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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

転移の先、絶望の果て


 秋葉郁広(あきば いくひろ)の顔が絶望にゆがむ。

 こんなことになるのなら素直に死を受け入れておけばと後悔が襲う。


 だが、今更悔もうがもう遅い。


 転移した郁広を含め、四人のうち三人が新たな人生を選択した結果である。とはいえ、こんな結末をむかえることになるなど誰が想像できようか。

 これから起こる不可避の死を受け入れることなどできず、未来を求めてもがこうとするのは人間の本望なのかもしれない。

 圧倒的な力を前に敵わぬと知りながらも、希望をつかみ取るため郁広は剣を強く握りしめたのであった。



 ◇ ◇ ◇



 昼夜逆転の生活を送って何年たっただろうか。

 直近の記憶から年月を遡るため、秋葉郁広がひとつふたつと指折り数える。

 しかし、一日中自室のパソコン前に陣取ってはネットの海に潜り、腹が減っては母親が作り置きしているご飯を食べ、再び自室で引きこもる毎日。

 メリハリなく過ぎ去る日々から年月をたどるのは困難だと気づく。

 こんなはずではなかったのにと自己嫌悪に陥り、無意識にこぶしが白くなるほど握り締めてしまう。


(高校生活は何も問題なかったのに) 


 似たような偏差値を理由に都市近郊部へと進学する者が多く、高校では同じ中学からの親しい友人は一人もいなかった。

 とはいえ新たな環境に慣れないクラスメイトも散見していたことで、自然となじめるだろうと郁広はスマホを弄ってその時を待つことを決めたのが間違いだったのかもしれない。

 周囲でグループが結成されても焦ることなく我を通したことによって、月末の席替えをおこなう頃にはついに孤立していることに気づく。

 それでも受けの姿勢を貫いた結果、誰かと仲良くなれるのを期待し続ける高校生活をおくり、卒業を迎えてしまうなんて誰が想像できようか。

 その後は大学受験に失敗して職にも就かず、ニートとして過ごす情けない男が出来あがったという訳である。


 いじめや留年でそうなったのなら言い訳もできるが、本当に何もない高校生活が今の郁広を作り上げたともいえる。

 親には受験に失敗して塞ぎ込んでいると思われており、郁広としても体の良い言い訳として利用させてもらっていた。


 周囲に溶け込めずとも高校へと通い続けたこともそうだが、変に真面目でプライドが高いひととなりが透けて見えるといえるだろう。


(そうか、卒業から数えたほうがわかりやすいな。確か四……あぁ六年もたつのか。あの頃はよかった。周りに合わせておけば良かったんだから)


 中学の頃は我の強い友人が多く、周囲が引っ張ってくれたおかげで仲間の輪に入れていただけ。

 自ら行動を起こさない者には何も起こらないのは当然といえよう。


 幸か不幸か。

 秋葉家は裕福とは言えずとも。大きな子供一人養う程度の余裕はあるらしく、両親も郁広を愛していることからか、心の整理がつくまでは温かく見守る姿勢を見せている。

 それだけでなく、ネットに疎い両親がパソコンについて勉強したらしい。

 昨今は通販で手軽に買い物が楽しめるということを知り、欲しいものは一定金額までなら注文していいという寛容さを見せている。


(物欲を刺激して働いてくれることを期待しているのかもしれないな。ま、身の丈に合わない物は望まないし、そこまでプライドが無いダメ人間じゃないけどね。貰ってる小遣いの範囲でやりくりするとも)


ヴー、ヴー、ヴー、ヴ。


「お、そろそろ週刊誌を買いに行く時間か」


 振動するスマホを手に取り時間を確認すれば時刻は深夜一時四十分。

 コンビニまでは徒歩十分ほど。そして、男のちょっとした買い物なんてスマホと財布さえあれば事足りる。

 ならばと立ち上がり、自室から出るために尻ポケットへと財布を突っ込んだところで、後ろ髪を引かれて振り返る。


 数年経った今でも変わらぬベッドと机と本棚の配置。

 唯一変わったと言えるのは引きこもって以来、購入した漫画雑誌が捨てられず床を覆うほど散らばっていることだろうか。


(チッ、このままじゃだめだってことくらいわかってるさ。でも行動を起こそうって自らを奮い立たせるきっかけが無いんだ。浮きも沈みもしない平坦な毎日で、俺みたいな受動的な人間が変わることなんて難しいんだよ)


 漫画雑誌のように、不安や焦燥感を蓄積するだけの人生に首を振り、就寝している両親を起こさないように静かに一階へと降りていく。

 靴棚上に佇む干支の置物を横目に素早く靴を履き、玄関扉から滑るように外へと出る。その際後ろ手で音を立てないように把手に触れるのを忘れない。


 普段なら何ともない動作だが、先ほどの思考から定職へと就かないで親を避け、こそこそと外出する不甲斐なさに様々な感情が織り交ざったため息をつく。

 玄関アプローチの左右に植えられた花々が己を見送っているように感じ、逃げるように歩みを早めて目的地を目指す。


 平成初期頃に開発された住宅地にある秋葉家は、一般国道から脇道へと入り、数度目の交差点を曲がった数軒先に建っている。

 数分の暇をつぶすため右手に持ったスマホへと視線をおとし、ソシャゲを操作しながら視界に入る路側帯を沿い、大通りへと続く道のりを進む。

 スタミナを消化しきるころには路側帯が白線から縁石へと変わり、一般国道への合流が近いことを認識して頭を上げた。


 信号機の無い丁字路。左右に首を振れば車の行き来はまばら。

 横着して車道を横断したくなる気持ちもわかるが、残念ながら反対側の歩道には植裁と防護柵が整備されており横断は難しい。

 ならば仕方なしと、郁広は右向け右をして横断歩道を渡り、歩きながら夜空を仰ぐことで目と首を休ませる。


(六年間毎週決まってこの時間に出歩いてるんだ。目をつぶって歩ける程度には体が覚えているとも)


 行く先は右へと緩やかなカーブが続いて先を見通せないが、記憶から約百メートル先の交差点を渡った所にある牛乳と青色の看板がトレードマークのコンビニを思い描く。


 自分の世界へと入り込むのに適した静寂の中、背後から聞こえてきたエンジン音で目を開き、握りしめていたスマホをポケットへとしまう。

 チラリと車道を見やれば、仮面ライダーが乗るような緑色のバイクが見通しの悪いカーブを前に、減速しながら郁広の横を通り過ぎていく。


(おいおい、見てるこっちが暑くなる服装だな。車の方が快適なのにバイクに乗る意味が分からない。ま、車どころか原付の免許すら持ってない人間がいえる立場じゃないんだけどね)


