゃない。空へ舞い上がる灰を種にして、雲の層で毒を育てて、雨で地に戻すの。循環を組まれている。十年前に止められなかった仕掛けは、今も静かに効き続けている」
「仕掛けたのは?」
「誰にもわからない。山脈の向こうの錬金都市だという噂もあるし、王都が辺境を削るために流したという陰口もある」
私は左手に視線を落とす。花弁の紋が薄く光り、皮膚の下で脈をうっている気がした。**反転調合**は万能だけれど、万能ではない。世界の枠組みそのものを裏返す力じゃない。けれど、循環に“手順の割り込み”をかけるくらいなら――やれる。
「核の位置がわかれば、やれるかも」
「位置は掴んでる。古井戸よ。街の中心から少し外れにある、ギルドの旧設備に繋がる。雨雲を引きずる“鉛糸”が、そこに落ちている。十年前、封じて、鍵を三つに割って、市井に預けた」
「その鍵を集めれば、地下へ降りて、核に触れられる」
「そう」
セリスは指を三本立て、一本ずつ折った。
「一つは、教会。一つは、鍛冶屋。一つは、孤児院。誰もが『預かり物なんて知らない』って言うはず。灰雨のあいだ、鍵だって“生き延び方”になったから。隠すことが安全だった」
「取り戻す代わりに、何を渡せばいい?」
「未来よ。……でも、それだけじゃ現実にならない。だから、具体的な手当てが要る」
バルドが腕を組み、低く言った。「教会は素直じゃないぜ。最近は王都に寄ってる。鍛冶屋の親方は義理には厚いが、頑固。孤児院は……苦しい。何を差し出せる?」
私は立ち上がり、棚に並べた小瓶を手に取る。ラベルに素早く印をつけ、三つに分ける。
「教会へは『灰雨用の聖別補助滴』。彼らの聖水に混ぜれば効力が二倍に伸びる。自分の仕事を否定しない提案は、聞いてもらえる」
「鍛冶屋には?」
「『鳴きやまない槌の油』。煙と粉塵でやられた肺を守る吸入膏。ついでに、鉱滓から微細毒を抜く粉末。親方が一番困っている現実を、先に片づける」
「孤児院は……」
「『夜泣きの露』と『ミルク花の糖衣』。子どもが眠れる滴と、栄養を落とさずに飲みやすくする飴。大人への薬も渡す。でも先に子どもを笑わせる」
セリスとバルドが顔を見合わせた。セリスの口元に、ようやく薄い笑みが灯る。
「本当に、薬師の手順ね」
「それと」私は小袋を差し出した。「これを持って。痕を消す雫。鍵を持ち出す人の足取りを、誰にも追わせないために」
セリスは笛と雫を懐にしまい、深く頷いた。彼女の背筋がわずかに伸びたのが見えた。
「……動きましょう。私が教会へ行く。アイリスは鍛冶屋へ。バルドは孤児院。日暮れ前に、古井戸の前で合流」
「了解」
別れる前に私は、セリスの手を軽く掴んだ。骨ばって冷たい指に、小さく熱が戻る。
「これ、護手。毒霧を五分、締め出す膜。必要なときだけ割って」
「五分?」
「時間が具体的ほど、祈りは届く」
セリスは笑った。「了解」
扉が閉じ、三人はそれぞれ街へ散っていく。私はルゥを肩に乗せ、鍛冶屋の煙突が並ぶ通りへ足を踏み入れた。
街の心臓が、そこにあった。槌の音が途切れず、火花が飛び、赤い熱が人の顔を染める。粉塵が白い陽光の中を雪のように舞い、咳と笑いと罵声が交錯する。
「親方はいる?」
「いるともよ。あんたは誰だい、綺麗な顔して粉を吸いに来たのか」
豪快に笑う女鍛冶が顎で示す。奥の炉の前に、山のような男が立っていた。胸板は厚く、腕は縄のような筋肉で、髭には灰が積もっている。親方は槌を振り下ろし、鉄の叫びを沈めてから、私を見た。
