06)種
「作り話みたいだけど、本当の、ことなの」
これを打ち明けるのにどれだけ勇気を出したのか分からない。
胸の前で、神様に祈るように手のひらをあわせて組んでいる指先が、微かに震える。同じく震えそうになる声を抑えるためにひとつ、ひとつ、ゆっくりとエブァンに告げた。
目線の先には雨に濡れた地面と、流れてきた水溜まり。そして、それに写ってる二人の姿。千鶴の顔は随分と酷い。まるで、死刑宣告を受けた囚人みたいだ。
やけに雨の音が耳につく。
会話の間に流れる沈黙が長い。いや、そう感じるだけかもしれない。
「違う世界??」
「うん。気が付いたら景色が変わっていたの。日本っていう国、知ってる??」
「いや…。日本なんていう国はこの世界にはない」
「そう…よね。でも私は日本っていう国で生まれたの。ここより科学が発達していて、自然の力を利用して動く機械というものがあってね、それを使って、人が空を飛んだり、離れていても会話できたりできたの。戦争も他の国はあったけど、私の国はなかったのよ。毎日平穏に暮らせてたの。何も無さすぎて退屈と思えるくらいに平和だった。今思えば贅沢な悩みね」
一生懸命説明すればするほど感情が空回りして陳腐な作り話になっていく。
「夢物語みたいだ」
「だよね…分かってる。でも、信じてくれなくてもいいから誰かに話したかったの」
嘘だ。
「打ち明けたのは私が始めて??」
「うん」
「チズは、元の世界に帰りたいの??」
帰りたいけど帰れない。
私に何が出来るというのか。
「うん。けれど、無理だわ。帰り方がわからないもの」
顔の筋肉を動かして笑みの形を作る。
乾いていた傷がぱっくり開いて、溜まっていた膿が出てこようとする。
イヤダ。怖い。
見たくない。
見せないで。
……見ないで。
「本当に、帰りたいの?」
「…うん」
何の感情も表さない顔で見つめられる。
幼い頃遊んだ、綺麗なお人形さんを思い出した。
「何をしてでも??」
そんなの!!
溜まった膿が溢れ出た。
「帰りたいに決まってるじゃない!!けれど、無理なの。どうしようもないの。突然訳も分からず、放り出されて。今までの常識が通じない世界で一人。帰り道を探す力すら私には無い。この状況で帰るなんて希望、持てる訳ないじゃない」
五月蝿いほど響いている豪雨の音にも負けないように声を張り上げた。
分かってるのに。足掻いてもムダだって。
叶わない夢を見させて期待させるほど、残酷なことは、きっとない。
怒りを込めてエブァンを睨みつける。
苦労して蓋をしたのに無遠慮にこじ開けてこないで。
頬を伝って流れたのは、悲しさなのか、悔しさなのか、寂しさなのか。それとももっと別のものなのか。頭の中がぐちゃぐちゃで、千鶴には分からなかった。
エブァンは一旦そっと目を伏せ、俯いた。
「チズは決めてしまっているんだね。望まない未来を。けれど、自分の未来は自分で作っていくものだ。例え、望まない未来でも自分で選択したのならば後悔したくない」
力強い目線に射抜かれて、グレーの瞳に吸い込まれそうな感覚に陥った。
千鶴の頭に上っていた血が一気に下がる。
頬から最後の雫がぽとりと落ちた。
体が動かない。
指先でさえ、ピクリとも動かない。
エブァンから目が離せず、固まっているしかなかった。
ゆっくりと近寄ってきた端正な顔が視界いっぱいに広がり、あっという間に白くぼやけた路地裏の外の景色しか見えなくなる。柔らかく抱き締められた。
「貴女に、奇跡を見せてあげる」
掠れた声が艶をおびて耳元をくすぐった。
首筋に吐息がかかる。
全身に鳥肌がたつ。
心臓がバクバクと早い鼓動を刻む。
唇が鎖骨に触れ、上から下へ滑り降りていく。
背筋に電流がぞくぞくっと走った。
「いっ、…たぁっ」
信じられない。
噛まれた。
エブァンがクスクスと笑いながら再び壁にもたれる、と同時に金縛りが解けた。
条件反射のそうな速さで千鶴は真っ赤になって叫んだ。
「なんで噛むのよ、痛いじゃない」
「ん?人にちょっかい出される前に所有印つけとこうと思って」
なっ何ですとー!?
開いた口が塞がらないとはこの事だ。
生まれて初めてキスマークつけられたよ。
「きっと良いことあるよ」
エブァンが言った。
可愛いし、母性本能くすぐられてしまうけれど。
これは子犬の皮をかぶった狼だ。
あぁ、私、エブァンに振り回されっぱなしだ。
お酒に酔ったかのようにくらくらして、意識が朦朧としてくる。
力が入らなくてエブァンに縋るように体を預けた。
小さな子供にするように、背中を一定のリズムで宥められる心地よさを感じながら、千鶴の意識はブラック・アウトした。