 初夏のこの時間にもなれば幾分暑さも引いているとはいえ、長袖長ズボンにフルフェイスを着こんでいれば見る側も暑くなるというもの。

 ならば見なければいいのだが、通り過ぎる直前に視認した胸のふくらみと丸みを帯びたデニムズボン。

 御神体の如く神々しい御姿を脳内へと焼き付けるため、瞬きも忘れて視界から消えるまで凝視してしまう。


 その際、等間隔で視界を遮る街路樹に苛立を覚えはしたが、前傾姿勢で停止している姿で癒しを摂取するために歩みを早める。

 やがて見えてきたバイクはテールランプを光らせ、歩行者信号が郁広の味方をするように青く輝いていた。


 人影がないとはいえ下心を表に出すことを良しとしない郁広は唇を噛みしめる。

 はやる気持ちを抑えつつ、今ほど競歩を実践しておけばと思ったことは無いだろう。


 接近するとともに胸部は膨らみを拝ませ、誘うように突き出されたお尻を見てほくそ笑む。

 だが、残念なことに、ここから先は会員登録が必要だとばかりに歩行者信号が点滅を繰り返す。


 パソコン越しでしか異性を見る機会が無く、唯一外出するこのタイミングでしかリアルを体験できないのだ。次はいつ機会に恵まれるかはわからない。

 ならば今この瞬間をつかみ取ろうとプライドをかなぐり捨て、走り出したのは必然だったといえよう。

 だがしかし、ぬるりとした足元の感覚で転倒してしまい、四つん這いで赤に変わった歩行者信号を睨み、遠ざかるバイクを見送ることしかできなかった。


「うぅぅっ、痛い……それになんか臭うぞ」


 転んだ元凶を睨みつければ、異臭を放つ液体と異物がぶちまけられているではないか。

 正体不明の物体をまじまじと見つめ、それが何かを脳が理解した瞬間。


「ぅぉおおえぇぇぇっ」


 郁広はもらいゲロしてしまう。

 自分のモノでも嫌悪感が強いのに、誰のモノかもわからない嘔吐物。

 靴で踏んだだけならまだしもズボンの裾がブツへとどっぷりつかっている。

 靴下から足首に伝わる生ぬるい感触を意識してしまい、再び胃液がこみあげてくるが、今度は必死に抑え込む。


「ゥップ……。こんな状況でコンビニに行けば、習慣からあゲロくんってあだ名が定着するのは確実じゃないか。近場のコンビニが利用できなくなるほど最悪なことはないっての。そうなるリスクを負うくらいなら、今日は週刊誌と夜食はあきらめて帰――」


 ドンッ! と衝撃音が響く。

 音の出所は見通しが悪くて見えない。しかし、加速して反対車線へと飛び出したトラックが元凶だと鈍い郁広でもすぐ気づく。

 同時に、先ほどの衝撃音が緑色のバイクで再現される瞬間ところでもあった。

 火花を上げながらアスファルトを滑っていくバイクが街路樹へと衝突し、ワンテンポ遅れて背中から本来曲がらない向きで防護柵に受け止められた女性。


(あー、あれはもうだめだな……。別にこんな状態を目に焼き付けたかった訳じゃなかったのに)


 突然の出来事で脳の処理が追かず、いやに冷静な思考で鉄塊と肉塊を見つめてしまう。

 考え事をしている最中声を掛けられ、聞こえているのに聞こえていないような。

 眼鏡をかけているにもかかわらず眼鏡を探してしまうような。

 そんな感覚で女性を弔うため手を合わせて目をつぶる。


 次の標的はお前だと言わんばかりに、まっすぐ郁広の元へとトラックが突っ込んでいるにもかかわらず。



 ▽  ▽  ▽



「はぁ!? 私歩行者なんですけどぉぉぉぉぉぉ!!!?!」


 耳をつんざく女性の絶叫が木霊する。

 現実を受け入れられず、感情を吐き出すことで精神の均等を保とうとする、かつての母のような絶叫だった。


「だからって車道でフラフラすんなや。もう一度ひき殺したろかこのダボが!」

(ひき殺す……)


 女性の絶叫と違って恫喝の為に声を荒げる男性の大声。

 ここで側頭部への圧迫感はもちろん、怒声が直接鼓膜を震わしたことからヘルメットをしていないと王隠堂翼(おういんどう つばさ)が気づく。

 続いて半身で受ける重力と平衡感覚から、側臥位で横になっているのだと理解する。

 そして残念なことに、男女はすぐ近くで口論しているらしい。


 巻き込まれないためにも双方の気持ちが落ち着くのを待つべきなのだが、なおも続く言い争いは話がかみ合っておらず終わる気配を見せない。

 下手すれば小一時間は続くであろう状況下で微動せずにいることは困難であり、時間の無駄を嫌う翼にとってこれほど我慢ならない過ごし方はない。


 現状を打破するためにも言い争うふたりの風貌を確認しようと、どのような行動をと取るべきかの判断を下すために薄っすら瞼を開く。

 瞳は口論をする人物より先に景色を映す。

 嫌な記憶と結びつく白。

 最期まで意識が戻ることなく亡くなった姉を連想する白い空間。


 頭上も側面も足元も、白と認識してもだまし絵のように配色が変化する不可思議な場所。

 最奥は地平線のように遠く見えるが、病院の一室のように狭くも感じる。


 目的を忘れて変化に見入っていた翼だが、意識が途切れる直前の出来事――姉と同じ事故に遭ったことを思い出して飛び起きる。


 いつの日だったか。

 真夏のツーリングでトンネルから出た際、瞳孔の調整が追い付かずホワイトホール現象に遭遇したように眼を強く閉じ。

 スマホを紛失した際、バイクウェアの彼方此方にあるポケットをまさぐるように、身体の欠損が無いかを触診していく。


(大事にはなっていないようね。こっちが注意してても避けようがない事故もあるって覚悟はしていたけれど、トラックが正面から突っ込んできて生きてるなんて奇跡かもしれない。もがき苦しむことなく、眠りながら逝けたお姉ちゃんは幸せだったのかもしれないな)


 奇跡的に五体満足でいられたことに胸をなでおろすと同時に、突き刺さる視線に小さく「しまった」と声を漏らす。


「なんやなんや。さっきからフワフワ浮いとった火の玉が女に変わったやんけ。お前はなんなんや」

「あなたがここに閉じ込めたの?! さっさとここから出して!」


 明るさに慣れた瞳には、いかにもトラックの運転手といった格好をした背の低い薄毛の老人と、疲労困憊といった様子で目の下にクマを見せるスーツ姿の女性。そして、フワフワと浮かぶひとつの火の玉。

 軽く周囲を見回すが出入口なき空間に捕らわれているらしく、ここが事故現場や病院でないことは確かだろう。


「えっと、私は王隠堂翼です。トラックと衝突して意識を失ってましたので、あなたと同じく私もここに閉じ込められたようです。あなたたちもここがどこなのかわからないのですか?」

「なんや俺と衝突したバイク乗りか。言っとくけど俺も被害者やからな。車道で蹲ってた酔っ払いがおらんかったらこんなことにならんかったんやから」

「かもしれない運転してない車が悪いって知らないの!? 歩行者は法律によって保護されてるんだから車が絶対悪いに決まってるじゃない!!」

「まだいうか! そらこっちにも過失はあるけどお前にも過失はあるんやぞ!!」

「なんなのなんなのなんなのよもう!! 交通弱者である歩行者優先って――」


 ここがどういった場所なのか。どうすれば脱出できるのかを模索するべきにもかかわらず、口論が再熱してしまったことに翼はため息をつく。

 今は協力するべきだと割って入ろうとして、硬直する。

 なぜなら、視界の隅で浮いていた火の玉が強く発光したと思えば、男性の姿へと変化したからだ。

 先ほど己に起こっていただろう現象を間近で見た翼は驚き、一度体験したふたりは火の玉から変化した上下スウェットの男を静かに見つめていた。


(信号間近で走って転倒した人だ。いやいや、そんなことより私もこんな感じで火の玉から変わったの? この空間といいありえない現象といい、死後の世界だとでもいうの?)