「何の用だ、薬師」
「用件は三つ。ひとつはお礼。街の刀と釘が、この街を支えてるから」
「礼は要らん。二つ目は?」
「仕事。肺を守る膏と、鉱滓を扱いやすくする粉。それから、錆び止めに少し改良の余地がある」
「三つ目は?」
「預け物を返してほしい」
親方の目が細くなる。火の粉がその瞳に飛び、きらりと光った。
「知らねえな」
「預けは十年前。あなたの奥の棚、煙で黒くなった瓶の裏。三角の鉄片。穴が三つ」
親方は言葉を失い、ゆっくりと私を見る。私は逃げず、視線を返した。
「それを持ち出す気はないわ。これはあなたの工房の空気をきれいにする膏。試して。もし効果があると思ったら、鍵を一晩貸して。明日の朝には戻す」
親方の肩がわずかに動いた。咳を一つ押し殺し、彼は命じる。
「……吸ってみろ」
私は吸入膏を取り出し、親方に鼻先で深く吸い込むよう示す。彼は渋面のまま従い、数呼吸後、胸を押さえた。
「楽だ。胸ん中の砂が、薄くなったみてえだ」
周りの鍛冶たちがざわつく。私はそのまま、鉱滓へ粉末を振り、鉄鉢で試した。粘りが減り、作業台の男が目を丸くする。
「……親方」
「ああ、わかったよ」
親方は棚の奥から黒い布に包まれた物を持ってきた。布をほどけば、三角形の鉄片。穴が三つ。私はそれを両手で受け取り、深く頭を下げる。
「必ず返す。ありがとう」
「返さなかったら、街ごと叩き直す」
「それも薬師の手順に入れておく」
工房を出ると、夕陽が街を斜めに染めていた。ルゥが肩で小さく鳴く。私は撫で、歩を速める。
古井戸は、街の広場から一本路地を外れたところにあった。石積みは古び、苔が縁を覆っている。人の気配は少ない。井戸の脇に、すでに二人の影。
「教会は?」
「半分貸してくれた。聖水に補助滴を混ぜ、今晩の祈りで民に配る代わりに、鍵は朝まで預かる、と」セリスは肩をすくめた。「でも、合鍵を持ってる修道士が裏で握ってた。痕消しの雫で、目だけ借りた」
「孤児院は、鍵は無いって。けど、原型を粘土で写した型を子どもが持ってた。『大人が悪いときに隠すもの』だってさ」バルドが苦笑する。「鍵じゃないが、形の答えは手に入った」
私は親方から借りた鉄片を取り出し、セリスの白い笛の横に置いた。セリスは教会から借りた半分の鍵を並べ、バルドの持つ粘土型を重ねる。三つが重なる線が見え、セリスが細い息を吐く。
「足りない部分、削って補える。古井戸の扉は“合致率七割”で開く仕様。十年前、民が急いで逃げ込めるように、わざと甘く作った」
「じゃあ、今夜、行ける」
「――今夜?」
私が井戸の縁に手を置いた時、広場の方から槍の音が近づいた。鎧がぶつかる濁った音。王都の衛兵が三人。灰色のマントの男がその後ろに付き従い、目だけが笑っていない。
「アーデに薬師が現れたと聞いた。王都の許可なく薬売りをしている者がいれば、連行する」
セリスが微かに舌打ちする。「早い」
「見てたのよ、誰かが」
私は一歩、前に出た。井戸の縁から手を離し、笑う。
「ようこそ。薬が必要かしら? 咳止めと鼻炎と腹の虫下し。王都から来る道は埃っぽいもの」
灰色のマントの男が口元だけ笑い、顎で合図をした。衛兵のひとりが突き出してきた槍の穂が、私の喉元で止まる。ルゥが低く唸り、毛を逆立てる。バルドの拳が音もなく固まる。
