第2章 第14話 眠り霧の峠戦
夜明け。
アーデの街から見える峠は、まだ薄暗い影をまとっていた。
だが、そこに続く街道の向こうには、王都軍の松明の列がはっきりと見える。
百を超える兵。鎧が鈍く光り、槍の列が波のように揺れている。
「……本当に来るのね」
セリスが地図を握りしめ、震える声で呟いた。
「来るさ」バルドが短く答え、剣の刃を確かめる。
「だが、数が多いだけだ。俺たちには薬がある」
私は胸元の瓶を握りしめた。
淡い青光を放つ液体――《眠り霧》。
これを使えば兵を殺さずに無力化できる。
救うために立つのが薬師なら、戦う手段もまた薬でなくてはならない。
峠の狭間。
霧が溜まりやすい地形に、人々は薬瓶を仕掛けていた。
鍛冶屋の親方が大声で指示を出し、農夫たちが縄を張り、商人たちが荷車で道を塞ぐ。
孤児院の子どもたちまでが石を運び、声を掛け合っている。
「みんな……」
その光景に胸が熱くなる。
王都が“魔女”と呼んだ私を、彼らは迷わず支えてくれている。
「アイリス様。ここはもう、あなた一人の戦いじゃない」
サラ院長の声に、私は深く頷いた。
やがて、地鳴りが迫ってきた。
王都軍の先頭が峠に差しかかる。
「陣形を整えろ! 偽薬師を捕らえよ!」
将校の声が響き、兵たちが進軍する。
私は高台に立ち、息を吸い込んだ。
「――今よ!」
バルドが火矢を放つ。
仕掛けられた瓶が次々と砕け、淡い蒼霧が峠に広がった。
「な、なんだこれは……!」
兵士たちが霧に包まれ、足元をよろめかせる。
槍が地面に落ち、盾が転がる。
ひとり、またひとりと崩れ落ち、やがて列そのものが乱れていった。
「……眠い……」
「立て……っ……」
呻き声が重なり、兵たちは次々と倒れていく。
私は霧の中に祈りを込める。
「毒は薬に変わる。恐怖は安らぎに変わる。……どうか眠り、戦わずに済むように」
やがて、峠に静寂が戻った。
百を超える兵の大半が地面に横たわり、穏やかな寝息を立てている。
血は一滴も流れていなかった。
「……やった……!」
セリスが震える声で叫び、広場に待機していた人々が歓声を上げた。
親方が槌を振り上げ、子どもたちが泣き笑いで抱き合う。
バルドが剣を収め、肩をすくめた。
「さすがだな。百の軍勢を、瓶ひとつで無力化とは」
「薬のおかげよ。でも……」
私は峠の先を見つめる。
霧の外、まだ整然と旗を掲げた一団が控えていた。
その中に、見慣れた姿があった。
灰色のマントを翻す男――エドリン。
彼は馬上から私を見つめ、ゆっくりと片手を挙げた。
「……お見事だ。だが、これで終わりではない」
背後に控えるのは、王都から派遣された“中央薬師ギルド”の旗。
青いローブの女が静かに微笑んでいた。
「次は、薬師対薬師よ」
その言葉が冷たく峠を満たし、胸の奥に緊張が走った。
(第2章 第14話 完)