 目の前の現象に驚愕する中、頭上から声が降り注ぐ。 


『ようやく皆さん目を覚まされたようですので、まずは一番知りたいであろう疑問に答えさせていただきます。お悔やみ申し上げます、残念ながら皆様は死亡してしまいました』


 唐突に現れて心の底から哀悼の意を示したのは、真っ白なスーツといびつな仮面をつけた長身痩躯の男。

 透明な足場でもあるのか、三人の頭より少し高い位置で浮かんだように静止している。

 先の一言と重力を無視した不可思議な現象。

 おそらく意図的に仮面の男へと意識を向けさせるためにつくられた状況。そう気づいていようとも、翼も思惑通りに仮面の男から視線を話すことができない。


『本来であれば一人を犠牲にしてもう一人を異界へと転移させていただくのですが、強い因果を持つ霊魂の影響で無関係の方まで巻き込んでしまったようです。誠に申し訳ございません』

「死ななくてもいいのに死んじゃったの?! そんな謝罪で済ませていいほど人の命は軽くないのよ! 今すぐ私だけでも蘇らせて死んで詫びなさいよ!!」


 お手本のような最敬礼で謝意を示す仮面の男へとスーツの女性が罵倒を飛ばす。

 そのままスーツの女性は膝を付いて泣き崩れ、トラックの運転手は眉間にしわを寄せ、スウェットの男は肩を揺らしてそれぞれが胸の内を表す。

 唯一翼だけが表情を変えず、仮面の男の言葉をまっすぐ受け止めていた。


『流石のわたくしも死者を蘇らせる魔法は持ち合わせておりません。ですがお詫びの気持ちも込めてお二人だけ、異界で新たな人生と望む力を差し上げたいと考えております」

「そもそもお前は何なんや。てかそんなこと可能なんか。轢き殺して街路樹に衝突してもうた身とはいえ、ブイブイ言わせてた若い頃並に可愛い子をはべらせてくれるんやったら文句ないけど、そんな漫画みたいなこと本当に可能なんか」


 誰よりも早く新たな人生の席を確保するために、必死になって早口でまくしたてるのだから、流石職業運転手というべきだろうか。

 そんな問いかけに仮面の男は指を鳴らして答える。

 答えになっていない返答に翼は首をかしげるが、トラックの運転手が突如己の股間に触れて感嘆の声を漏らし、スウェットの男も肩を震わせたまま両手を強く握り締めて喜ぶ。


 もちろん、どこからか取り出した手鏡を覗き込むスーツの女性も。


「ちょっとまって、クマが消えて肌の艶もすごいんだけど!」

(いったい何が起こっているの……?)


 一人だけ感じる疎外感。

 サークル仲間達と彼氏の話になった際、翼には縁のない話で盛り上がっている時の居心地の悪さ。

 ただ、女性の目のクマが消えたのに合わせて肌が若返ったことと、運転手の発言と行動から何が起きたのかは大体想像がつく。


『あくまでかみに近しい存在といいますか、異界の管理を任されている者でございます。わたくしの裁量一つであなた方に望む力を付与できることを証明させていただきました』

「間違って殺されたんだからお礼は言わないけど、若返らせてくれたことでその件は許してあげる。さっさと私の人生を返しなさい。再びつまらない死に方なんてさせたら許さないんだから!」

「ほんま自分勝手やなお前。まずは年長者である俺がその権利を受け取るべきやのに」

「女性ファーストでしょ? そんなだからその歳まで独身なのよ。大体――」


 飽きずに繰り広げられる夫婦漫才に仮面の男も両肩をすくめてしまう。


(怪しい男の甘美な言葉とは言え、望むモノを体感してしまえばこうなるのも当然ね。けれどこうも生への執着を見せられると……)


 後になって悔むからこそ後悔。

 そこに死が混ざり合うことで未練となり、欲望と縺れることで醜悪さを増す。

 ただ、それは仕方ないことだと翼は自嘲気味に哂う。

 変わるきっかけがなければ己も向こう側だと判っているからこその自嘲。


 姉の死を乗り越えるために取った翼の行動が二輪免許の習得。

 親の反対を押し切ってバイクに乗った姉と同じ景色を知りたくて、親から絶縁されるのもかまわずバイクに跨った。

 それまでインドア趣味だった翼だが、週末は必ず外出するようになっただけでなく、死を身近に感じたことで悔いの残らない生活を送るようになったのだ。


(もっとお姉ちゃんと話しておけばよかった)


 昔は姉と他愛無い話をしていた。

 それがいつからだったろうか。

 様々な才能を持ち合わさていた姉を誇りに思っていた母や、同級生からの「翼も素晴らしい才能を持っている」という期待が重く。

 いくら努力しようとも姉のように上手くできず、仕舞には慰めの言葉をかけられるたびに劣等感は増す一方。

 次第に期待されないようにワザと手を抜くようになった翼と、そんな妹に気を使って必要以上に接することをやめた姉。


(ちっぽけなプライドでお姉ちゃんに嫌がらせしていただけだって今ならわかる)


 微妙な距離感になろうとも実家暮らしである以上、顔を合わせてしまう訳で。

 週末や連休にツーリングへと出かける姉の土産話が狭い我が家では、翼の耳に自然と入ってくる。

 母に話しているようで妹に聞かせていたのか。

 仲直りするきっかけを探っていると勘違いした己を恥じながらも、いつも自室で楽しく話す姉の声に耳を傾けていた。

 残念ながら姉妹でのお土産センスは共通していなかったが、ツーリング先での話は違ったらしい。


 いつか姉が話していた北海道ソロツーリングを企て、内定が決まって卒業まで半年を切ったこの夏に決行しようとしていた。

 一週間前にこんなことになってしまったのは残念でならないが、憧れのまま終わるのも悪くないという気持ちがもある。


 姉が何を見たかったのか。

 本人以外決して知りえぬモノに、翼なりに答えを出してしまうのが怖かったのだ。

 姉を追いかけるのに夢中で、いつか追い越す日が来るのを恐れていたこともあってか、死ぬことにどこか安堵していたのかもしれない。


(一つだけ心残りがあるとすれば、お姉ちゃんに続いて私までお母さんより先に逝くことかな)


 絶縁されてから長い事母にはあっておらず、姉の死を乗り越えることができたのかは判らない。

 転んだだけで大怪我につながるし、ましてや女性だからこそ傷が残るのを危惧して反対していたのも十分理解していた。

 娘のことを第一に思っていたにもかかわらず、制止を振り切って姉と同じように亡くなったのは、残された母に対して胸が張り裂ける気持ちでいっぱいだった。


 だが、ここで死を無かったことにするのは姉を否定するような気がしたし、母の為に生き返ろうという考えもない。

 理屈や道理ではなく、翼は己の生きざまを貫くことを決めた。


「私は遠慮します。犠牲が必要なら私が犠牲になります。そうすれば他の人は異世界で生きていけるんですよね」


 その発言に一人は驚き、一人は蔑み、一人は申し訳なさそう眉を垂らす。

 その誰もがわずかに口角を上げて。


『おっしゃる通りですが……。わかりました、ならばあなたを犠牲にして他の方は異界の地へとお送りいたしましょう。あなたの霊魂はわたくしが無事、元の輪廻へと還しますのでご安心ください』


 決意を宿した瞳から何を言っても無駄だと察したのだろう。

 仮面の男が片手を前にかざせば、翼の全身が眩いほどの光に包まれながらゆっくりと霧散していく。


(もしお姉ちゃんと出会えたら、今までのことをしっかり謝りたいな。許してくれるのなら、これまで話したかったことを聞いてもらいたいし、お姉ちゃんの話もじっくり聞きたいなぁ)


 徐々に遠のく意識の中、翼は姉との再開を夢想して笑みをこぼす。

 周囲を照らしていた光は命の輝きだったのだろうか。

 身体が粒子となって消えることで光は弱まり、数秒にも満たない命の輝きはやがて空間へと混じるように消えてしまった。


 王隠堂翼は死を受け入れ、元の世界の輪廻へと還ったのである。



 ▽  ▽  ▽



 勉学に捧げた青春時代が実り、中田美玖(なかた みく)は憧れの職業へと就くことができた。理想を実現したことで己も羨望の眼差しを受け、バラ色の人生を歩むものだと思っていたのだ。

 だが、憧れは所詮憧れ。

 かつての記憶にある彼女達が、いかに消費者の懐を緩めるかを画策した結果。

 ノルマ達成のための仮初の姿を演じていただけで、悪く言ってしまえばご機嫌取りをすることで一つでも多く売り、少しでも収入を増やすための努力の賜物だなんて誰が想像できようか。


 それだけならまだしも。

 社内では日夜、派閥抗争とマウント合戦で人間関係は最悪を極め、心の休まる時間なんてひと時もなかった。

 ほかにも残業やセクハラで心がささくれ、ストレスの影響で一回りも老けた顔を鏡で見るたび涙が込み上げてしまう。

 いくら年収が高かろうとも、若さを犠牲にして受け取る額としてとても釣り合っていない。


 それでも辞めずに続けれたのは、荒んだ心を癒してくれた理想的な彼氏の存在が大きかった。

 美玖の残業と彼の勤務体系で共に過ごす時間は短くとも、彼と一緒に住む空間にいるだけでどんな苦悩も翌日の糧へとできたから。

 しかし、珍しく定時上がりで手料理を馳走しようと帰宅したある日。

 泥棒猫と繰り広げる情緒は美玖の記憶にある淡白なモノではなく、己に対する愛は現金自動預け払い機に向けるそれでしかなかったのだと気づかされる。


 彼に関する思い出の一切を排除したタワーマンションの一室。

 心の拠り所を失ったことで、職務を果たす意味も見いだせず。

 東京を離れて実家へと帰り。

 一日中酒におぼれる日々。

 今日も今日とて意識を失うまで酒を飲み。

 迎え酒のため空き瓶を掻き分け。

 しぶしぶ買い足しへと向かった深夜のコンビニ。

 帰路の反対側の公園でしゃれ込もうとした星見酒。

 そんな道半ばで死ぬなんて誰が想像できようか。


(事故に巻き込まれたのも不愉快だけれど何より許せないのがあのチンチクリンよ! 私の言うことに訳の分からない反論なんかして! 私より収入も身長も学歴も低いくせに!)


