3 弁護士2
後日、佐藤はもう一度早見を訪ねた。
拘置所の面会室には、重苦しい空気が漂っていた。無機質な壁と鉄格子の窓が、部屋全体を冷たく閉ざしている。面会室の中央には小さなテーブルが置かれ、その上には何もない。被告と弁護士は、そのテーブルを挟んで向かい合って座っていた。弁護士は書類を手に取りながら、慎重に言葉を探していた。
「もう一度考え直してみませんか?」
弁護士は静かな声で言った。その声には説得力と焦りが入り混じっていた。
「このままでは有罪判決が確定してしまいます。控訴すれば、新しい証拠や証人を提出するチャンスが増えるんです。今が最後のチャンスなんですよ」
被告はゆっくりと顔を上げ、無精ひげに覆われた口元を少しだけ動かした。彼は目を伏せたまま静かに首を振った。
「分かっています。でも、もう十分です。裁判は長すぎたし、疲れました。これ以上、家族や友人に迷惑をかけたくないんです」
佐藤は一瞬、ため息をつき、眉間にしわを寄せた。拘置所の冷たい空気が、まるで自分の決意まで凍りつかせるように感じた。だが、それでも彼は引き下がるつもりはなかった。何かを掴もうとするように、もう一度、言葉を紡いだ。
被告は短く笑ったが、それは乾いた、虚ろな笑みだった。彼はわずかに肩をすくめ、窓の外に視線を投げた。薄暗い曇り空が広がり、まるで希望を覆い隠すかのようだった。
「それでもいいんです。おれは……これ以上続けたくない」
被告の言葉は、小さな声ながらもはっきりとした決意がこもっていた。
「もし有罪が確定するなら、それを受け入れます。私がやったことの意味を知っている人もいる。それだけで十分なんです」
弁護士はその言葉に一瞬、言葉を失った。窓越しに見える拘置所の鉄柵が、彼の心にも重くのしかかるようだった。
「でも、それではあなたの未来が……」
佐藤はなんとか言葉を続けた。
「この先十年も刑務所で過ごすことになるんですよ。それに、あなたの名前が汚されるままになってしまうんですよ」
早見は短く息を吐き出し、弁護士を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、わずかな怒りと深い諦めが混ざり合っていた。
「この刑務所の中にだって未来はあります」
彼の声は低く、しかしその言葉は鋭かった。
「私には、ただこの地獄からあの子どもを抜け出させたいという思いしかありませんでした。たとえそれが有罪になるという意味でも、何も悔いはありません」
佐藤はその言葉に胸が締め付けられる思いだった。あらゆる手を尽くして戦おうとしていたが、今ここで、彼は初めてその戦いが無意味に思えてきた。。
「…………わかりました」
ゆっくりと頭を下げ、机の上の書類を片付け始めた。
「ただ、もう一度だけ、慎重に考えてください。これはあなたの人生に関わる決断ですから」
早見は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。その動作には、弁護士への感謝が確かに込められていたが、それと同時に、何かを背負い込んだ重みも感じられた。
「もう決めました。これで終わりにしたいんです。ありがとうございました、先生」
弁護士はそれ以上何も言わず、ただその背中を見送った。早見が面会室の扉を開けて、ゆっくりと去っていく。ドアが重く閉まる音が、部屋に響き渡り、再び静寂が訪れた。
面会室には、冷たい静けさだけが残った。
テーブルから立ち上がり、重い足取りで面会室の出口へ向かう。扉に手をかけた瞬間、一度だけ振り返った。そこには、誰もいない空虚な椅子と、曇り空の光が冷たく差し込むだけの無機質な部屋が広がっていた。息を深く吸い込むが、胸に溜まった重苦しさは消えることはなかった。
廊下を歩く佐藤の靴音が、静まり返った拘置所内に乾いた音を響かせる。鉄格子の窓越しに見える景色は無情だった。色褪せた灰色の空、遠くに見える冷たいコンクリートの壁、そして監視カメラの無機質な視線。どこにも温もりは感じられなかった。
彼はふと立ち止まり、スーツの内ポケットから手帳を取り出した。中には早見の事件に関するメモや、これまでの面会で交わした言葉がぎっしりと書き込まれていた。何度も繰り返し読んだメモの文字は、インクが滲み、擦り切れていた。その一つ一つが、彼の無力さを突きつけるように見えた。
「これで本当に良かったのか……」
佐藤の中でその問いが何度も渦巻く。それでも彼は小さく首を振り、手帳を閉じると歩き出した。
拘置所の正門に辿り着くと、警備員が無言で扉を開けた。その向こうには、すでに夕闇が忍び寄り、空を赤黒く染め始めていた。冷たい風が頬をかすめる。佐藤はスーツの襟を直しながら、一歩一歩、外の世界へと歩みを進めた。
背後で重く閉ざされた扉の音が響き、再び沈黙が訪れる。その音が、まるで二度と戻ることのできない境界を示しているようだった。
拘置所の外に出た佐藤は立ち止まり、空を見上げた。薄暗い空にぽつりと現れた一つの星が、かすかな光を放っていた。その小さな輝きが、佐藤にとって救いなのか、それともただの幻影なのか、彼自身にもわからなかった。
「まだ終わっていない……」
佐藤はそう心の中で呟き、小さく拳を握りしめると、足を前へと踏み出した。冷たい風の中を歩き続ける彼の背中には、どこか決意が滲んでいた。