09)見えない明日
エブァンが立ち止まったのは、屋敷の前だった。
明らかに訪ねるには場違いな雰囲気を持つ貴族屋敷。
塀は終わりが見えないほど左右に広がっており、細目の鉄棒で作られている門は幾重にも重なりあって、気品を保ちながらも侵入者を寄せ付けない頑丈な造りになっていた。
普段着の千鶴と汚れたローブを纏ったエブァンは凄く浮いているが、何故か周りに人通りはないので誰かに見咎められることはなかった。
「落ち着いた??」
「…うん。大分落ち着いたわ。もう立てるから」
随分と情けない姿をエブァンに見せてしまって、気まずくて顔がみれない。
少し間が空いた後、降ろしてくれるのかと思ったが、抱き上げたまま目の前の屋敷に入ろうとする。
「えっ!?ちょ、降ろして」
「無理しなくていい」
いや、こっちの状況のほうが無理だから。
無理矢理降りようと腕を突っぱねて抱き上げる手を離そうとしたけれど、びくともしない。
線が細く、大人になる前の華奢な外見からは想像もつかない力だ。
「エブァン!?」
無言でにっこりと微笑まれた。
絶対分かってやってる。
千鶴の願いも虚しく、すたすたと屋敷の中に入っていき、ドアをノックして人を呼んだ。
すると、すぐ返事があってドアが開いた。
出てきたのは黒い髪を頭の高い所にお団子に纏め、動き安いそうな黒いワンピースに白いエプロンを着けている女性だった。
屋敷の使用人だろう。それにしても美人だ。
「すまない、少し部屋をかして貰えないか」
「まぁ、エブァン様!どうぞお入りになってください。今、主人を呼んで参ります。」
使用人は目を見開いて言った後、慌てて主人を呼びに小走りをした。
踵を返す際にちらりと盗み見されたのが恥ずかしくて再び首筋に顔を埋めた。
「だから降ろしてっていったのに…」
弱々しくなってしまった愚痴に答えたのは小さな笑い声だった。
先程の使用人と共にこの屋敷の主人であろう男性が、玄関の中央にある階段から早足で降りてきた。
髪を全て後ろに流し、貴族にしてはすっきりした服装が好感を持てる男性だった。
きっと歳は父と同じ歳くらいだろう。
「エブァン様、ご無事で何よりです。服に血が付いておりますが、お怪我の方はありませんか??」
「ああ、私のは返り血だから心配しなくていい。だが、この人が怪我をしているから至急医者を呼んでほしい」
エブァンが千鶴を抱えなおした。
「わかりました。今、服と湯殿の用意はしておりますので少々お待ちください」
「ありがとう。いつも迷惑をかけてすまない」
「とんでもございません。…エブァン様、そのご令嬢はどうされたのですか??」
「私の蕾だよ」
「…やっと、見つけられたのですね」
ほっとしたバルバラ卿の言葉にエブァンは困った顔をした。
腕の中にいるのが居たたまれなくなって服を引っ張るとやっと降ろしてくれた。
「ナラワード・バルバラと申します。お目にかかれて光栄でございます」
「…サラです。突然、屋敷に押し掛けてしまって申し訳ございません」
迷った末、こちらの世界の名前で名乗った。
「とんでもありませんよ」
バルバラ卿が千鶴の手を取って甲に口付けをした。
顔に熱が集中する。
「バルバラ卿」
苛々した声音で咎められたのにも関わらずバルハラ卿は好好爺のような微笑みを称えて隣の使用人に目配せをした。
使用人は頷いたあと階段の方に手を向けた。
「此方でございます。」
使用人に広い屋敷を案内される。
廊下はふかふかの絨毯が敷かれいて、汚れた服装で歩いていいものか躊躇する。
しかし置いていかれるのも嫌なので隣にいるエブァンのすぐ後ろを歩くことにした。
曲がり角を5つほど曲がり、3つほど先の部屋のドアの前で使用人が足を止めた。
「少々おまちください」
使用人はお辞儀をし、千鶴たちが部屋に入ったのを確認すると再度頭を下げてドアを閉めた。
「大丈夫??」
エブァンが様子を伺うように声をかけてきた。
「うん」
赤一色に侵された場面がよみがえって声が震えていたかもしれない。
あれは幻だったかもしれないと思いつつも体はしっかり覚えているらしい。
「巻き込んですまなかった」
「なんで謝るの??巻き込んでしまったのは私の方だわ」
「いや、きっと私を殺そうとしたのだろう」
「…どうしてエブァンが襲われるの?」
「命を狙われるなんて頻繁にあることだ。最近、あの場所によく行っていたから待ち伏せされたのだろう。…あらかた片付けたと思っていたのだがな」
不安な顔をしていたのかもしれない。千鶴の表情を見てエブァンが付け加えるように言った。
「大丈夫。私が誰かに殺されることはないよ。そこまで柔ではない」
絶対に殺される可能性はないとは言えない。
誰も明日のことなどわからないのだ。誰より私が解っている。
「エブァンはどうして命を狙われているの?」
「花が咲くころに教えてあげる」
楽しそうに笑って千鶴の鎖骨をそっと撫でた。
エブァンがつけた所有印はまだ、消えていない。