 トラックに轢かれたことは置いておくとしても、運転手に対しては今なお怒りが収まらずにいる。ただ、そこにさえ目をつむれば死んだことは何も悪い事ばかりでない。

 若返って新たな人生を歩めるという事はつまり、もう一度青春時代をやり直せるのと同義。

 勉学に時間を割くあまりおしゃれとは無縁の青春時代を送ってしまったが、就職した当時は社内でもトップスリーに入る美人と持て囃され、己の美貌が上位に属することを知った状態で若返れるのだ。


(なら今度こそ私の知能と美貌で、周りを利用して最高の人生にしてやるんだから!)


 野心が口元に出ていることに気づき、美玖は慌てて口元を手で覆う。

 男共を見やれば仮面の男へと顔を向けており、美玖の醜悪な笑みを見られた気配はない。


『どうやら御三方の願いからして、話し合いの必要がなさそうで安心しました。そちらの方は転生や転移、魔法や魔物を御存じの様子ですので、残りのお二方と一緒に説明を聞く必要もございません。すぐにでも転移することが可能ですがいかがいたしましょう』

「そうしてくれると正直助かる」

『では、転移した先の術者から話を聞かされると思いますので、乗るも反るもあなたの好きなようにしていただいて構いません』


 許可を得たことで仮面の男が指を鳴らす。すると、景色に溶け込むようにスウェットの男がかき消えていく。

 美玖はもちろん、トラックの運転手も仮面の男の言葉を疑っていた訳ではないが、ようやく実感した異界への期待感から小刻みに体が震えだす。

 

『それでは説明に移らせていただきましょうか。転生という形であなた方の霊魂を新たな肉体へと移し、人以外の種族にすることで望みを叶えさせていただきます。異界には魔物や魔法というものが存在しまして――』


 仮面の男が話す要点を記憶しながら、美玖は異界での第二の人生プランを組み立てる。

 望みを叶えるには望む力を発揮するのに適した形――種族へと転生するのが霊魂への負担が少ないという。

 今の姿で異界へ転生すると霊魂が摩耗して精神が死亡する可能性が高いため、転生先で新たな肉体を用意する必要が出てくるらしい。

 また、適した肉体を得ることで、身体能力や望みに準じる種族特性を十二分に発揮することが可能なのだとか。


(要するに剣や魔法が出てくる低俗な娯楽の世界観ってことでしょ)


 転移に関しては転生と微妙に違うという事も聞かされた。

 先ほどのスウェットの男は召喚魔法で呼び出されて転移するらしく、損傷した箇所や部位は魔素で補完されるのに合わせて、異界に対応した肉体になるという。

 転移する者が世界を救うために召喚されたのに対して、今回転生する二人は不慮の事故によるお詫び。お詫びで新たな人生の保証はすれども、転移した後は別ということらしい。

 人と同じゲスト待遇を受けるか、労働するかの選択はして欲しいという。


 そんなこんなで説明が終わり、傾聴者の緊張が緩んだのに合わせてスーツを正しながら、仮面の男は転生する二人の選択を待つ。


「働くなんて真っ平御免よ。そっちのミスで死んだんだからしっかりもてなすべきでしょ」

「受けに回るのは泡姫だけで十分やし、生きてくうえで汗かいた後の一杯は外せんやろ。せやけど近場に可愛娘ちゃんが多い場所でもないと、俺の望みとはかけ離れてまうけどその辺は大丈夫なんか?」

『ご希望に添える場所を一つ保有しております。そちらでしたら労働兼住居となりますし、何より近くには女子供が多数存在しておりますのでご安心を』

「ほんならかまへん。頼むわ」

『それでは一度労働兼住居へと移動した後、わたくしの住居へとゲスト待遇でお招きさせていただきますので、今しばらくお付き合い願います」


 今でこそ無職だが、仕事に人生を捧げていたかつての美玖にとって一張羅となるスーツ。

 休日であろうと取引先はもちろん。同僚や先輩、太客から声がかかることが多い美玖にとって私服なんて無縁の物。

 故に、スーツは必需品として月給以上の投資をしていおり、鍛えられた目利きから見ても、仮面の男のスーツは息をのむほどの代物。

 不気味で怪しさ満点なのを除けば、丁重な言葉遣いと優雅な仕草。そこから美玖はそれなりの身分の者か、はたまた前者に仕える執事だと推測した。


 舞踏会での見世物か、仮面の男が姿勢を戻すと綺麗にスラップを決める。

 虚空を踏み鳴らしたはずが、床を叩いたような小気味よい音が美玖の耳に届く。


 見た目は完全な不審者とはいえ、こうも高貴な雰囲気を漂わす者からおもてなしを受けるのだ。

 さぞ贅沢な暮らしが待ち受けているだろうと美玖が哄笑する。

 真っ白な空間の中に響く甲高い音色をかき消すように風が吹く。

 やがて勢いを増してつむじ風となれば、三人をそれぞれ緑、赤、黒の光が包む。


 トラックの運転手は緑色のつむじ風が己を取り囲んでいることより、突如笑い出した美玖から距離をとるように数歩後ずさっていた。

 そんな光景には目もくれず。勝ち組の人生に胸を躍らせた美玖は、赤いつむじ風に包まれながら転生したのである。





 

 暗転した視界。

 中田美玖本来の肉体から何かが失われ、別の何かを満たしていく感覚。

 言葉では言い表せない不可思議な余韻に浸りたかったが、閉所で反響する己の哄笑が思いのほかうるさくて口を閉じ、ひとつ深呼吸をはさむ。

 口角がわずかに上がっていることから、高ぶりを完全に静めることは難しいらしく、制御することを諦めて表情はそのままで唾をのみ、唇を舐める。


(私の体から別の体へと霊魂が移った感覚……。あえて例えるなら、さしずめサイホンの原理ってところかしら。それにしても汚い場所っ!)


 剥き出しの岩肌。

 崩落を防ぐ坑木。

 洞窟のように暗闇に支配された狭い道。


 人の通り道として敷かれたであろう枕木は、岩肌から滴る水滴で腐っている。その脇には濡れて輝きを放つ鉱石が採取されず、あちこちの岩肌から顔を覗かしていた。

 他にも錆びた金槌や鏨が捨てられていることから、長年、人が活動していない場所なのだと想像がつく。

 にもかかわらず、アンティーク調のランタンが暗所を灯しており、少し不気味さを覚えてしまう。


(不気味といえば、脇道に隠れているあの醜い緑色の子供は何?)


 ランタンの灯りでちょうど影となる位置に掘られた横穴。

 そこには醜い子供が潜むように美玖の様子を窺っている。

 狭い道とはいえ、突当りまでの全域を一斉に視認してみれば同じ横穴が複数見受けられ、似たような醜怪が錆びた道具を握って隠れているつもりなのは滑稽でしかない。


(……?)


