第一部5
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「始めまして。」
あまりにも無機質な印象を受けたので、精巧にできた像だと思った。
阿琉斗の目の前には阿々紀という高等部の女学生が立っていた。首だけで返事をしてきたのは、阿琉斗が声を掛けてから少し間があってからだった。
小等部の廊下に別学年の生徒が来ることはさして珍しくない。しかし、この女性は注目の的となっていた。
理由は2つ。1つは、その容姿であった。均整のとれた見た目をしており背が高い。目を合わせるためには眼球運動だけでは足りず、首から見上げる必要があった。そしてその瞳は綺麗な宝石を思わせたが冷たい印象を受けた。
それともう1つ。まるで『愛』を知らない無形物のようで、漂う雰囲気は異常だ。後ろに立ってはいけない、隙を作ってはいけない、と本能で感じさせた。
二人は廊下で向かい合っている。もちろん他の生徒も通る。通ろうとする度に時間が止まる。時間が止まったように誰も動かない。動けない。
動きをとめて、自らに捕食せんとするその人から目を離せずにいる。その恐怖は波及する。
その波を断ち切ったのは阿琉斗だった。
「先輩が僕の附帯保護者ですか?阿琉斗です。よろしくお願いします」
始めは圧されていた阿琉斗はもうすっかり慣れていた。
コクッ、と首を下にやった後「そう。よろしく」と聞こえた。聞こえた気がした。その女性らしい顔立ちが想像させるよりも低い声だったが、透き通った綺麗な声だった。気がした。
その日から気が付けば側にいる生活になった。
阿々紀から受ける印象は、淡白。これに尽きた。
移動先の教室を見つけるのに時間が掛かっていても、顔色を変えず不思議そうに上から見下ろしている。
「あ、あの。この教室って…」
「この先、曲がってすぐ右手の階段で下へ下へ。そこで三番を唱えると扉が開く」
「あ、ありがとうございます」
「うーん」と本を開きながらも解法が分からずにいたときも、
「阿々紀先輩、この問題分かりますか」
「阿喃二変式の基礎公式」
「あ、それか。ありがとうございます」
的確だ。返ってくる答えは非常に的確で、正解なのだ。
しかし、それ以上の厚みが会話では生まれない。
「これはAですか」「そうだ」それが二人の会話の全てだった。
会話とも言えぬこの会話を交える度に、新たな言語を学ぶために開いた教科書の1ページ目を思わせる。
恐らくだが、好きなものや住んでいる場所、家族のことを聞けば返ってくるのだろうが、聞く気になれにない。勇気が出ないとか、相手に気を遣っているとかでは毛頭ない。
だが、どうしても「聞いてよいのだろうか」と思わされる。それはこの無機質な視線が思わせるのか、胸部を動かさず行われる呼吸のせいなのか。
「疲れた」ご飯中にそう漏らしてしまった。
「勉強難しくなってきた?」
母さんが優しく尋ねてくる。
心配させてしまった、と思ったので「勉強はバッチリだよ」と言いながら試験の結果を見せる。
「あらすごい」と大げさに目を大きくする。
俺は母さんのこういうところが好きだ。分かりやすい。だから、もっと頑張れる。母さんは俺を俺として見てくれて、誰かと比べることはしない。だから窮屈にならずに済む。
彼女もそうだ。誰とも比べやしない。しないが、分かりやすくはない。阿々紀先輩と母さんは違う。全然違う。
「父さんはまだ仕事?最近忙しそうだね。色んな国に行っているし」
夕食を食べながら阿琉斗は母親の背中を見る。また小さくなったか、少し心配になる。母親が罹っているものは凶悪ではない。しかし、元来の身体の弱さが災いして治癒に時間を要している。
陽家の、ひいては宗教の役割の一つに『傷の治癒』がある。それは身体上に現れる外傷や体調不良に加え、心的な病気の治療もある。
心的な病気が現れる人間は働き者が多い。学業の合間を縫って『言葉のお預け』に参加している阿琉斗は、その傷を負った人たちに会うことが何度かあった。出会った者は皆、責任感が強く、他者に頼る意識が薄かった。
阿琉斗はそのような人間に会う度に「他人の私ではなく、仲間である身内や医者に相談するほうが適当ではないのか」と考えていた。
しかし、この考えは近頃揺らぎ始めていた。その揺らぎの一端となったのが、あの暴力事件の夜だった。自身の母にさえ腹の虫の居所を伝えない同級生がいた。
このことを目の当たりにしたとき、阿琉斗は、理解こそ難しかったが人間という生き物の実感を得た。
そしてこの実感は、生死に絡み、最期に理解へ至ることとなる。
その日は学校もなく、町の方まで来ていた。
町で歩く男女二人。
「どこか寄りたいところあります?」
「特には」
「そう、ですか」
阿琉斗の隣には阿々紀がいた。町に下りて最初に会った知り合いと遊ぼうとしていたのだが、下ってすぐのベンチに阿々紀が腰掛けていた。
?
??
???
なんで。なんでいるのここに。
そしてなんで。
「阿々紀先輩?こんにちは。大丈夫ですか?」
腕から血出してるの?
