第1話 毒の谷で目を開けて、自由を宣言する
鐘が三度鳴った。処刑の合図だということを、私はよく知っていた。
広場に集まった人々は、私を「悪役令嬢」と呼んで囁いた。白手袋の貴婦人も、粗布の男も、誰も彼も同じ顔で好奇心を湛えている。私の名はアイリス・グランドリア。侯爵家の長女であり――今日、王都で「嫉妬に狂って王太子妃を傷つけた罪」で処刑される女だ。
もちろん冤罪だ。
私は薬師で、傷を癒やし、毒を抜くことに人生を費やしてきた。嫉妬だの、陰謀だの、私には似合わない。けれど、王太子の言葉が法である王都では、真実はささやき声よりも弱い。
「アイリス・グランドリア。王国に仇なす者。その罪、奈落の毒谷への投擲をもって償わせる」
青いマントの騎士が淡々と読み上げた。
私は壇上から見下ろす。石畳の裂け目のように、処刑台の先に黒い穴が口を開けている。谷底は見えない。噂では「底には古の毒が満ちている」という。落ちたものは、骨さえ残らないのだと。
私の両手は背で縛られている。紐の食い込みは痛いけれど、不思議なほど心は静かだった。
視線を巡らせると、父の姿が見えた。痩せて、背が少し曲がっている。目が合ったとき、彼はわずかに首を振った。怒りでも哀れみでもない。――覚悟の合図に見えた。
「最後に弁明はあるか」
騎士が問う。私は首を横に振った。ここで何を言ったところで、物語は変わらない。
変えるとしたら、書き手を変えるしかないのだ。私が私の物語を取り返す――それだけ。
「では」
足元の板が開いた。
空気が抜ける。身体が落ちる。喉が震える。歓声と悲鳴が遠ざかって、風の唸りだけになる。私は目を閉じない。暗闇が迎えにくるなら、見開いた目で見据えてやる。
その瞬間、頭の奥で何かがほどけた。
白い部屋、透きとおる声、手渡された一片の光。――思い出した。私はここに生まれる前、神域で「ひとつだけ力を選べ」と言われた。私は迷わず選んだのだ。毒を薬に変える力を。
神は微笑み、私の左手に紋を刻んだ。花弁のような六角の紋。名は**〈反転調合〉**。毒素を読み替え、逆さまの性質を編み直す、たった一度きりの祝福――そう、たとえ世界が敵になっても、生き延びるための祝福。
落下の衝撃が、私を現実に引き戻す。
――ゴチンッ。
痛み。けれど、骨は砕けなかった。柔らかな苔と粘度の高い液体が衝撃を吸い取ってくれたらしい。鼻をつく匂い。鉄と薬草の中間のような、甘く腐ったような香りが立ち上る。
「……生きてる」
呟いて、私は左手を見た。手首に巻かれていた布が落ち、白い皮膚に淡い光が浮かぶ。花弁の紋――神の印。
周囲は蒼黒い霧に満ちている。皮膚がぴりぴりする。噂どおり、谷は毒で満ちているようだ。目を凝らすと、岩肌の隙間に縮れた蔓が張り、滴る液が地面に穴をあけている。
私は深く息を吐いた。
怖くないと言えば嘘になる。でも、ここなら――誰にも邪魔されずに、生き方を選べる。
「……やろうか」
私は膝をつき、周囲の毒霧に指先を浸した。
ひやり、と冷たい。左手の紋が静かに熱を帯びる。毒素解析――匂い、色、反応。脳裏に化学図形のようなイメージが浮かぶ。腐敗を促す成分、麻痺を引き起こす成分、血に混じれば心臓を止める成分……それらの結び目を、逆に結び直していく。
「〈反転調合〉」
言葉は鍵だ。
薄い光が手のひらでほどけ、毒霧の一部が白い粉に変わる。指先で集め、掌で転がす。生温い粉は、やがて透明な滴に変性した。
私は滴をひとしずく舌に乗せる。苦味――のあとに、静かな甘さ。胸のさざめきが落ち着き、頭が澄む。成功だ。万能解毒滴。谷の毒に対する中和液。
生きる準備ができた瞬間、足元の陰で何かが震えた。
「……?」
藪がざわりと動く。私は身を低くして覗き込む。
そこにいたのは、小さな白い塊だった。ふかふかの毛玉――いや、動いた。目が合った。
薄青い瞳。鼻先が濡れている。耳がぴくりと動いて、鈴のような声が「きゅ」と鳴いた。
「あなた、どうしてこんなところに」
毛玉は一歩、二歩と近づいてくる。足取りがふらついている。毒に当てられているのだろう。
私は掌に残った解毒滴をもうひとしずく作り、指先でその鼻先に触れた。白い毛が濡れ、毛玉が驚いてくしゃみをする。