 ふと覚える違和感。

 なぜ、灯りが届かない暗所を視認できるのか。

 なぜ、数百メートル以上先まで子細に認識できるのか。

 他にも重力に逆らう軽い浮遊感はどういうことか。


 異変を確認するため首を下げれば転生したはずなのに、着用しているのは気を聞かせたのか着慣れたスーツ。

 だがそれ以外は依然と比較にならない。手や胸元は化粧や若さでは説明がつかない美をまとい、青い血管が白い肌の上を淫靡に這っているではないか。

 以前ならコンプレックスでしかなかった八重歯が鋭く尖り、それが外気に晒されていることで、えも知れぬ自己肯定感が湧いて出る。


 全能感で再び高揚してしまったことを誤魔化すため、一度、背中から生えた蝙蝠の翼を羽ばたかせて目を細めた。


「あぁ、美しい見た目と赤子のような瑞々しい肌。のどの渇きは余計だけれど、私の望みに適した種族が吸血鬼ということなのね」

『その通りでございます。そしてこの場所はわたくしが彼の望みに最もふさわしいと思い、ご案内させていただく廃鉱山でございます。

 せっかく彼の新居を紹介するのですから、あなたにも異界を存分に知っていただこうと、入り口付近へと転移させていただきました』


 ここがトラック運転手の労働兼住居となるという。

 トラックの運転手が炭鉱夫へと転職したのだ。

 上級国民の仲間入りを果たした美玖としても鬱憤を晴らす格好のネタ。

 底辺から最底辺まで落ちたトラックの運転手、もとい炭鉱夫を嘲笑ってやろうと後ろへ振り返る。


「ざまぁないわね! 底辺どころか地下にまで潜って勤しむなんてあなたにお似合いのヒェッ?!」


 罵倒を向けた先に元トラック運転手の姿はなく、横穴に潜む醜怪な子供をさらに巨大に、より醜さを増した三メートルはあろうかという緑色の化物が美玖を見下ろしていた。


「な、なんなのよコイツぅ……」

『ゴブリンロードというゴブリンの最上位種族でございます。彼の望み通り、並外れた繁殖力を有しておりますが、知能に多少の遅れがあるのが難点ですかね』

「オマエは女、オレのノノゾミが叶ウった。ノゾゾみ? のゾゾみ叶ウった」

「ひぃっ?!」


 メスへと存在感を誇示しているのか。滾った一升瓶ほどのナニかが、腰布を盛り上げていることに血の気が引く。

 醜悪な顔をさらに醜く歪ませ、伸ばされた丸太のような腕。

 これから何が起こるかを察した美玖が、全身を蝙蝠へと分裂させたのは本能からだった。

 吸血鬼という種族に何ができるかを知らずとも、呼吸をするのと同じく無意識にとった行動


 巨躯に背中を見せて一目散に逃奔すれば、待ち受けていた幾体もの矮躯が金槌を振り回す。

 墜落していく蝙蝠が煙と共に消失していくのを気にもかけず、ただがむしゃらに廃鉱山の最奥へと下っていく。


 ただひたすら、道なりに。

 人では体験できない数多の視界に激しい頭痛を覚えるも、追ってくる欲望から逃れるため必死に逃げる。

 袋小路になることなく一本道が続いていたのもそうだが、狭い坑道と同じくらいの巨躯の影響もあってか、全力で追ってこれないのが幸いした。

 時折躓いたり、曲がり切れずに衝突する音が聞こえ、足音が徐々に小さくなっていたのだから。


(のどが、酷くのどが渇く……)


 蝙蝠が減少するたびに増す喉の渇き。

 天井を這うように敵を見下ろしながら逃げれば、横穴から悔しそうに金槌を握り締める矮躯の姿が見える。

 浮いて移動する小さな標的を狙うのは困難を極めるだろう。

 そんな中でも冷静だったのが知能の高い個体なのか、得物を投擲してきたことで焦りはしたが、命中したのも混乱していた最初の数度だけ。

 おかげで廃鉱山の坑道を鑑賞しながら逃げる心の余裕もでき始めた。


 そんな視界の遥か先には坑道の終わり。

 巨大な空間へと繋がる入り口が見える。

 分身でもある蝙蝠を羽休めさせる為、今や数十匹まで減ってしまった分身を天井へと集め、どのような行動をとるべきかを思考する。


(廃鉱山って言っていたからあそこが採掘場所かしら? まさか出入口がここだけなんてバカな話ないと思うのだけれど……。もしそうだとしたら、あの気持ち悪いゴブリンの血を吸いながら生きていかないといけないの? そんなの絶対に嫌よ!!)

『人と同じ待遇をお望みの御方に、そのようなつまらない人生を歩ませるつもりはございません』


 進むことを躊躇っていた先から、仮面の男の声が反響してきた。

 続いてはるか後方。

 音響に呼応するように巨躯が地鳴りを起こし、もはや進むしか選択肢はないと腹をくくる。


 羽音と共に侵入した空洞内は思いのほか大きい。

 地面へと集まるように分身たちに指令を出す美玖。

 それらが溶けて液体へと変わり、人の形を取ったかと思えば、再びパリッと決まったスーツ姿へと戻る。


(学校の体育館。いえ、全容が見えないからそれ以上かしら? よくもまぁこんなに掘り散らかしたものね)


 何も考えずこのような掘り方をしてしまえば、見識が無くとも倒壊の危険が頭をよぎってしまう。

 ただ、幾何学模様の柱が天井へと真っすぐ伸び、天井には彼方此方で魔法陣が存在を誇示する様に発光している。

 それが何かわからずとも、魔法の説明を受けた美玖でも、これらが安全を確保しているのだと直感で分かった。


 まさに伝統工芸に通じる芸術。

 逃げている最中だということも忘れてただただ魅入ってしまう。


『魔法、厳密には落盤や爆発の防止、空気を転入させる魔法やその他もろもろを組み込んだ魔法陣です。わたくしもまさか人がこのような美しい魔法陣を作り上げるとは思っておらず、お気に入りのひとつとして保有している場所でございます』


 仮面の男が空洞の中央らしき場所で、革靴の底を地と面して立っていた。

 隅の方では彼から隠れるように、矮躯が頭を垂れて跪いている。

 まさか空洞内にも矮躯がいるとは思っておらず、腰が引けてしまった美玖だが、採掘場所に住処をつくるのは当然だと冷静さを取り戻す。

 頭を垂れて襲ってくる気配も無いことから視線だけ動かすと、出口に続くかもしれない複数の坑道を発見して愁眉を開く。


「早く私をあなたの屋敷へ連れて行ってちょうだい! あんな化物がいたらおちおち眠れもしないじゃないの!!」

『そうでした。しかし、屋敷へとお招きする前に随分お疲れのご様子。あちらではさまざまな実験に協力していただきたいので、今のうちに生命力を回復しておきましょうか。ゴブリンを吸血するのは嫌とのことですので、淫魔(サキュバス)と同じやり方はいかがでしょう。多少効率は落ちますが、彼の無尽蔵な欲望でしたらそう時間はかからないはずですので』

「はぁ?」


 気の抜けた声で聞き返した美玖に仮面の音が指を鳴らす。

 そのやりとりに既視感を覚えながらも、仮面の男は行動を移す気配を見せない。


「もういいわ、あなたに連れて行ってもらうより私が動いた方が早いから」


 そう言い放つと出口へと繋がっていてそうな坑道を探す。

 暗所はもちろん。視界を遮られない限りすべてを見通す吸血鬼の眼。

 岩陰からわずかに顔を出していた木造小屋を見つけるのは容易く、すぐ近くにある何の変哲もない穴に当たりをつける。

 決して快適とはいえない過酷な採掘場にて、木造小屋以外の人工物は見当たらないとなれば、炭鉱夫の資材や道具置き場、もしくは休息場を連想するのは必然であり、出入り口付近に建造するのは理にかなっているといえよう。


