プロローグ
青年の背中は広く、暖かかった。異世界の風は冷たく、空気は肌を刺すようで、目の前の景色は現実のものとは思えないほど不思議な色に満ちていた。少女は、ふと息を呑んだ。見渡す限りの青と緑の森、輝く星のように光る花々、そして空を横切る光の帯。すべてが彼女の知る世界を超えた光景だった。
「しっかり掴まっているんだ」
青年が言った声は、いつもの柔らかさに少しだけ緊張を帯びていた。彼の体温が少女に伝わり、その声が微かに震えるのを感じると、心の奥で何かがこそばゆく動いた。
彼女の名は瑠奈。幼いながらも、心には人一倍の好奇心が満ちていた。だが、こうして青年の背に揺られながら異世界の境界を超えることになるとは、思いもよらなかった。青年は瑠奈にとって、年齢の離れた兄のような存在であり、友人のような気やすさ見せる人だった。
境界線を超えた瞬間、瑠奈の視界は一瞬ぼやけ、次の瞬間には一面の光の奔流に包まれていた。空は渦を巻くように動き、耳元では風のささやきが何かを告げていた。彼女はその音に耳を澄ませ、恐れと興奮の狭間で心が高鳴るのを感じた。
「瑠奈、怖いか?」
青年が声をかけたとき、彼女は無意識に首を横に振った。怖くなかった。むしろ、この未知の感覚に心を奪われていた。背中越しに見える青年の横顔は険しく、真剣そのものだった。彼はこの世界に何度も来たことがあると言っていた。しかし彼の瞳には覚悟と不安が同時に宿っているように見えた。
そして、彼らが足を踏み入れたその先には、闇の中で淡く光を放つ古の遺跡があった。柱には見たこともない文字が刻まれ、何かの声が風に乗って響いてくる。
「お兄ちゃん、この先に何があるの?」
瑠奈の声は微かに震えていた。
青年は一度深呼吸をし、振り返らずに答えた。
「お前の病気を治してくれる人がいる」
その言葉に胸が高鳴り、瑠奈は青年の背中にしがみつく力を少し強めた。彼女は知っていた。二人が進む先に何が待ち受けていようとも、青年と一緒なら、自分はきっとそれを見届けることができると。
彼の背中に揺られながら、瑠奈は少し前のことを思い出した。家の窓辺から見ていた星空、母の歌声、暖かな灯火の下で交わされた何気ない会話。あの懐かしい時間は遠くなり、この異世界の風景と比べるとまるで別の現実のように思えた。しかし、今こうして進んでいる道が、自分をどこへ連れていくのか、胸の奥で強く求めているものがあることに気づいていた。
遺跡にたどり着くと、風がぴたりと止み、静寂が二人を包んだ。青年は瑠奈をそっと下ろし、その瞳を見つめた。
「この遺跡は目印でしかない。ある村の玄関口のようなものだ」
瑠奈は頷いた。
「目的地は近い」
歩みを進めると足元に古びた石畳が続いていた。時折、光る苔のようなものが足元で輝き、ふたりの動きを見守っているかのようだった。瑠奈の心は鼓動が早まる。未知への不安と、新しい世界への期待が入り混じり、息をするたびに胸が膨らむようだった。
「お兄ちゃん、この文字は何?」
瑠奈は遺跡の柱に彫られた奇妙な模様に手を触れた。冷たい石の感触に、指先が僅かに震える。呪文か、それとも何かの道しるべか、その意味はわからなかった。
青年は視線を柱に移し、目を細めてその意味を探った。
「これは、かつてこの世界を治めた者たちの印だ」
彼の言葉に、瑠奈は自分たちが今まさに日本とは異なる国の歴史の中にいることを実感した。風が再び吹き始め、遺跡の奥から低い音が響いてきた。それは遠い雷鳴のようであり、同時に誰かの声のようにも感じられた。心臓が跳ね、瑠奈は思わず青年の肩を掴んだ。
「大丈夫だ、恐れることはない。」
青年の声は、まるでかすかな光のように彼女の不安を和らげた。彼の手のぬくもりが伝わり、瑠奈は自分が一人ではないことを確信した。ふたりはゆっくりと、遺跡のさらに奥へと足を踏み入れた。
奥に広がっていたのは、光の川が流れる巨大な広間だった。壁面には無数の星のような輝きがあり、それぞれがささやくような音を放っていた。瑠奈は息を呑んだ。これが彼女の世界では決して見られない光景だった。
瑠奈は初めて見るその光景に心を奪われながらも、内心でわずかに芽生えた恐れを感じていた。ここで見つけるものは、彼女の運命を大きく変えることになる。それを、まだ彼女自身も知らなかった。
やがて遺跡の外に出た。背中の少女の体重を感じながら、大地を歩き続けた。足元に広がる草原は夜露に濡れ、歩くたびに草がささやくような音を立てた。空には二つの月が静かに輝き、その光が薄青いヴェールを大地に投げかけていた。もうすぐ日が暮れる。
異世界の夜は地球のそれとは異なり、時間が緩やかに流れ、空気にはどこか魔法のような気配が満ちていく。
「大丈夫か?」
何度めだろう。青年は振り返り、背中の少女に優しく声をかけた。彼女は薄く微笑みを浮かべ、かすかに頷いた。彼女の顔はやや青白く、病の痕跡が隠せない。
しかし、その瞳は夜空の星を映して輝いていく。
遠くには、紫色に霞む山々が連なり、その間からは銀色の霧がゆっくりと舞い上がっていた。風が吹き抜けるたび、どこからか甘い花の香りが漂ってきた。
少女は一歩一歩、その景色に足を踏み入れながら、世界の広さを改めて実感していた。
足元には、不思議な形の石が散らばっていて、それぞれが微かに発光している。
青年は目を細め、石を手に取ってみた。冷たく、しかしその中心からは温かさが伝わってくる不思議な感覚。これもまた、この世界が秘める未知の一端だった。彼はそのまま瑠奈に見せ、二人は短い間だけ静かにそれを見つめ合った。
その時、遠くで雷鳴がとどろき、大地がわずかに震えた。瑠奈は視線を上げ、黒雲が山脈の上で渦巻いているのを見た。
「急ごう。この先にある村まで、夜が明ける前に着かないと。」
薄暗い森を子ども一人背負って歩くのは困難な道だ。それでも人あんみ外れた体力を持つ青年はかまわず進む。その足元をうっすらと発光する草花が照らし、進むべき道を示していた。青年にだか与えられた恩寵。
風は冷たく、しかしそれは瑠奈にとって神秘の幕開けを告げる鼓動のようでもあった。