「君が薬師か。王都では、君に処刑判決が出ているが」
「死んだはずの女の話を、私に?」
「死は、見方次第だ」
私はゆっくりと槍の穂先に指を伸ばし、薄く唇を歪めた。その刹那、セリスの笛が小さく鳴る。空気が揺れ、広場の端で子どもが笑い声を上げ、犬が走り去る。細工だ。視線を逸らすわずかな余白。
「あなたたちも、よかったら吸っていく?」私は吸入膏の蓋を開ける。「ほら、胸が楽になる。兵の肺は宝だから」
衛兵たちは互いに顔を見合わせ、戸惑う。灰マントの男は笑って首を振った。
「誘惑しても無駄だ。王の命令だ。連行――」
「連行する前に、交渉はしないの?」私は声を重ねる。穏やかな、しかし相手の言葉を半歩だけ踏むテンポ。「王都はアーデを捨てた。けれど、アーデが蘇れば、税が戻る。王都は喜ぶ。ね?」
男の笑みがわずかに薄れる。私は続けた。
「明日の朝まで。たった一晩でいい。私たちはこの井戸に降りて、灰雨の循環を切る。成功すれば、あなたの手柄になる。失敗したら――そうね。私を捕まえなさい。ご希望どおり、鎖でも縄でも」
広場の空気が張りつめる。衛兵たちの槍が揺れ、セリスの笛の穴が光を吸う。バルドが無言でうなずき、ルゥの尾が静かに左右へ揺れる。男の目が、私の目をまっすぐ射抜いた。
「一晩だ」
男は言った。衛兵がざわめき、男が片手で制す。
「夜明けに戻る。逃げたら、街ごと捜す」
「逃げない」
私は頷いた。男は踵を返し、衛兵を引き連れて立ち去る。夜の口が静かに開く。私は手のひらに汗がにじんでいるのを感じ、深く息を吐いた。
「……危なかったわよ、あれ」セリスが息を漏らす。
「交渉は具体が命。明日の朝、結果を見せればいい」
私は三つの鍵を重ね、井戸の蓋に刻まれた鍵穴に合わせる。セリスが白い笛を短く鳴らす。バルドがロープを井戸の柱に回し、固定する。ルゥが井戸の縁を覗き込み、青い目を細めた。
「行くよ、ルゥ」
「きゅ」
鍵が回る音は、思っていたより軽やかだった。古い石がため息をつくようにずれ、冷たい風が下から昇ってくる。湿った匂い。鉄と苔と古い油。私は腰の薬袋を確かめ、護手をセリスにもう一つ渡した。
「地下は、灰雨の根だ。循環のパターンを見つけて、逆回しにする」
「反転調合で?」
「祈りを、手順に変えて」
ロープに体重を預け、暗闇へ降りる。足裏に石の突起、指先に冷たい水。すぐあとを、セリスとバルド。井戸の口が遠ざかり、上の世界の光が輪のように小さくなる。
底に達すると、そこは単なる井戸ではなかった。石壁に沿って大きな空間が広がり、古い管が無数に走っている。足元には水路。水は静かに流れ、遠くで低い唸りが響いている。
「これが……鉛糸」セリスが指さした。天井から垂れる黒い線。まるで雲が流す涙の筋のように、ゆっくりと脈打っている。触れれば冷たく、肌の上でざらりと“重い”。
私は息を整え、左手の紋に意識を集める。灰雨は、灰を種にして空で育ち、雨で落ち、地で腐り、また灰になる循環。ならば、どこかで結び目がある。結び目は、ほどける。
「セリス、音を。四拍ずつ、三の倍。バルド、水路の流速を見て。渦があるところ、私に教えて」
「了解」「任せろ」
白い笛の四拍子が地下に満ち、一定のリズムで空気が揺れる。バルドが水路を走り、光の反射を読む。私は鉛糸の周囲にコアグレアの粉を散らし、白露の種を少量ずつ砕いて落とす。毒が粉に集まり、糸の太さが目に見える。
