17)見捨てられた神様
眉間にしわをよせながら腕を組み、遠くを見つめてるライは何かを思案しているようであり、悩んでいるように見えた。
千鶴は黙って相手の出方を待つ。
確実に先程のやりとりでライの不快を買ったのは明白だった。
暫し沈黙が部屋の中を支配する。
「いっそ奴隷市場にでも突っ込んでやりたい気分だけど無理なのよねー。あー…、もうあそこしかないわよね。出来るならあそこには行きたくなかったのに」
最後にはライがとても投げやりに独り言を呟いて再びため息をついた後、千鶴を呼んだ。
びくりと体がソファーの上で跳ねる。
「いらっしゃい」
不機嫌そうにソファーから立ち上がるライを慌てて追いかけた。
これ以上機嫌を損ねたくなかったからだ。
廃墟と化しつつある屋敷を後にし、先程と代わり映えしないくらい廃れた建物と建物の間を進む。
道には煩雑に物が落ちているので歩くにも一苦労だ。
それにも関わらずライは自分のペースで歩くものだから、体のあっちこちをぶつける。
時折、道の隅に薄汚い服を身に纏った人が見え、思わず目を逸らした。
そこは千鶴の知らない場所だった。
活気とは正反対といっていいほど静寂に支配され、生き物の気配がない。
排他的な雰囲気が漂っており、どこか不気味だった。
死臭と汚物の匂い。
汚濁に塗れ腐敗した、人が住むべきではない場所。
その中を千鶴は置いていかれないように前に進む。
足が鈍く痛み出し限界に近づいていた頃、やっとライが足を止めた。
そこは、場所にそぐわぬ教会の前だった。
錆びれた門は既に開いており、来る者を拒まない。
教会を見つめるライの目は曇り、苦痛に堪えるように顔をしかめている。
千鶴はただ黙って傍にいるだけだった。
やがて、ゆっくりと進む背中に千鶴は不安を膨らませたままついていく。
じゃり、じゃりと踏み締める石の音は、悪魔の誘惑なのか、天使が告げる救いなのか。
ありもしない空想に取り付かれながら恐る恐る足を踏み入れて祭壇に向かう。
左右にある長椅子はニスが禿げている所が目立ち、継ぎ接ぎだらけだった。
正面にある女神はひび割れ、大きくえぐれた頭部をしている。
女神は、それでも微笑み静かに佇む。
崇拝する者などいないだろう。
人に見捨てられた女神。
それでも何故、人を見守るのか。
それは胸が痛くなる程の寂しい光景だった。
足音しかしなかった世界に、金属の甲高い声が響く。
それがドアが開く音だと気づいたのは人の姿が見えてからだった。
「ライ、久しぶりだね。もう二度とここには来ないと思っていたよ」
女神が微笑を浮かべる後ろから顔をだしたのは、女神と同じ種類の笑みを浮かべた男だった。
黒い長衣を纏い、十字架のネックレスを首から下げた神父の格好をしている。
親しげにライのもとに行った神父様の足元には小さな男の子が裾に縋り付いて見慣れない来訪者を警戒していた。
「カイル……あんた、まだここにいたのね」
「ああ、僕はいつでもここにいるよ」
カイルは笑みを、ライはシワを深くして互いを見合う。
「今日はどうしたんだい?おや、珍しい。女の子連れかぁ」
にこにこと顔を覗き込まれる。
「あんたに頼みがあるの。暫くの間この子を預かってほしいんだけど」
「いいけど、どうしたんだい?君が僕に頼み事なんて珍しいじゃないか」
「ちょっと……ね」
言葉を濁すライに不振な顔をすることもなく、カイルは優しい笑顔をたたえたまま千鶴に問い掛けた。
「はじめまして、僕の名前はカイルです。君の名前は?」
「……サラ、です」
「もしかしてサラちゃんはこのお兄さんに無理矢理連れて来られたのかな?」
助けを求めたいけれどカイルとライは知り合いだ。
千鶴は躊躇してライの様子を盗み見すると、カイルは安心させるように笑みを一層深くした。
「僕がライに酷いことはさせないよ。大丈夫」
思いもよらない言葉に戸惑う。
ライに拒絶された時から酷い目にあうと覚悟し、恐怖していた。
それが、予想もしないところから差し出された救いの手。
この手をとるべきか悩んでいる間もライは何も言わなかった。
カイルの優しい問いに千鶴は僅かに頷く。
「家に帰らないと……。帰らないとアマンダが」
「帰らないといけない?」
「私は家に帰らないといけないの。だから帰して」
今頃アマンダはどうしているだろう。
また必死になって娘を探しているのだろうか。
泣きながら、嗚咽を漏らし、娘の名前を叫び続ける。
答えるべき人などいやしないのに。
もう二度と会えはしないのに。
キリキリと締め付けられる胸が痛い。
「家族の人が病気なの?」
俯いて頭を振る。
「だったら家に帰るのは明日にしよう。もう日も暮れるから外は危険だよ」
「ダメ」
水の中みたいに息苦しい。
圧迫感に押しつぶされそうになりながら自分にしか聞こえないほど小さな声を絞り出した。
「アマンダが、壊れてしまう」
ため息をついたのは誰だろう。
けれどそれを確かめることはしなかった。
とても、とても怖い。