第2話 辺境の街アーデ、薬師の店を開く
谷を抜けて朝の光を浴びた瞬間、胸の奥に冷たい風が流れ込んだ。
生きている。死んだはずの私が、こうして歩いている――その実感が、かすかに頬を熱くする。
「大丈夫か?」
隣のバルドが声をかけてきた。傷はまだ完全には癒えていないのに、無理に笑おうとする顔。
「ええ、問題ないわ。あなたこそ」
「おかげで、もうほとんど痛くない。……まさか、あんな薬を作れるなんてな」
私は肩をすくめた。神の祝福と前世の知識があってこそだ。けれど、それを今ここで説明するつもりはない。
霧の谷を後にして、私たちは辺境の街アーデを目指した。
足元には荒れた街道が続く。石畳はところどころ崩れ、雑草が割れ目から顔を出している。王都の整備が途絶えて久しい証拠だ。
「アーデは……正直、荒れてる」
バルドの声は沈んでいた。
「十年前の灰雨のせいで畑は枯れ、王都からの支援もなくなった。薬師ギルドも解散して、今は行商人と教会が細々と薬を売ってる程度だ」
なるほど。ならば薬師がひとり現れるだけで、大きな価値になる。
私は胸に抱くルゥを撫でた。仔狼はのんきに「きゅ」と鳴き、空気を和ませてくれる。
正午過ぎ、私たちはアーデの門にたどり着いた。
といっても石の門は半ば崩れ落ち、衛兵の詰所も屋根が抜けている。門番の青年は槍を握りながらも眠たそうに目をこすっていた。
「おや、バルドじゃないか! よく生きて戻ったな」
「なんとか、な」
青年は私を見て目を丸くした。
「……誰だ、その人?」
「助けてもらった。薬師だ」
青年の目が驚きに見開かれる。薬師という言葉が、ここでは特別な響きを持つのだろう。
街に入ると、荒れた印象の中にも人の生活の匂いがした。
露店には干し肉や薬草の束が並び、子どもたちが土埃をあげて走り回る。井戸端では女たちが桶を並べ、笑い声を交わしていた。
――思っていたよりも、生きる力がある街だ。
「ここだ」
バルドが案内したのは、街の外れにある古びた石造りの小屋だった。窓は割れ、扉は外れかけている。
「昔、薬師ギルドの出張所だった場所だ。今は誰も使っていない。……もしよければ、ここを拠点にするといい」
私は扉を押し開けた。
中は埃と蜘蛛の巣だらけ。でも、木の棚と作業台が残っている。火を焚く炉もまだ使えそうだった。
ここなら――薬を調合し、人を迎え入れることができる。
「決めたわ。ここを店にする」
「店?」
「ええ。薬草を集め、毒を薬に変え、人々を癒やす場所。……王都は私を殺した。でも、ここなら誰かを生かすことができる」
ルゥが棚の上に飛び乗り、尻尾をぶんぶんと振る。まるで賛成しているみたいだった。
翌日。
私は街の市場に立ち、試作品の薬を並べて声を上げた。
「万能解毒滴、一瓶五銅貨! 傷薬もあります!」
最初は人々が警戒して近づかなかった。けれど、バルドが「この人に命を救われた」と声を張り上げると、ざわめきが広がった。
やがて老婆が一歩近づき、瓶を受け取る。震える手で飲んでみた瞬間、顔色が変わった。
「……長年の痺れが、和らいだ……!」
歓声が上がり、人々が次々と私の前に集まった。
薬は瞬く間に売り切れ、銅貨と銀貨が袋いっぱいになった。
夕暮れ、小屋に戻った私は机の上に収益を並べる。
生活できる。ここで、やっていける。
胸の奥から笑いが込み上げた。
「私の店、始まったわね」
ルゥが膝に飛び乗り、バルドが照れくさそうに笑う。
そのとき、扉が叩かれた。
「――失礼。薬師殿とお見受けする」
現れたのは、黒いローブをまとった人物だった。谷で笛を吹いた者かもしれない。
フードの下からのぞく瞳が、私を射抜く。
「あなたに用がある。アーデの未来を救うために」