数秒ののち――ふわ、と息が整い、小さな身体が軽く跳ねた。尻尾がふるふると震え、私の手首に頬を押しつける。
「……元気になった?」
「きゅ」
答えるように鳴いて、毛玉は私の膝にのぼってきた。
よく見るとそれは仔狼だった。けれど、普通の狼ではない。背に薄い紋様が走り、毛先が微かに光っている。魔獣の子――おそらく、**霜狼**の幼体。
「あなた、名前は?」
仔狼は首をかしげる。
「……じゃあ、ルゥ。今日から、私の相棒ね」
「きゅ!」
ルゥは嬉しそうに鳴いた。小さな舌で私の指を舐める。
私は笑ってしまった。ここは処刑の谷。さっきまで私は死ぬはずだった。でも今、膝で眠るもふもふの温度が、こんなにも現実を明るくする。
上空から、甲高い声が風に乗って落ちてくる。
『死骸は? 確認しろ!』
騎士の怒鳴り声。私は見上げた。垂直に切り立つ壁の上、いくつもの影が行き来している。
死んだことにならなければ、処刑は終わらない。彼らは私の身体を見つけるまで覗き込み、石でも投げるのだろう。
私は素早く周囲を見回した。岩陰、蔓、ぬかるんだ地。逃げ道は――谷の奥へ続く暗い裂け目。湿った洞が口を開けている。
「行こう、ルゥ」
私は仔狼を胸に抱き、裂け目に身を滑り込ませた。
まぶたをなぞるような冷気。足元は不安定で、岩が濡れている。手の甲に冷たい滴。けれど、あの毒霧よりはましだ。
洞は思ったより深く、やがて開けた空間に出た。
上から細い光が差し込み、中央の窪みに淡い水が溜まっている。右奥――古い木の枠。崩れた棚。誰かが昔、ここで暮らしたのだろうか。
棚には黒ずんだ瓶がいくつか残っていた。触れると、指に甘い香りが移る。薬草の匂い。私は瓶をひとつ開け、鼻に寄せた。
「……白露の種」
乾いた小さな種子。毒を引き寄せる性質がある。触媒として最適だ。
私は左手の紋をじっと見つめた。これは一度きりの祝福――けれど、一度で何をどこまで反転できるかは、私次第だ。祝福の核は失われない。ただし、強い干渉ほど回復に時間がかかる。
命を繋いだ今、次は生き方を作る番。
「拠点にしよう」
私は口に出して言った。
「ここを、私たちのはじまりにする」
「きゅ」
ルゥの返事は短く、力強かった。
私は洞の周囲を歩き、乾いた枝と崩れた棚板を集める。岩壁に残っていた古い布を裂き、紐にする。
天井の割れ目から差す光が、時間の流れを教える。王都の時計の音は届かない。たぶん、今は昼過ぎだ。騎士たちは夕暮れまでに諦めるだろう。
火打ち石もないけれど、毒霧を微量に反転させた発火滴があれば火は起こせる。私は白露の種をひとつ指先で潰し、霧を絡めて小さな火を作った。炎は青く、岩肌を揺らして踊る。
温かさが満ちる。ルゥは火のそばで丸くなり、私の足首に顎を乗せた。
私は鞄も装飾も、処刑のときにすべて取り上げられていた。残ったのは、ドレスの下に忍ばせていた針と糸、そして左手の紋だけ。
それで足りる。薬師は、ないなら作るだけだ。
洞から出て、私は谷底の植生を調べた。毒を帯びた苔、黒ずんだ蔓、透明な菌糸。地表に薄青い花が一輪、震えている。
指で触れると、花はびくりと身をすくめ、花粉がふわりと舞った。花粉は空気中の毒と結びつき、粒になって落ちる。面白い――これは毒凝集花。精製すれば、霧払いに使える。
私は即席の毒避け香を作った。
白露の種を乳鉢代わりの石で潰し、コアグレアの花粉と混ぜ、発火滴で軽く炙る。立ち上る香煙は鼻にやさしく、周囲の毒が薄い薄膜に閉じ込められていく。
これで、洞の周りは安全地帯になる。寝床を整え、入口に簡易の落し蔦を巡らせる。知らぬものが踏めば、蔦がからまる仕掛けだ。
ひと息ついたとき、腹が鳴った。
ルゥも恥ずかしそうに「きゅ」と鳴く。食べ物――この谷で? 私は周囲をもう一度見渡した。
岩の隙間に、灰色のキノコが群れている。灰笠。本来は発熱毒を含むが、反転すれば滋養茸になる。
「……少しだけ、借りるね」
私はキノコを数本摘み、洞に戻る。
薄く切り、石板で焼く。匂いが優しく香る。反転調合をほんの少し。舌に乗せると、とろりと甘い。身体が温まる。ルゥにも小さく分ける。尻尾が嬉しそうに跳ねた。
