08)サカサマノ砂時計
*流血注意です。
苦手な方はリターンしてください。
空白の時間は戻ることなく、真っ白なまま。
ぽっかりと空いた、空虚な時を埋めるために千鶴は路地裏に足を運んだ。
「こんにちは、ヨモギ」
お昼寝の最中に声をかけると、伏せていた頭を上げ、尻尾を揺らして答えてくれた。
ヨモギが乗っている膝程の高さの木箱の横に座ってお礼を言う。
「この前は薬、ありがとうね。すっかり体調がよくなったわ」
額を撫でると喉を鳴らして気持ちよさげに目を細めるヨモギが可愛くて癒される。
どっかの馬鹿も見習ってほしい。
あ、でも想像すると寒気が…。とても気色が悪い。
くだらない考えに浸って頭を撫でているとヨモギが目を見開いて何かを探る仕草をした。
耳が忙しなくぴくぴく小刻みに動く。
「ヨモギ??」
エブァンが来ただけにしては様子がおかしい。
どうしたんだろかと不審に思って、周りを見渡してみるが、変わった様子はない。
ふ―と唸り声を上げ、毛を逆立てて興奮しているヨモギを宥めようとした。
「動かないで。さもないと首と胴が離れるわよ」
喉元に冷たく鋭い鉄の感触。どすの聞いた声で凄まれる。
女口調なのに声音は男だ。
目をごつごつした大きな掌で覆われ、光が遮断される。
お腹には太い腕がまわされていた。千鶴などたやすく息の根を止められる腕。
後ろから大柄な男に拘束され、自然と背伸びになる。
少しでも気を抜くと刃物が食い込み、血が垂れた。
「ねぇ、アナタ、何をしたの?? 私が呼び出されるなんてよっぽどのことよ」
この人は何を言っているのだろう。
「な、なんのこと…」
「あら、覚えがないのね。かわいそうに。せめて苦しまないように死なせてあげるわ。」
お腹にまわされている腕がえづきそうになるくらいの力が籠められる。
足が浮いて、冷や汗が流れ落ちた。
や、やだ…死にたくない!!
それは一瞬の出来事だった。
失っていた光が戻ってきたと同時に襲ってきた男はうぅ、とくぐもった声をあげて倒れ、血溜まりが広がった。エブァンの持っている長剣から血が滴り落ち、濃厚な血の匂いがして気分が悪くなる。
「間に合ってよかった…」
エブァンが言いながら強く抱き締めた。
助かったことに安堵で千鶴の手足は震え、一気に恐怖感が襲ってくる。
無我夢中でエブァンの背中に手をまわして力を込めた。
「こ、こわっ、こわかっ…」
嗚咽で言葉にならない。
エブァンが来てくれなかったら血溜まりに倒れていたのは千鶴の方だっただろう。
落ち着かそうと背中をさすってくれる手の感触に余計泣きたくなった。
「チズ、大丈夫??怪我してない??」
肩を抱いて怪我をしてないか確認していたエブァンが首に赤い一筋を見つけて、顔をしかめた。
血を拭ってハンカチで軽く傷を押さえてくれる。
「手当てをしないと。チズ、場所を移動しよう。立てる??」
聞かれるが、まだショックから脱け出せなかった。
手をとられて立とうとするけれど恐怖で足が動かない。
ついでに嗚咽も止まらない。
「君、何してるの??」
場にそぐわない能天気な声がした。
いつの間にか路地裏の入口でミリクが壁に肘をついて寄りかかっていた。
「あ―あ、派手にやっちゃって。これ片付けるの大変だな―」
いや…そんな問題じゃないでしょう。と、いつもなら呆れながら言うけれど今はとてもそんな気分になれない。
さりげなく千鶴を背中で庇いながらエブァンが舌打ちをして言った。
「何の用??」
「何の用って…君、何やったか分かってる??」
小さい子に言い聞かせるように優しい口調で諭す、その態度が気に障ったのかエブァンがいまだに血のついている剣を構えた。
「お前には関係ない」
「俺も一応仕事だから抵抗されると手荒な真似しなくちゃいけなくなるぞ?あんま気が進まねーんだけどな」
ミリクは渋々鞘に収まっている剣に手を掛けた。
「ミリク、エブァン、やめて」
やっとのことで仲裁に入るとサラ??とミリクは驚いて目を見開いた。気付くのが遅い。遅すぎる。
ミリクは千鶴と血溜まりに倒れている男を見比べると納得したように頷いて剣から手を離した。
「そういう事なら早く行けよ。急がないと他の奴等も来るぜ??ここは俺がなんとかするからさ」
ミリクを冷たい視線で一瞥した後、エブァンが重さを感じさせないくらいに軽々と千鶴を抱き上げて走りだした。
千鶴は暢気に手を振って見送ってくれるミリクを見たくなくてエブァンの首筋に顔を埋めた。
きっと、もう、平穏な時間が流れていた大切なあの場所に行くことはないだろうと思った。