「――ここだ」
渦の中心、糸が三本重なっている。三は循環の最小単位。私は指先に反転調合を乗せる。単純に逆さまにするのではない。進行方向だけを逆に。種を雲に戻さず、雲を地の器に落とす手順を編み込む。
左手が熱い。視界が白む。セリスの四拍が遠くなり、バルドの足音が短くなる。私は呼吸を数え、言葉を数え、指の節を数える。祈りは、数でできている。具体が、世界に食い込む。
「――戻れ」
最後の糸を指で弾いた瞬間、鉛糸が音もなくほどけた。黒い線は霧に変わり、霧は粉に、粉は水に。天井の暗い皺の向こうで、何かが「軽く」なる。地下の空気から、重しがひとつ外れた。
セリスが笛を止め、静寂が落ちる。バルドの笑い声が先に零れた。
「やったのか?」
「循環のひとつを逆回しにした。これで、明日の朝の灰は“雨になれない”」
私は膝に手をつき、熱の余韻をやり過ごす。反転の核はまだ潰れていない。けれど、循環に割り込むことはできる。これを三度繰り返せば、灰雨は自重で崩れる。
「上へ戻ろう。夜明けが来る前に、次の結び目の位置を計算する」
私たちはロープを登り始めた。途中で、井戸の口の輪が淡く明るむ。東の空が白む気配。急がなければ。あと二度、手順を回す――。
井戸の縁を越えたとき、冷たい朝の匂いが頬を叩いた。広場の端に、灰色のマントの男と、衛兵。約束どおり戻ってきていた。男の目が、空を一瞥する。
灰が降っていない。
夜明けの光の中で、街の屋根は濡れているのに白くない。昨日まで朝ごとに薄く積もっていた灰の膜が、今日はない。井戸端に集まっていた女たちが囁き、子どもが手を伸ばす。指先に、灰のざらりがないことを確かめて、目を丸くする。
灰マントの男はゆっくりと私を見た。言葉はまだ出ない。その沈黙の間に、私は懐から三角の鍵を取り出し、バルドに渡す。
「親方に返して。約束どおり」
「ああ」
セリスが教会の鍵を掲げ、静かに頷く。「夕刻までに、残りを取り戻して、もう二度やる」
男の口元が、ようやくほどけた。笑ったのではない。感情を押し殺すのをやめた、という顔だ。
「……一晩では終わらない、という顔ね」私は言う。
「灰雨は十年降った。なら、切るのに二晩かかっても、不思議はない」
男の声は低い。彼は一歩、近づいた。
「私は、王都の役人だ。名はエドリン。命令は連行だったが、報告は『今は不可』とする。二晩の猶予を、私が取ろう」
「なぜ?」
「王都は、数字でしか判断しない。数字が好転すれば、命令は変わる」
エドリンが視線だけで広場を示す。女たちの笑い、子どもの跳ねる靴、鍛冶屋から響く槌の音。灰のざらりがないだけで、音が軽くなっている。私は頷いた。
「数字を作るのは得意よ」
エドリンはうなずき、衛兵に退がるよう目配せした。彼が背を向ける直前、ほんの少しだけ声が柔らかくなる。
「私は君の敵だ。だが同時に、君の証人でもある」
去っていく灰色の背中を見送り、私は息を吐いた。膝が少し笑う。ルゥが私の足元で丸くなり、青い目を細める。セリスが笛を指で弾き、バルドが拳を軽く私の肩に当てる。
「もう二度。行けるか」
「行く。店を開くって言ったの。灰に負ける店なんて、つまらない」
私は笑い、袖をたくし上げた。朝の光は冷たいのに、皮膚の下では熱が生きていた。祈りを手順に。毒を薬に。ざまぁを、急がずに。
この街に、朝が来る手順を、もう二度、刻みに行く。