火を見ながら、私は静かに呟いた。
「私は、戻らない」
王都に。家に。あの世界に。
私を殺したのは、彼らだ。彼らは私の言葉を笑い、手を縛り、谷に落とした。だから私は、私のために生きる。
薬草を摘み、毒を薬に変え、困っている者がいたら助ける。けれどそれは王国のためじゃない。私の選んだ生活のためだ。
火のはぜる音に紛れて、かすかな金属音がした。
私は顔を上げる。洞穴の入口、落し蔦が微かに揺れている。誰かが来た――? 谷底に落ちてくる者など、普通はいない。
私は素早く火を手で隠し、壁の影に身を寄せた。ルゥも音の気配を読み取り、低く唸り声を漏らす。
「……誰か、いるのか」
掠れた男の声。
次いで、がらりと石を引く音。落し蔦が引きちぎられ、影が中へ倒れ込んだ。
見ると、若い男が膝をつき、胸を押さえている。肩から血が滴り、鎖骨のあたりに黒い斑点――毒だ。右腕には、冒険者ギルドの簡素な腕章が巻かれている。
「動かないで」
私は影から出た。男が顔を上げる。驚愕。けれど、私のドレスの残骸を見ても、何も言わなかった。
彼は唇をふるわせる。
「すまない……上から、滑り落ちた。仲間が、毒に……俺は、何とか、ここまで……」
息が乱れている。視線が焦点を結んでいない。毒素が心臓へ回れば、あと数分だ。
私は男の腕を取り、毒の走りを確かめた。皮膚の下で黒い線が網の目のように広がっている。蛇毒系だが、この谷の霧と混ざり、性質が変わっている。
「ルゥ、火を少し強く」
「きゅ!」
ルゥが木片を押し、炎が明るくなる。
私は白露の種とコアグレアの花粉、それに灰笠の微粉末を混ぜ、手のひらで丸める。左手の紋が光る。毒素の結び目を読み、逆さの形に編み直す。
「これを飲んで。苦いけど、すぐ楽になる」
男は頷き、私の指から滑り落ちる滴を舌に受けた。
数秒――彼は大きく息を吸い、肩から力が抜ける。黒い斑点が薄れ、皮膚の色が戻っていく。
驚嘆の色。彼は私を見つめ、何か言おうとして、やめた。代わりに、ぽつりと呟く。
「……助かった。君は……」
「通りすがりの薬師よ」
私は笑う。名前は、今はまだ名乗らない。王都に届く名前は、できるだけ減らしたい。
男は額の汗を拭い、火のそばに座った。ルゥが鼻先を近づけると、かすかに笑う。
「俺は、バルド。辺境の街アーデの冒険者だ。最近、谷の上で毒霧が強くなって……仲間がやられた。上に戻って知らせないといけないが、今は足が……」
「なら、夜明けを待ちましょう」
「夜明け?」
「谷は冷える。夜の霧は濃い。今、出るのは自殺よ」
私は立ち上がると、洞の入口に残っていた落し蔦を点検した。見上げれば、谷の口が薄青く暮れていく。
ふと、上の方で金属が軋む音がした。私は耳を澄ます。鎖の擦れる音。滑車。――吊り籠? 王都の処刑台から、何かを降ろしている?
不快な直感が背を走った。
彼らは死骸を確認できないと、「確実に殺す」ために別の手を打つ。火のついた樽、爆ぜる油、あるいは――毒そのものを、谷へ。
「急ぐ?」
バルドが私を見上げる。私は小さく頷いた。
「最悪、ここも安全じゃなくなるかもしれない。だから、準備する」
私は洞の中央に石を並べ、即席の蒸留器を組んだ。白露の種で毒を引き寄せ、コアグレアの花粉で凝集させ、灰笠の栄養を糸に変える。左手の紋を最小限に使い、滴を落とす。
数分ののち、透き通った液が三瓶できた。
一本は広域解毒滴。一本は耐毒霧膏。一本は――痕を消す雫。
「痕を消す?」
バルドが眉を上げる。私は頷く。
「足跡、におい、体温。全部、数時間だけ薄くする。追跡を避けるための薬」
「そんな便利なものが……」
「ここには、材料が揃っているから」
皮肉ね、と心の中で付け足す。処刑の谷は、王国が捨てた毒の底。けれど薬師にとっては、宝の温床だ。
私は雫を小瓶に分け、バルドの腰袋に入れた。小さな羊皮紙に使い方を書き、渡す。
「朝一番、霧が薄い時間に出る。上まで道はないけれど、谷壁の裂け目が螺旋状につながっている場所がある。そこを登るの」
「知ってるのか」
「今、見つけたの」
