第一部6
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その空間は曲がり角の別れをもって解消された。
阿々紀の新たな一面を知れた人生の余韻は、恐怖をもって上書きされた
気づいた頃には眼前は空だったが、妙に狭い。空の両側は壁が狭めており、痛む後頭部には土の感触があった。遅れて地面と染み込んだ雨の匂いがしてくる。
頭を上げたい。しかし、首から背にかけて痛む。動くなと身体が言う。そう言われてもなんとかしなければ、と動く箇所を確かめる。
痛みと恐怖に思考を支配されそうになる。それに抗うように意識を肉体から分離させ、上から自分を見下ろす。そんなイメージ。
見下ろされた自分は痛みに顔を歪めながらも、なんとか上半身を起こしている途中だった。自分のことなのに、起きていているのも自分自身の身体で意識なのに、思わず応援したくなる。
意識と肉体の位置が重なったのは、頭の方から人の気配を感じたからだった。
コツコツと靴底の硬い材質が、音となって阿琉斗に情報を伝える。近づく、コツ。もう一歩、コツ。音以外の情報はまだ受け取れない。距離がある。
コツコツ。ここで、カチンと金属音が一つ。右の壁から聞こえた。
「よう」
男の声が頭の方からする。首が動かないので目だけで確認する。見えたのは足元だけ。革の靴か。妙に汚れている。
「顔見られたか」
同じ声が路地に響く。ここには俺と、コイツしかいない。
駄目だ。まだ動けそうにない。
「声出ねぇか。そりゃそうだよな。意地悪したな。質問なんかしちゃって」
来た。次の情報は匂いだ。臭い。不潔な臭いよりも先に、土と鉄の臭いが鼻の奥を突いた。眉間に皺が寄る。
「ここまで来たら、聞くまでもねぇな。顔は見た、と」
と何かを書くフリをしている。
コイツはふざけている。だが絶対に隙を見せない。そして同じように隙を見せられない。
「お前にあまり興味はないんだが。少しの間、すこーしの間話しを聞く」
そういって目の前にしゃがみ込む。顔が近くなるがそれ以上に、右手に握られた刃物に意識をもっていかれた。
「おい」
この言葉を契機に、顔を見る。近い。口が臭い。賭場のおっちゃんよりは臭くない。しかし、おっちゃんと違い頬が痩けており、口臭が口内のものだけと知る。おっちゃんは胃から臭いがする。
いや、おっちゃんはどうでもいい。
雑然とした白髪の目立つ長髪から目が覗く。これまでの人生で誰からも愛されたことないような、そんな目だった。
「お、綺麗な目してるんだな。可哀想に。俺の場合はその目が原因だった」
そう言いながら、右手の刃を首に当ててきた。
「さっきの女は誰だ」
一段と低くなった声でそう聞いてきた。暗闇の中からこの声が聞こえてきたら阿鼻叫喚で慌てて逃げ出すような状況だが、幸いなことに声の主は目の前にいて視認できる。
だが不運にも首には危ない状況が迫っていた。
「誰のことですか。あと、人にものを尋ねるときは刃物をどけろ」
そう言いたかったのだが、言い終わる前に頬に衝撃が来る。殴られた。
「おい、俺が話しているんだ。立場分かってんのか。分かんねぇガキだな」
目の前の獣が阿琉斗の両肩に膝を乗せ体重をズッ…と乗せる。
もう動けない。
あの女は、と同じ質問を繰り返す。
正直に返答してしまうと、阿々紀に危害が加わることは必至だった。馬鹿でも分かる。
しかし、どうしようもない恐怖が阿琉斗の頭を支配する。
言ってしまおうか。
そう、一瞬だけ頭に浮かんだ。
その思いを拭う前に痛みに意識が持っていかれる。
また殴られた。
口から血が流れる。頭全体がグワンと揺れ、米噛みに貫かれるような痛みがある。視界も悪い。倒れ込んだときに立った砂埃が目に入った。
何も出来ない。
話す以外、自分が助かる道はなかった。
コイツは誰なんだ。
阿々紀先輩をどうするつもりなんだ。
俺は殺されるのか。
ここで死ぬのか。
通りがかる人は、いない。
救いは、ない。
一時の間で幾度なく衝撃を受けた阿琉斗の思考は、現在の状況分析から過去の記憶を引き出すに至る。
頭がぼんやりする。
思い出すのは、テンマンに入学する前のことだった。
陰家のあの子と町に遊びに行った記憶。
いつもと同じようにお菓子屋さんに寄り、広場で虫を追いかけ、賭場のおっちゃんの話を聞いていた。その日の話はこれまた不思議で、この国にいた『英雄』の話だった。
この国には昔、過去を作る怪物がいたという。
未来じゃなくて?、と質問をしたのを覚えている。
あぁそうなんだ、とおっちゃんは続ける。
その怪物は、自分の良いように過去を作り、人々が寝ている間に『その国を支配した事実』を作り上げた。
だが力が足りなかったのか元の記憶を保持する人間もいた。
免れた市民は怪物の討伐に向かうのだが、術を喰らった市民がそれらを阻止しようとして、国の中で市民同士が傷つけ合うことになった。
血を流したのは市民ばかりで、怪物はそれを享楽のように見下げて悦に浸っていた。
ここから素敵な話なんだが、と自分で前置きをして続ける。
一人の少女がいた。その両親も先の内戦で傷つけ合い、独りになっていた。彼女が平和を願い、流した涙が奇跡を呼んだ。
『ーーー』と呼ばれた1人の男が現れ、勇猛果敢にも、その怪物に立ち向かった。
それも武器も持たずに。
彼に過去の作り変えは通じなかった。彼には未来が見えていたからだ。
未来が見えてたの?
あぁ、詳しくは難しい話にはなってしまうが。
この世は全て小さな粒子で出来ている。その粒子の動きは予測でき、その集合体である自然の動きも予測できる。
だから未来が見えた。彼に過去の因縁は関係ない。
何度も改変される過去に、現実に、英雄は立ち向かった。そして最後。怪物を追い詰めることに成功した『ーーーー』はこう唱え、怪物をやっつけたのだ。
「早く言え。どちらにせよお前は殺す」
「あぁ、ああ…」
『思季封躙』
ぼやけていた視界に閃光が走った。一瞬にして路地が丸ごと明るくなり、目の奥が痛くなる。
気付けば両肩に掛かる重みはすでになく、今、聞こえてくる足音も先程のまでのものと比べ軽快だった。
チカチカする目が段々と正面を捉えられるようになる。
掴まれ、と言わんばかりにこちらに向かって手が伸びている。
阿々紀先輩。痛くて腕伸ばせないです。