第2章 第4話 王都からの密使と新たな試練
夜更け。
薬房の灯を落とした直後、扉が小さく叩かれた。
「こんな時間に?」
バルドが剣に手を伸ばす。ルゥが耳を立てて低く唸る。
私は静かに扉を開いた。そこに立っていたのは、灰色の外套を纏った男――エドリンではなかった。もっと痩せて、狐のような目をした若い兵士だった。
「薬師アイリス殿。私は王都から派遣された“密使”です」
「……密使?」
その響きに、バルドの表情が硬くなる。
「陛下より伝令を承っております」
兵士は懐から巻紙を取り出した。封蝋には王都の紋章。
「――“辺境に蘇った令嬢、アイリス・グランドリアを王都へ召還せよ”」
その場の空気が張りつめた。
私は笑みを浮かべ、淡々と答える。
「お断りするわ」
兵士の眉がぴくりと動く。
「返答は予想どおり。しかし陛下の命令は絶対です」
「その陛下が、私を処刑したのよ。もう一度首を差し出せと言うの?」
「処刑された令嬢が“神薬師”として蘇った。それを放置できるほど、王都は甘くない」
セリスが一歩前に出て声を張る。
「アーデの灰雨は止んだ。人々は息を取り戻した。薬師を奪うことは、街を殺すことと同じ!」
兵士は冷たい視線でセリスを見据え、肩をすくめた。
「街ごと切り捨てることは、王都にとって造作もないことです」
その一言で、工房での笑い声や孤児院の子どもたちの寝顔が頭をよぎった。
――この街をまた灰に沈める?
胸の奥に熱がこみ上げ、私は一歩前に出る。
「なら、私はこの街と共に立つ。薬師として、守る」
兵士は薄い笑みを浮かべた。
「……なるほど。ならば“試練”を差し上げましょう」
彼が指を鳴らすと、扉の外に運ばれてきた大きな箱が開けられた。中からは、痩せ細った男が転がり出る。目は虚ろで、体は痙攣している。
「王都から辺境へ護送中、謎の病に侵された捕虜です。解けるものなら解いてみなさい」
「こんな夜に人を病で試すなんて……!」バルドが怒声を上げる。
「命令です。――もし救えなければ、あなたは“神薬師”ではないと証明される」
密使の声は淡々としていた。
私は捕虜の体に触れた。
熱い。汗が噴き出している。だがこれは単なる熱ではない。血流を逆に走る“異毒”だ。皮膚の下で黒い筋が踊り、心臓へ食い込もうとしている。
「これは……王都で仕組まれた毒」
セリスが顔をしかめる。
「普通の薬では無理。――アイリス、やれるの?」
私は静かに頷いた。
「やれるわ。毒は薬に変わる。これまで通りに」
私は粉末を取り出し、ルゥの毛を少し撫でて電気の火花を得る。
白露の種と煤草の根、そして青月草を混ぜ、異毒の流れを逆にするよう祈りを編み込む。
「〈反転調合〉!」
小瓶に滴が生まれ、私はそれを捕虜の唇に落とした。
数秒後。黒い筋が少しずつ薄れ、呼吸が安定していく。男の目に光が戻り、弱々しく私の手を掴んだ。
「……生きて、いいのか」
「ええ。生きなさい」
兵士の瞳がわずかに揺れた。
「……驚きました。王都の毒を解いた者は、あなたが初めてです」
彼は巻紙をしまい、深く頭を下げる。
「報告はこう伝えます。――“神薬師は辺境で人を救った。連行は不可能”」
その言葉に、胸の奥がざわついた。安堵と同時に、王都の執念を思い知らされる。
「また来るわね」
セリスが低く呟く。
「ええ。けど、その度に救えばいい。それが薬師の手順よ」
夜が明ける。
孤児院の子どもたちが笑いながら走り、工房の槌がまた響き始める。
私は短剣を腰に差し、薬房の前に立った。
「王都がどう動こうと、ここが私の場所。薬が必要な人のために、私は店を開ける」
ルゥが「きゅ」と鳴き、尻尾を振る。
その笑顔の裏で、王都の影が確実に近づいていることを、私は知っていた。
(第2章 第4話 完)