私は笑う。バルドも困ったように笑った。
火は落ち着き、洞は温かい。ルゥが私の膝に頭を置き、眠りに落ちる。私は彼の柔らかい毛を指で梳いた。
眠れない夜になると思っていたのに、瞼は自然と重くなった。
眠る前に、私は小さく囁く。これは誓いであり、呪文でもある。
「私は、ここで生きる。国には戻らない。薬師として、私の手で世界を反転させる。必要なら、誰でも助ける。でも、私を谷に落とした人々のためじゃない。私が選んだ日々のため」
返事は炎のはぜる音と、ルゥの寝息。
夜は静かに深まり、遠く、谷の口で何かが落ちる鈍い音がした。私は目を開けず、火に小さな滴を落として炎を守った。
――そして、朝が来る。
夜明けの色は、藍から薄い金へと溶けていく。
私はバルドとルゥに痕消しの雫を塗り、耐毒霧膏を頬に伸ばした。洞の入口に手をかける。冷たい空気。霧は夜よりも薄く、谷壁の裂け目が細い道のように浮かび上がっている。
「行こう」
私が言うと、ルゥが先に立ち、軽やかに岩を跳ぶ。バルドはまだ少し足を引きずっているが、昨夜よりずっと顔色がよかった。
三人で、谷壁を登り始める。指先に岩の感触。息は白く、心は静かだった。
半ばまで来たとき、上から人の声がした。
私は手を止め、岩陰に身を寄せる。鉄靴の音。兵の短い会話。何かを探している――私を。
その時、谷の反対側で小さな影が動いた。黒いローブ。こちらを見て、すぐに姿を消す。兵とは違う、軽い足取り。
私は目を細めた。王都の兵ではない。誰かが、私の処刑を見て、谷へ降りる準備をしている。狙いは――私?
「急ごう」
私は囁き、ふたたび上へ指をかける。
その瞬間、岩壁の裂け目の向こうから、笛の音がかすかに流れた。柔らかく、呼ぶような旋律。
ルゥの耳が反応し、私は息を呑む。笛の音は、私の左手の紋に触れるみたいに、皮膚の下をくすぐる。不思議な調べ。薬師の合図だ。遠い昔、ギルドが使った――味方の印。
「バルド。アーデの街に、薬師ギルドは?」
「昔はあったが、今は……とうに解散した。十年前の、『灰雨』のあとでな」
灰雨。私は記憶を手繰る。毒性の雨が降り、辺境が荒れ果てた災厄。王都は辺境を切り捨て、援助を打ち切った――だから谷は毒に満ち、アーデは孤立した。
笛の音がもう一度。今度は、上ではなく、横から聞こえた。裂け目の途中に、細い穴。そこから淡い風が吹き、音を運ぶ。
「行くべきだと思う?」
自分に問い、私は頷いた。
私を狙う者がいる一方で、手を差し伸べる者もいる。薬師の合図を信じるのは、薬師としての私の矜持だ。
「ルゥ、先導お願い」
「きゅ!」
仔狼はするりと穴に身を滑らせる。私とバルドも続いた。
暗い通路は短く、すぐに開けた小部屋に出る。壁に刻まれた古い印。乾いた棚。中央に、小さな卓。そして――卓の上に置かれた、白い笛。
誰もいない。けれど、笛はまだ温かい。
卓には羊皮紙が一枚。粗末な字で、短く書かれている。
谷の薬師へ。
こちらへ。追手が近い。
アーデの古井戸で待つ。
私は羊皮紙をたたみ、胸元にしまった。
追手は近い。王都の兵か、あるいは別の手か。どちらにせよ、上に出られれば、谷とは違う空気を吸える。
私は振り返り、ルゥの首を撫でる。彼は青い目で私を見た。大丈夫、という顔。
「決めた。上へ出て、アーデへ行く。そこで――店を開く」
バルドが目を瞬いた。「店?」
「そう。薬草と薬と、温かいスープの店。冒険者が帰ってくる場所、旅人が息をつける場所。王都に背を向けた人たちが、また歩き出せる場所よ」
それは、私の復讐ではない。私の幸福の形だ。
王都がどう叫ぼうと、どう命じようと、私の生き方は私が決める。助けを求める声があれば、手を伸ばす。でも、私の心は、私の側に置く。
「行こう」
私は白い笛を腰に差し、再び裂け目へ向き直る。
上では、朝の光が強くなってきた。霧は淡くちぎれ、空が近い。
最後の一歩を踏み出す前に、私は小さく呟いた。
「待ってなさい。ざまぁは、急がないほどよく効くの」
指先に岩の冷たさ。足裏に確かな感触。
私とルゥとバルドは、毒の谷から顔を出す――新しい呼吸を吸い込むために。
朝の空気は、驚くほど甘かった。
――――
つづく