常連の忌村さん
常連の忌村さんは、いつも閉店間際に来てコーヒーを一杯だけ飲みます。
座る場所も決まっており、入り口の対角にある壁際の席です。
忌村さんは三十分ほど滞在すると、無言で会計を済ませて退店します。
これだけなら気にも留めないのですが、忌村さんには奇妙な習慣があります。
まず、注文するまでが長いです。
頼みものが決まっているはずなのに、たっぷりと時間をかけてメニューを吟味するのです。
結局は「コーヒーで」と頼むのが恒例でした。
以前、一度だけ別の物を勧めてみましたが、忌村さんはやはり「コーヒーで」と答えただけでした。
気になった点は他にもあります。
私が「砂糖とミルクはどうしますか」と尋ねると、忌村さんは首を横に振ります。
ところが届いたコーヒーにガムシロップをいくつも入れるのです。
あんなにガムシロップを使ったら、元の味なんて分からないでしょう。
甘すぎて飲めたものじゃないと思います。
それをちびちびと飲みながら、忌村さんは壁の一点を見つめ、閉店時間と同時に会計をします。
総じて害はありません。
注文までに時間がかかっても、変なコーヒーの飲み方をされても私は困りませんので。
ただ、毎日のように接客をしていると、忌村さんがどんな人物なのか興味が湧いてきました。
その人柄を暴いてみたいと考えたのです。
今になって振り返ると、この判断が間違っていました。
ある日、私は甘ったるいコーヒーを飲む忌村さんに世間話を振りました。
確か「最近は寒いですね」とか「ご職業は何をされているのですか」みたいな質問だったと思います。
忌村さんはいずれも返答せず、目を見開いた微笑を浮かべていました。
相槌も打たず、じっとこちらを凝視していました。
気まずくなった私はカウンターの奥に逃げましたが、その日の忌村さんは閉店まで私を見つめていました。
本当に恐ろしかったのは翌朝です。
開店準備を始めようとしたところ、いつもの席に忌村さんがいました。
驚いた私は「何をしているんですか」と問い詰めました。
しかし、忌村さんは微笑むばかりで答えません。
私は警察に通報するため電話を手に取りましたが、一瞬だけを視線を外した隙に忌村さんはいなくなっていました。
それ以来、忌村さんの姿を見ることはなくなりました。
ただし例の席には、使用済みのガムシロップとコーヒーの一杯分の代金が置かれていることがあります。
どれだけ気を配っていても、いつの間にか置かれているのです。
例の席は今週のうちに撤去する予定です。
皆様も忌村さんにご注意ください。