1 判決
法廷内の空気は張り詰め、時間が止まったかのように感じられた。木製のベンチに座る傍聴人たちは、息をひそめて判決の瞬間を待っていた。壁に掛けられた正義の女神の彫刻が冷たい眼差しを送り、無情さを漂わせていた。
被告席に座る早見流星は、手錠こそされていなかったが、逃れられない鎖に心を縛られているように感じていた。隣には弁護士が座り、無言で流星を見つめていた。彼は深く息を吸い込み、重々しい沈黙の中、再び前方を見据えた。
裁判官は判決文を手に持ち、無表情のまま視線を走らせた。彼の右側に立つ検察官は資料を握りしめ、冷たい目で被告を見つめていた。その視線は鋭く、まるで無言の圧力をかけるようだった。
「早見流星被告、病院から病身の少女を誘拐した罪に対する判決を言い渡します」
裁判官の低く響く声が法廷内を包み、重々しい空気がさらに厚みを増した。
傍聴席の一角では、被害者である瑠奈の両親が固く座っていた。母親は震える指先でハンカチを握りしめ、目には涙がたまっていた。父親は険しい顔つきで視線を裁判官に向けていたが、その奥には複雑な感情が揺れていた。娘が無事であることへの安堵と、誘拐という行為を決して許せない思いが交錯していた。
「本法廷は、被告に対し懲役10年の有罪判決を言い渡します」
裁判官の声が響くと、法廷内が一瞬、息を飲むような静寂に包まれた。母親は目をつぶり、涙を一筋こぼした。父親は唇を噛みしめ、その視線を一点に集中させていた。
流星はその言葉を聞き、身体が硬直するのを感じた。判決は重く、現実としてのしかかってきた。瑠奈の姿は見えなかったが、彼の心の中には彼女の笑顔が鮮やかに浮かんでいた。
「これで良かったのだろうか」と自問しつつも、流星は深い後悔も無く判決を受け入れた。
弁護士は無言で流星の肩に手を置き、しばし目を閉じた。
被害者の両親が退室する姿を流星は目に焼き付けながら、法廷内の重い沈黙の中でその日の決着が刻まれた。
裁判所の廊下は、法廷内の重苦しさとは異なる冷たい静寂に包まれていた。瑠奈の両親は判決を聞き終えてもなお、その場から立ち上がることができなかった。母親の手は震えており、しがみつくように握りしめたハンカチは涙で濡れていた。
「懲役10年…」父親は小声で繰り返し、眉間に深いしわを寄せた。彼の声は揺れており、その響きには怒り、安堵、そして戸惑いが入り混じっていた。娘が無事であることは奇跡だったが、誘拐の事実は否定できなかった。正義とは何か、自分たちの求めた罰はこれで本当に正しかったのか、彼の胸中には疑問が渦巻いていた。
母親は顔を覆い隠し、抑えきれないすすり泣きを漏らした。「彼は瑠奈を救ってくれたのかもしれない。でも、許すことは…許すことは…」その言葉は涙とともに途切れた。彼女の中には愛娘を失う危険に晒された恐怖と、流星の行動がもたらした恩恵が複雑に絡み合っていた。
廊下を歩く他の人々の視線が二人に向けられるが、それは単なる好奇心以上のものであり、何も言わない共感のようにも感じられた。父親は深くため息をつき、妻の肩を抱いた。「帰ろう。考えるのは後にしよう。」その言葉には戸惑いと無力感が含まれていたが、今は娘と共にいる時間を大切にしたかった。
瑠奈が生きていること、それがどれだけ奇跡的なことかを思い知りながら、両親は法廷を後にした。しかし、胸に残るのは未だ消えない苦い疑問だった。正義の名のもとに下された判決は、自分たちにとってもまた、重い十字架であった。
瑠奈は彼と過ごした時間を警察に曖昧に答えている。
病室の窓から柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。清潔な白いカーテンが風に揺れ、室内には薬品の匂いがかすかに漂っていた。瑠奈はベッドの上で、警察の刑事と向き合っていた。彼女の顔には疲れが見えたが、その瞳には確かな意思が宿っていた。
「瑠奈さん、お身体の調子は大丈夫ですか?」刑事は少し優しい声で問いかけた。瑠奈の健康に気を遣っている様子がわかり、その態度はどこか緊張感を和らげるものだった。
「はい、少し休めば平気です」
彼女はかすかな微笑みも見せず、その表情はすぐに真剣なものに戻った。
「では、当日のことについてお聞かせください。流星と一緒にどこで何をしていたのか、できるだけ正確にお願いします」
刑事の声には慎重さがあり、無理に答えを迫るものではなかった。
瑠奈は視線を少し床に落とし、ゆっくりと話し始めた。
「あの夜、私たちは…温泉に行っていただけです」
刑事はメモを取りながら眉を動かし、質問を続けた。
「病院を抜け出してまで温泉へ行った理由は?」
彼女は小さく息を吸い、再び口を開いた。
「病院にずっといると、息苦しくて…。未来が見えなくて、どうしても外に出たかったんです。流星さんは私のその気持ちをわかってくれて、ただ外の空気を吸わせてくれようとしただけです」
室内には静寂が訪れ、カーテンの揺れる音だけが聞こえた。刑事は書類に目を通しつつ、穏やかな口調で最後に問いかけた。
「それだけですか? 他に何か特別なことはありませんか?」
瑠奈はまっすぐ刑事を見つめ、小さく頷いた。
「はい。それだけです。流星さんは、私が病院に戻るまでそばにいてくれました」
刑事はしばらくの間、その言葉を胸に刻むように沈黙し、やがて控えめに「わかりました」とだけ答えた。そして彼は立ち上がり、瑠奈の健康を気遣うように目を細めてから部屋を後にした。
しかし、検察が当然のことながら瑠奈の法廷での証言を求めることは無かった。