身長だけでみると姉と弟が町に遊びに来ているように見える。弟は明らか困った顔をして斜めに地面を見つめながら歩いている。姉の方はただ無表情に、「歩き回れ」と命令された機械のように歩行に目的が感じられない。
そして尚且つ、阿琉斗が処置した包帯が、その少女の属性を過多にしている。
阿琉斗は注目されるのは好きではなかった。クラスの中でも目立ちたくないから自分の身長が気に入っていたし、自己の所有物をひけらかさない陽家のことも気に入っていた。
だからこそゲンジに目を付けられたことは気にかかるし、こうやって町の人達の視線を一同に浴びてしまっている現状に耳を熱くした。
「せ、先輩。あのお菓子屋さんでお茶でもしませんか」
「分かった」返事のときは目を合わせる。阿々紀の人間味を感じる行動は少ない。
入ったお菓子屋さんは、初めての場所ではなかったが妙に落ち着かなかった。店主のはからいで奥の個室に案内してもらった。
「先輩、腕大丈夫ですか?どこで怪我したんですか、それ」
「すまない、覚えていないんだ」
「お、覚えてないんですね」
本当なのだろうか。
「驚きましたよ。家の前で先輩が血流しているもんだから」
「阿々紀」
「え?」
頼んだお茶とお菓子が運ばれた。店主の動きは非常に滑らかだった。
「阿々紀でいい。私が君の隣にいるのは、ただの仕事なんだ」
これまでは返答以外の情報を含まない阿々紀の言葉に、初めて『依頼』が現れた。
「あ、じゃあ阿々紀先輩って呼ばさせてもらいます。いつもお世話になってますし、ぼくにとっては立派な先輩です」
「そうか。好きにしていい」
と頷き注文したお茶の御椀を両手で大事そうに口元に運ぶ。
阿琉斗にとっては初めての感覚で初めての光景だった。阿々紀の容姿の整い様をここで初めて自覚した。
「ありがとう」
「えっ」
心のざわつきの在り処を探していた阿琉斗は、突然の謝辞を受け止め損ねる。
これ、といって包帯の巻かれた左腕を阿琉斗の方にやる。
「あ、いえいえ。お気になさらず。簡単な処置で申し訳ないです」
阿琉斗もお茶を啜る。甘みの後に苦みが少し舌の上に残る。これを上塗りするようにもう一口啜る。そのうち苦みが心地よくなり、この瞬間にお菓子との相性は抜群になる。
「阿々紀先輩ってここらへんに住んでいるんですか?」
会話を続けようと質問をぶつける。
「いや、テンマンの寮だ」
「寮…。あぁ、女子寮もありましたもんね。住心地はどうですか?中等部になったら僕も入るので色々教えてくださいよ」
「住心地か…。今はいいぞ」
「今は?」
「あぁ。前では女子寮にいたのだが、今は集団寮だ」
「集団寮に?集団寮って名前こそあれ、男子しかいませんよ。なのにどうして」
「居心地が悪かったんだ。単純な理由だ」
確かに明快だ。非常に明快だ。ただこの人に快不快の感情があり、加えてそれを他者に表現するという過去があった事実に驚愕する。
「自分から届け出たんですか」
「いや、移された」
「移された?」
「あぁ。怒られたんだ」
「え」
怒られた?
「女子寮は目に見えない身分のようなものがあったらしく、日に日に上級生からの距離が近くなっていった。生活に支障が出てきたので止めるように言ったのだが、断られたんだ」
「そうだったんですね。それで怒られますか」
「ちょっと殴った」
え、殴った?
その疑問は心に留めきれていなかったようで、「そうだ」と返事があった。
明快だ。非常に明快だ。ただこの人に、不快感の払拭のために自主的に行動する力があり、加えてそれが叶わぬなら武力行使に出るのだという暴れん坊加減に驚愕する。
「よ、よく退学になりませんでしたね」
「まぁ、ちょっと殴っただけだから」
怖い。ただ怖い。昨日よりも今日。今朝よりも今。阿々紀という存在の形がハッキリしてくる。
だがその度に人間の形が崩れていく。矛盾しているが、両立している。その事実が怖い。
話題を変えよう。命が惜しい。
「阿々紀先輩、お菓子好きなんですか。すごく美味しそうに食べますよね」
間があいた。阿々紀の時が止まった。両手で持ったお菓子は、口に入る寸前で止まっている。
「阿々紀先輩?」
阿々紀の耳はほんのり赤みを帯びて、丸い目は一点を見つめている。
まずいことを聞いたか、と思った。殺されるか、とも。
「あぁ」と短い返答があったことで阿琉斗は安心する。
「美味しいですよね、これ。このお店はどうですか。雰囲気も落ち着いていて、町に来たら必ず寄るんですよ」
今は落ち着けないけど。
「良いところ、だと思う」
これは気に入ってもらえたのだろうか、とやはりキレの悪い意思疎通となるが、もう諦める。
阿々紀先輩は掴みどころのない人だが魅力的である。
何度か二人の間で会話がなされたが返答はやはり淡白だ。しかし血は流れている。感情もあるし、好きなものもある。それだけで人間は友達になれる。
そう学校で習った。ヒヨからも小さい頃に聞いた。
「出ましょうか」
店に入るときと比べて隣の人間の気持ちが分かるようになっていた。目的のない歩行は阿琉斗が見れば、何を得ようとしているのか、理解できるようになった。
自分の中に阿々紀の項目が出来たように、不動の鉄面皮の中にも『阿琉斗』という項目が追加されればいいな、と少し思った。
「阿々紀先輩は甘いものお好きなんですか」
「好きって。『好き』って言って良いものなのだろうか」
「と、言いますと」
「好きなものは、その音転じて『隙』になりえないか」
思わず笑った。腹を抱えて笑った。
俺はこの人が好きだ。面白い。
「せ、先輩。いつまで敵意むき出しなんですか」
それに。
「好きなものはしっかりと言葉にすると、自然と寄ってくるようになるんですよ」
「そうなのか」
「そうですよ。お菓子の家が建っちゃうかもしれませんね」
「からかうな。そんな家、あるわけないだろう」
「作りましょうか」
「いらない」
二人のペースが、形こそ違えど、重なった空間がそこにはあった。