6 娘帰る3
スマホが震えた。
部屋に響くその振動音に、胸の奥が嫌な予感で締め付けられる。机の上の画面には「新しいメッセージ」の通知。指先が冷たい。何か重大なことが書かれている気がしてならなかった。
おそるおそる画面をタップすると、そこには短いメッセージが表示されていた。
「心配しないで。娘さんは元気です。これから彼女と一緒に旅に出ます。しばらく会えないけれど、必ず帰ります。わたしを信じてください」
それだけ。差出人は「早見流星」。内容は簡潔で、冷静な文面だ。しかし、その「簡潔さ」が胸を刺す。
瑠奈の無邪気な笑顔が頭をよぎる。今朝も何も変わらない、いつもの笑顔を見せてくれていたはずなのに。どうしてこんなことに……
指先が震え、メッセージの画面を見つめたまま固まる。
送り主の言葉には奇妙な優しさが滲んでいる。それが、余計に恐ろしい。
(「旅に出る」とはどういう意味だ? どこへ? なぜ? 何よりも…………どうして娘を?)
無理やり冷静を装い、もう一度メッセージを読み直す。だが、そこには何のヒントもない。ただ一つ、彼らが娘を奪ったという事実だけが突き刺さるように残る。
「心配しないで」……その言葉がひどく不気味だった。
心配しないはずがない。娘の声も、顔も、体温も知らされないまま、どうやって心を落ち着けろというのか。
しかし、行動を誤れば取り返しのつかないことになる。送り主の言葉を信じるしかないのか? 警察に知らせるべきか、それともこのまま様子を見るべきか?
胸の中の不安は怒りと恐怖の間を行ったり来たりしていた。問いかけても答えのない時間が、じわじわと心を蝕んでいく。
画面の明るさが消え、部屋は再び暗闇に包まれる。だが、頭の中には明滅する文字だけが焼き付いている。
「心配しないで」
それが最も心配させる言葉であることに気づかない人間はいないはずだ。
「お嬢さんは今、わたしの元にいます。でも、どうか心配しないでください。彼女は無事ですし、絶対に安全な場所にいます。わたしは彼女に危害を加えるつもりなど一切ありません。お嬢さんには笑顔も戻っており、何も恐れることはないのです。安心してください……必ず、何もかもが元通りになります。
きっと、あなたは突然のことで動揺していることでしょう。わたしの行動が理解できず、不安や怒りを感じているかもしれません。それも無理はないと思っています。けれども、どうか冷静に、この文面を読み進めてください。わたしは彼女を守るため、あるいは別の理由があって行動しています。あなたにとっては理不尽に思えるかもしれませんが、わたしの言葉を信じてほしいのです。何があっても、彼女を傷つけることはありません。約束します。
近いうちに再び連絡を差し上げます。そのときには、娘さんの笑顔があなたの元に戻ることをお約束します。ただ、それまでの間、どうか冷静さを失わずにいてください。お嬢さんもそれを望んでいるはずです」
母親は手紙を読み終えた瞬間、手が小さく震えているのに気がついた。なぜ、どうして、娘がこんな目に遭わなければならないのか。目の前で無言で冷たく光る紙片を握りしめ、心の中で何度も何度も同じ問いを繰り返した。理性では「冷静でいなければ」とわかっているはずなのに、母親の心は波立つように抑えがたい感情で満たされていた。
自分の娘がどこか知らない場所にいる、得体の知れぬ人間の手の中にいる……その事実が重く、息苦しいほどの不安をもたらした。あの小さな体が、ひとり、恐怖に震えているのではないか。悲しそうな目で自分を探しているのではないか。胸の奥から湧き上がる「どうして」という疑問が次々と、怒りや悲しみと絡み合って、心の中で渦を巻いた。
記憶の中には、病院の中とは言え、娘の無邪気な笑顔がありありと浮かんだ。今はまるで蜃気楼のように思えてくる。母親はその笑顔が二度と戻らないかもしれないという不安に駆られ、胸がきしむように痛んだ。そしてまた、手紙に書かれた冷静な言葉が頭の中で響いた。「必ず無事に返す」という言葉が、本当かどうか、何度考え直しても不安が消えることはなかった。
どうして、どうしてこんなことが起きたのか。母親の心は答えのない問いでいっぱいになり、静まり返った部屋の中で、ただ一人、絶え間ない不安と恐怖の波にのみ込まれていた。
彼の名は流星。娘の瑠奈が家に帰るたびに、その名を嬉しそうに口にしていた。青年と言っても、歳は二十代半ば、まだ若さが垣間見える風貌ながらも、眼差しには不思議な落ち着きと誠実さがあった。初めて彼に会った日、母はその態度に一瞬で信頼を寄せたものだ。
流星は、瑠奈が病気で入院することになったときも、まるで家族のように見舞いに来てくれた。彼は無理に明るく振る舞うことなく、むしろ瑠奈の気持ちに寄り添い、静かに彼女の話を聞いていた。
「お兄ちゃんが来てくれると元気が出るわ」と瑠奈が笑うと、彼は照れくさそうに笑みを返す。それは愛おしさとともに、何か特別な絆を感じさせるものだった。
そんな彼が、瑠奈を病院から連れ去ったという知らせを受けたとき、わたしは耳を疑った。あの流星がそんなことを? 思わず心が否定を叫んだ。彼は誰よりも規則を守り、他人の心を大切にしてきた青年だった。瑠奈のことも、彼はまるで自身の妹を扱うかのように接していた。その彼が、無理やり何かを奪うなど到底考えられなかった。
病院の警備員の話では、流星は静かに瑠奈を連れて出て行ったという。騒ぎは一切なかったと。だが、その目には一瞬の決意が宿っていたのだと語った。「彼女を守らなければ」という強い意志。それは一体何を意味していたのか。母の胸中には疑問と安堵が入り混じり、抑えきれない焦燥感に駆られた。
しかし、流星のことを思い出すたび、心の底で一つの確信が生まれつつあった。彼はただ瑠奈を守るために、どうしても必要な行動をとったのではないか、と。どんな理由が隠されていようとも、彼の瞳に宿る誠実さだけは信じて疑わなかった。
その日は、雨が降り始めたばかりの夜だった。