 魔の手から逃れるだけでなく、ようやく新たな人生が始まる。

 一刻も早く巨躯から逃げたいという精神状態から、推測はすぐに「外に繋がっているだろう」と己に言い聞かす断定へと変わり、気持ちがはやってしまうのも仕方ない。

 そのおかげか、躓いた美玖は受け身もとれずに顔面から着地してしまう。


「もう! なんなのよ!!」


 地面を叩くことで苛立ちを表す。

 しかし、覚えた違和感に拳を見やれば腕から先は無く、切断された断面を茫然と見つめて思考が白く染まる。

 本来なら絶叫が木霊するにもかかわらず、耐えられない空腹感から真っ赤な液体に心奪われ、血溜まりへと舌を伸ばす。


「ゴフッ。へぇぁ? っあぁ、あぁあああああぁあぁぁぁ!!」


 五感が機能を取り戻したことで強烈な鉄の匂いにむせ返り、激痛で涙をこぼしながら転がり喚く。

 耐えきれない痛みを誤魔化すため、思いつく限りの呪詛を叫ぶ。

 そんな美玖の声に反応した存在がひとり。芋虫のようにのたうつ美玖に濁声で耳障りな、紳士とは程遠い声がかけられる。


「オレをマつスナオなオンナ。ニゲないジュンジュンでオトコをシラナイオンナはスキ。セマクてクラいこのサビレタバしょで、エンエン……エイエンにコドモウマセてヤル」


 仮面の男と元カレを貶していたことから、経験が無いと判断されたらしい。

 美玖が動けないことを理解している様子で、一歩ずつ恐怖を植え付けるように、足音を立てながら近づいてくる。


『そこまで長居をする気はございません。確かにここは寂びれた場所かもしれませんが、替わりにかつての労働者たちの村は色を変えて肥え、今や立派な遊廓街となっておりますので。好きな女性を好きなだけ攫い、非常に満足いく生活が送れるはずですので、そちらで辛抱していただけませんことでしょうか』


 化物が仮面の男をちらりと見るが何も言わず美玖へと視線を戻す。


「なんで! 私はゲストとしてこの世界に招かれたんでしょ!? なのにどうしてこんなひどい目に合わなきゃいけないの!!」

『人と同じ待遇を希望されましたので、ご要望通りの対応を取らせて頂いたのですよ』


 わざとらしい仕草で首をかしげる仮面の男に対して、血を失い青白くなっていた肌が怒りで赤く染まる。

 感情に任せて罵倒を飛ばす美玖。

 彼女にはらりと舞い落ちるぼろ布。

 直前まで人肌に触れていた生暖かさと、滑り気を帯びた触感に思わず肌が粟立つ。

 悪臭に鼻を曲げながら欠損した腕で払いのければ、眼前には化物の影で差す。

 払いのけたぼろ布が何なのかを理解した瞬間、美玖の顔がくしゃくしゃに歪む。


『安心してください。いくら体がバラバラになろうと聖女の血を浴びない限り吸血鬼は不死身です。まあ、血を吸わずに元の状態まで戻るには多大な時間を必要としますが、幸いにも彼の無尽蔵な欲望ならば、ひと月もかからず元の状態へと戻れることでしょう』

 

 ゴブリンロードは己が何者であったのかも忘れ、這いつくばる美玖の髪の毛を掴んで持ち上げる。

 もう片方の手で乱暴に胸部を揉みしだいているにもかかわらず、女体が安定しているのは、内股を持ち上げている一升瓶大のナニかのおかげだろう。


 新しい世界で永劫に続く地獄。

 死だけを夢見る中田美玖の新たな人生が始まった。



  ◇  ◇  ◇



 二十代ならまだやり直せるという先達の言葉。

 それはあくまで行動を起こした人間の無責任な成功論でしかなく、受動的な郁広にとって年齢は一切関係ないし、レールから外れただけで取り返しがつかないのだ。


「そうしてくれると正直助かる」


 しかし今、自らを奮い立たせるきっかけがやってきた。

 浮きも沈みもしない平坦な毎日から、受動的な人間が変われるかもしれないきっかけが。


『では、転移した先の術者から話を聞かされると思いますので、乗るも反るもあなたの好きなようにしていただいて構いません』


 異世界でなら変われるという謎の自信。

 真っ白なスーツを着た歪な仮面の男が指を鳴らす。

 すると、郁広の全身が淡く光りながら周囲へと溶け込むように消え、こことは別の場所と目前の景色が瞳へと重なって映る。


 こことは違う。今まさにここへと変わっていく場所の足元で淡く光る魔法陣。

 暗転した場所で警戒を強めれば、ローブを着た六人の人影が郁広を取り押さえようと手を伸ばして取り囲んでいた。

 魔法陣の光りでわずかに照らされたフードの内から覗く、それぞれの整った顔立ちから例外なく飛ばされる鋭い殺気に、郁広は思わず身を震わす。


(違うな、魔法陣に手を伸ばしてるのか? 彼らが魔法陣を制御している術者とやらかもしれない。ならアイツがリーダーか?)


 その中で一人。

 郁広があたりをつけたのは魔法陣の中へと足を踏み入てきた黒のローブを羽織る老齢。

 腰を曲げてふらふらと歩く弱弱しい老人にしか見えないが、なぜか圧倒的な力量差を感じてしまう。

 魔法陣の光が弱まったことで視界が闇に飲まれ、暗闇からしゃがれ声が問うてきた。


「主は他人の為に命を擲つことを良しとするか」

「……命を投げ擲つまではできないな。それでも俺ができる範囲ならば手を貸すかもしれない」

「ふむ、ならばこの世界の為に手を貸してくれ、と言ったらどうする」

「来て間もない現状では応えかねる。ただ、一人でやれと言われない限りは手伝いたいと思う」

「ふむふむ。魔法陣が反応しないことから嘘は言っておらんが、ここは聖女様の判断に委ねるとしようかのぅ」


 壁に吊るされた蝋燭が暗所を灯す。

 広さはこの人数でも広すぎず狭すぎず、例えるなら学校の教室ほど。

 そして、黒板を背にするような形で机の最前列辺りに郁広が立っており、首を下げれば魔法陣の紋様が微かに光っていた。

 喉元に熱が走る。


「いってぇ!?」

「チッ、急に動くな馬鹿者」


 郁広の耳元からぼそりと、冷たい声音で毒を吐く女性の声。

 背後を取っていた女性が郁広の喉元を搔っ切ろうと、突き立てていた剣が食い込んだらしい。

 そんな情けない声に老齢が吹き出し、張本人である金属の鎧と兜で身を護る女性は謝罪もせず、面倒くさそうに剣を鞘へと納め、扉付近で立つ褐色の少女の元へと歩き出す。


「爺がそう言うのなら服従の魔法と、思考や性格を上書きする必要はないと判断します。それより従者が申し訳ありません。傷を癒しますので少し待ってください」


 年端もいかない少女――老齢が言った聖女が郁広へと歩み寄りながら己の指を針で突っつく。

 絹のような肌に創られた綺麗な血の玉。

 それを郁広の傷口へと伸ばされたのだから、反射的に躱してしまっても仕方ないだろう。


「なぜ避ける馬鹿者」

「え、何型かわからない血液だから溶血したらヤダなぁって。それにさっき物騒な発げ」

「聖女様の血には人を癒し、魔物を浄化する力が宿っておる。じゃからその傷も即座に治るという訳じゃ」

「聖女としての加護を授かったのも、大悪魔復活を予見した神からの啓示。私の血にはあらゆる奇跡の力が宿っているので心配はいりません」


 多勢に無勢という訳ではないが、女性からの善意を拒み続ける勇気もなく、意識が霞みだしたことで素直に提案を受け入れる。

 五人の術者達は老齢の背後から鋭い眼光を飛ばし、彼らと聖女様の間には、いつでも斬りつけれるように剣を握る従者の殺気。

 強い気に気圧されながら、癒すことに精一杯な聖女様の無垢な姿だけが心の拠り所といえよう。


 そんな邪な思考を読み取ったのか、魔法陣からかすかに桃色の光りが浮かぶ。


「何を考えている馬鹿者。その首を叩き斬ってやろうか」

「……すみません」

「さてさて、大魔王討伐の前に、この世界の事がわからぬとお主も動きづらかろう。ここは儂が――」


 傷も癒え、場の空気を持たせようと老齢が語りだす。

 もともとおしゃべりな性格なのか、口が軽いだけなのか。

 大雑把だが王国の歴史や情勢。王国近衛騎士団、魔法研究会、教会などの成り立ち。

 それらが持ちつ持たれつしており、大魔王討伐隊という名目で各組織からそれぞれ一名。郁広はもちろん、他組織への牽制という意味合いで旅をするらしい。

 そして、従者と思っていた鎧女は王国近衛騎士団の者であり、同じ女性としてまだ幼い聖女の身の回りの世話も任されたという。


「なら王様との謁見はないのか。そんな大事なこと王命無しで行動して大丈夫なのか?」

「馬鹿か貴様。異界から召喚された身分もわからぬ者に合う訳ないだろ馬鹿者」

「その辺は儂と聖女様に一任されておる。とはいえ、老い先短い老人の戯言として、儂は聖女様に提言するのみ。年齢序列がどうじゃと若者を差し置いてしゃしゃる気はないのでのぅ」

「転移したことであなたも魔法が使えるようになっているはずです。魔法の扱い方は爺から、剣での戦い方は従者が指導します。弱い魔物で慣らしながらの旅路となりますので、ひとまずあなたの装備を整えようと思いますが、大丈夫ですか?」


 転生した異世界での冒険譚。

 新たな人生と新たな仲間達。


(やってやるさ。この世界で俺は変わってやるとも)


 郁広の決意に応えるように魔法陣が強い光を放つ。

 その色が何を示すかを知っている様子で聖女と老齢が静かに、鎧女ですら茶化さずに郁広が動き出すのを待っている。


「大丈夫だ、問題ない」


 ・

 ・

 ・


 頭痛の中で見た懐かしい夢。

 郁広が変わるに至った始まりの出来事と仲間達。

 すっかり打ち解けた今では鎧女も迂曲した罵倒となり、切れを増したそれはかつて以上に郁広の心を抉ったり抉られなかったり。

 そんな余計な思考は頭を振ることで追い払い、朦朧とする意識の中、大理石の壁に叩きつけられていた体を起こす。

 支えとして手を付いた壁は老齢の魔法で煤にまみれ、足元には鎧女が斬り倒した石膏像が転がっている。

 あちこちにある激しい戦闘痕から、大悪魔との決戦中であることを思い出す。


「ああ、大悪魔に殴り飛ばされたのか……」


 たった一撃。

 何一つ本気を出していない大悪魔が殴っただけで、鎧に付与されていた魔法の効果は喪失していた。

 剣を構えたたままひしゃげた鎧を脱ぎ捨て、派手な音が荒れ果てた空間で反響する。

 そんな姿に気づいた大悪魔も命を奪おうと、とどめを刺すため握り拳を作り郁広を見据えて近づく。


(まさか前に進むことを選んだ俺が、今更過去のことを思い出すとはな)


 転生して間もない頃は弱い魔物ですら苦戦していたが、今や老齢や鎧女にも劣るとも勝らぬ名声を得た。

 神の奇跡を扱う聖女。

 天変地異すら扱う魔法使い。

 人の域を超えた騎士。

 そして、三人に匹敵する異界の魔法剣士という肩書と地位。

 過去の歴史においてこれほどの役者が揃ったことは無く、大悪魔討伐を期待する民衆たちの声や、英雄と並ぶ己に酔いしれてしまうのは仕方ないし、地位に見合った当然の権利だと言えよう。


 両親のことが気にならないと言えば嘘になるが、今更元の世界を心配して何になる。

 時折ホームシックになることもあったが、元の世界に戻ることが不可能である以上、ここでできた仲間達を大切にしていくしかないのだ。

 過去を振り返るよりも未来を向いて進む。と言えば聞こえはいいが、異世界でうまくいっているからこそ、かつての人生を思い出したくなかったというのが正直だったのかもしれない。


「なのにこの有様はなんだっ」


 四人の力をもってしてもまったく歯が立ず、唇を噛みしめて静かに憤ってしまう。

 今生きながらえているのも聖女様の心眼あってこそ。

 封印を恐れた大悪魔によって聖女様の視覚を奪われてしまったが、替わりに授かった心眼により、誰一人欠けることなく持ちこたえていた。


 かつての郁広ならば、聖女様の視覚を奪われた時点で、仲間を見捨てて逃げていただろう。

 だが、この世界では能動的な人生を送れたおかげか、こうして仲間の命のために一人残って大悪魔の足止めをしている。

 当然、四人がかりで勝てない相手に一人で勝てる手段などない。

 だが。

 時間さえ稼げれば、聖女様が大悪魔を封印することができる。

 討伐はできずとも、人類が滅びるという最悪の結末は回避できるのだ。

 狙いに気づきながらも、大悪魔が一騎打ちを承諾したのは予想外だが、意外と負けず嫌いだったりプライドが高いのかもしれない。


(ま、その高慢さから敗北するのはラスボスらしいし何も間違っちゃいないし、物語上その方が自然だがな。何より仲間達に恩を返せるんだから願ったり叶ったりってもんさ)


 転移してから六年間。

 大悪魔の出現情報を元に現地へと足を運ぶも、郁広たちの気配を嗅ぎ取られては異空間へと逃げられ、聖女様が封印魔法で次元の狭間を塞いで回る毎日。

 老齢の話す様々な話に耳を傾け、聖女様の微笑みに元気を貰い、鎧女の罵倒や物理的な突っ込みに憤ったり笑ったり。

 長いようで短い旅も今ようやく終点へとたどり着いたのである。


 聖女様からの合図はまだ見られない。

 合図が来るまでに最低限の仕事を果たすため、近接戦に備えて疲労と傷を癒す回復魔法を使う。

 残りの魔力もいうほど残っておらず、激しい戦闘の最中、大きな魔法を放つ器用さを郁広は持ち合わせていない。

 ならばと、全ての魔力を突き出した両手に集中させる。

 老齢には及ばずとも、転移者の魔法なら好転するかもしれないという期待を込め、魔法を放つ。


 魔力が枯渇するまで練りこんだ火球は確かに大悪魔へと直撃したのだが、熱風と爆風が郁広の髪を撫でる中、炎に包まれた状態にもかかわらず歩みが止まらない。


『異界にて満足のいく人生を歩めたようで、わたくしとしましても非常に嬉しい限りです』


 無言で戦いに徹していた大悪魔の第一声。

 懐かしい夢を見たおかげもあっただろう。大悪魔の所作が記憶の中で線として繋がり、異界へと転生させた仮面の男の姿が脳裏に浮かぶ。


「お前かっ、お前だったのか! お前は何者なんだ!!」

『ふむ、もう一度自己紹介させていただきましょうか? わたくしは悪魔で、神に近しい存在であり、異界の管理を創造主から任された者。あなたがここに来た目的である大悪魔そのものです』


 自己紹介は終わりだと軽く振るわれた風圧だけで炎が沈静し、大悪魔が賞賛を浴びようと両手を広げて反応を待っていた。

 仮面をしていないことで気づけなかったが、言われてみれば似たようなスーツを着ている。

 記憶にある真っ白なスーツとすっかり様変わりしてしまっているが、赤と黒の斑模様を。

 郁広が殴り飛ばされた時の返り血が蒸発したのか、先ほどまでは無かった縦模様が追加されており、一張羅を仕上げるためだけにどれだけの人々が犠牲になったのかと歯を食いしばる。


「なぜこんな茶番を」

『植物の光合成が魔とすれば呼吸こそが人。創造主が御創りになられた異界の魔素調整こそが役目であり、負の感情を喰らうことで生きていくわたくしの個人的な、繊細な美味とファッションを楽しむためのちょっとした遊び心ですね』


 濃厚で醜悪な、悪を凝固した存在を殴り倒したい衝動に駆られる。

 実際、石膏像の頭を踏み砕いたことでワンテンポ遅れなければ会話で時間を、聖女様の準備が整うまでの時間稼ぎを忘れて殴りかかっていただろう。


「この結末もお前が用意した筋書きだっていうのか!」

『その通りではございますが、今回の犠牲者が他者の命を啜ってでも生きたいという方でなかったのは焦りました。おかげで急遽代替を用意することになったとはいえ、お二人はわたくしが想像した以上に素晴らしい働きをしてくださいました!』


 大悪魔が手を叩いて賞賛する姿など、郁広の眼には白々しく映ってしまう。

 災厄でしかない相手から賞賛されて喜ぶ者などいるはずがない。転生した二人がどのような結末を迎えていようが、碌でもない人生を送っていたことだけは容易に想像がつく。


『封印魔法が発動されれば表立った行動を控えるよう、過去に一度注意を受けた身。同じ失敗を繰り返さぬためにも、封印魔法を見届け次第、わたくしから人類への攻勢を仕掛けることはありませんのでご安心を』

「はんっ! 悪魔の言葉を信じろと?」

『事実ですので』


 大悪魔が指を鳴らせば首から上が存在しない、曇りガラスのように薄っすらと全身の鎧を透過させた騎士が出現する。

 脇に抱えた兜の中身は空洞で、首の断面から漂う何かが頭部を探すように禍々しく漂っていた。

 頭のない騎士という出で立ちから郁広の脳裏をよぎったとある魔物。


「デュラハンか」


 老齢から聞いたデュラハンの特徴としては、レイスと同じく実態を持たない不死系の魔物。

 言ってしまえば他者の頭部に寄生する魔物であり、同時に取り込んだ頭部が弱点になると郁広も記憶している。

 頭部以外は一切攻撃を受け付けないが、逆にそこさえ破壊してしまえば活動を停止し、再び頭部を探し求める霊体へと戻ってしまう。

 目撃証言が非常に少ないが魔物である以上、聖女様の加護で浄化できることに変わりない。


『その通りでございます。封印魔法はいわばフレンチのデセール。その時点でわたくしは活動を自粛することになりますが、最後の役目としてカフェ・プティフールをあなたに任せたいと思い、凝った演出をいろいろと準備させていただきました』

「活動を自粛? 準備だと?」


 嫌な汗が額をなぞる。

 封印魔法が効かないなんて言われても、普段の郁広なら戯言として鼻で笑い飛ばしていただろう。

 なのに先ほどから胸騒ぎが収まらずにいる。


(そうだ、今思えば引っかかることがいくつもある)


 心を読む大悪魔相手に心眼だけで互角に戦えるものだろうか。

 大悪魔自らが攻撃を仕掛けることは一度もなく、律儀に攻めてきた相手だけに拳を振るい、仲間も死なない程度の怪我を負うだけで済んでいたのもそうだ。

 傷を負わない大悪魔が、羽虫のように周囲を動き回る郁広たちを各個撃破しなかったのもおかしい。

 嫌な予感ほどよく当たるというが、己の考えを否定するため、声を荒げて大悪魔に自論を披露する。


「いいやそんなはずはない。現にお前は聖女様の視覚を奪った、あれこそ封印魔法を恐れている証拠だろ!」


 挑発も込めた、ねっとりとした笑みを浮かべる郁広。

 大悪魔の表情は変化を見せないまま、後ろ手を組んでから語り始める。


『まず善と悪が瓜二つの存在だということを記憶に留めておいてください。わたくしと違って役目を知らされずに善に勤しむ神が、人類の為に行動する神が、大悪魔と同一視されてしまったのですよ? 信仰に背いたのですから当然加護は剥奪されるモノ。ですが、自ら視覚を献上した聖女の潔さが大変素晴らしく、わたくしからの称賛として今この瞬間が存在しているわけでございます』


 信仰深い聖女様を思い出した大悪魔は一度深く頷き、悪魔的な邪悪な笑顔ではなく、心からの賞賛を含んだいい笑顔で郁広の自論へと返す。


『神も大悪魔との戦闘を考慮したのでしょう自らの過ちを認めた聖女の信仰に偽りなしと判断し、魔素や魔力はもちろん。霊魂すら見極める心眼を授けたのでしょうね』


 大悪魔の発言は郁広の耳に届こうとも、脳が何を言っているのか理解しようとしてくれない。

 聖女様の信仰する神が創造主によって創られた存在だというのなら、自作自演を暴いたにも等しい聖女様は完全に被害者でしかない。

 逆に仲間達に不安を感じさせないように立ちまわった聖女様こそ、慈愛に満ちた神にも勝る存在ではなかろうか。

 そんな聖女様から渡されたブレスレットが手首を強く締め付け、思わず声を漏らす。


「っ!」


 聖女様の準備が整った合図を受けて目をつぶり、反射的に顔の前で腕を交わらせる。


『もうそんな時間ですか。いいでしょう、今までのことが全て事実だと絶望していただきましょう』


 視界の全てが色を失い、白へと染まる。 


 数秒間にもわたる強い魔法による光。

 閃光自体は運が悪ければ失明する程度の力しかなく、本命は魔素や魔力へと干渉する微細な粒子。

 加護の粒子が郁広の体内にある魔力と結合することで、急速に減少していき、貧血にも似た感覚が襲う。

 魔力を枯渇させていたにもかかわらず、これほどの脱力感と喪失感を味わうのだ。魔素と魔力を多量に有する大悪魔などひとたまりもないだろう。


 しかし。


「そんな馬鹿な」


 郁広は二つの魔法陣を目にして開いた口がふさがらずにいる。

 聖女様からは事前に、防護魔法や魔法陣すらすり抜けて無へと返すと説明を受けていたはずの魔法陣。


『いやはや、異界の霊魂に比例して聖女の加護が強くなるとは言え、これほどの威力を体験したのはわたくしも初めてで驚かされました。ですがこの世に存在する全ての魔法は創造主の力を媒介にしたモノ。力の一端を授けられた上位存在であるわたくしには、残念ながら効かないという訳ですよ』

「そんな、ばかな……」

『もうすぐ仲間達も戻ってくるでしょうし、あなたには二つの選択肢から選んでいただきましょうか。仲間達と合流するまで何もせず、仲良く四人でわたくしに永劫の時の中で食事を提供し続けるか。己の命を犠牲にして、最後の敵として仲間たちの前に立ちはだかるのかを』


 馬鹿げているとしか言いようがない二択。

 郁広が己の命を惜しめば仲間と共に未来永劫苦しみ、郁広が生を諦めれば仲間は生き延びれるなんて、馬鹿げてると言わずして何ていう。


「馬鹿げている。ああ、本当に馬鹿げているとも」


 この状況下で万に一つ。いや、億兆に一つの可能性だと理解している。

 同時に仲間に手を出さないことも、大悪魔の活動を休止するというのも事実だと直感で分かる。

 負の感情を喰らう大悪魔にとって、デュラハンとなった仲間を浄化する聖女様の悲嘆は、蜜よりも甘い御馳走だろう。

 これを味わうために仕組んでいたからこそコース料理で例えていたのだ。


 死が怖いと言えば嘘になる。

 その証拠に、郁広の顔は絶望に歪んでいるのだから。


 転移しなければよかったと激しい後悔が襲う。

 何物にも代えがたい仲間と出会えたというのに、最後の最後に郁広を殺す役目を仲間達に背負わせてしまった後悔。


 敵わぬと分かりながらも郁広は剣を握りしめる。


「死中に活を求める、ってやつだな」


 希望をつかみ取るため、全身全霊を持って踏み出す。

 死を覚悟した身体は限界を超え、一歩で数メートルも進めるほど全身が軽い。

 地面スレスレを駆け、大悪魔の真下から振り上げられた剣。


 その結末を見届けることなく、郁広の意識は刈り取られた。


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