第一部2
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「阿琉斗。今日から学校よ」
子どもの成長などというのは私からするとあっというまの出来事で。
阿琉斗は立ち方を覚え、人の顔と声を覚え、言葉を覚え、知識をつける年齢となった。
ふぁ~い、と頭を搔き、臍を服の中にしまって寝床から体を起こす。
阿琉斗はこの国で信仰されている宗教の教主となっていた。
実治は父のヒヨが行っているが、それでも彼のまだ幼く小さな背中には、国民の9割分の重みがのしかかる。母親に急かされながらご飯を食べている彼にはおそらくまだわからないだろう。
「学校、楽しみ?」と母親は阿琉斗に尋ねる。んー、と間延びした声の後、「わかんない」と阿琉斗は答えた。ただその声からはどこか興奮が伺えた。
「まだ行ったこともないし、今まで友達と遊んでいただけだし、よく分かんない。でも新しいことが始まる日って、なんだか優しい」
「優しい?」
「うん。空気とか、太陽の光とかが祝ってくれている気がするんだ」
その言葉を聞いて母親は嬉しそうに微笑んだ。さぁ、と母親は立ち上がり食器を片付ける。身分があるので家事は代行してもらうこともできるのだが、この母親は自分で手を動かすと決めた。それが母親としての愛だと考えていた。
その愛を一身に受け、阿琉斗は見送られる。靴を履き、戸を開ける。
「いってきまぁす」
扉の外はあの時のように桃色の花が咲き散らしていた。
散った花弁は街に続く道を桃に染める。千段ほどある無機質な石階段を鮮やかに彩る。
門出を祝うように、扉を開けた阿琉斗の体を暖かい風が撫でる。運ばれる匂いまで心地よく感じた。
「よし。行くか」
阿琉斗は意気込み、階段を下っていった。
ただ長く、退屈に感じたこの道も今日はちがって見えた。
街に下ることは多くないが、それでも街は賑やかで楽しい印象がある。普段は食べられないような甘い菓子に、肉や野菜を雑多に煮込んだ水炊きも、ここでの体験は全て格別だった。
「おはよーおばちゃん」
「おはよう、坊や。今日から学校だねぇ。あ、そうだ。これ持っていきな」
いつも友だちと行く菓子屋の店主から入学祝のお菓子をもらう。
「おっちゃんおはよー」
「おー、おはようさん。気をつけて行くんだぞー」
賭博場とここの長椅子以外で見かけないおじさんにも挨拶をする。おじさんはこの国の不思議な伝説を話してくれるから好きだった。ちょっぴり口が臭かった。
街を抜け、緑が増えてくる。
「にしても遠い…」
阿琉斗は入学先の『テンマン大社学術陽政舘』に向かう。
校舎自体は見えている。だがその大きさに距離を捉えそこねていた。
テンマンは、国土の4分の1程を占める膨大な敷地を有しており、言わずもがな陽家の所有物である。ここでは基本的な学術知識や共同生活による社会性を身に着け、自身の適所を探求する。敷地の広さに対し、生徒の数は以外にも平均的である。
入学の方法は、学校からの招待、入学者・関係者からの推薦、一般試験の通過の三通り用意されている。それらを通過したであろう親子が阿琉斗と同じ方向に歩いているのが。
人の賑やかさと草の匂いが阿琉斗を包む。学校まではそれなりにかかる。陽家は山の上にあり、学校は郊外の森の中にある。自然から自然。
阿琉斗は自然が好きだった。陰家の友達と庭で虫取りもしたこともある。「このハサミ付いた虫かっけー!。」とよく捕まえていた。捕まえた動物を観察し「ありがとう。じゃあねー」といって逃がす遊びをしていた。陰家のあの子にも「優しくな。」といって扱い方を教えていた。
空を見るのも好きだった。流れる雲を見ると時間を忘れられてなだらかな気持ちでいられた。
今日の空も、とても綺麗だ。
「今日もいい天気だなー阿琉斗」
隣にいたヒヨが声をかけてきた。並んで歩いていたはずの阿琉斗がうわっ、と声をあげた。そういえば居たんだった。どこまで影が薄いんだ。と思ったに違いない。
「阿琉斗。今、父さんの影薄いなーって思っただろ」
正解だ。
「心配するな。影は薄くても、父さんは不死身だ!」と繋がりのない軽口を叩く。
そんなに元気良く言われても。
入学式の付き添いとしてヒヨは来ていた。不死身と暇さえあれば自称しているが、目の下には薄っすらと隈が見え健康そうには見えない。使用人に借りたであろう化粧品を厚塗りして誤魔化しているせいで余計に目立っている。
だがそれ以上に普段着ないようなその装いに私は目を奪われる。服に着られる、とは先人もよく言ったものだ。
「阿琉斗は学校楽しみか」
母親と同じ質問を父は口にする。おそらく入学までに何度も尋ねられ、入学してからは「学校楽しい?」と文脈を変えて聞かれるのだろう。初めのうちは周りからの言葉で自分の属性を自覚し始め、優越感を味わう。だがそのうち纏わりつく感覚で返答が億劫になる。
「そこそこねー」淡白に答える。
「友達はできそうか」
「分かんない。結局は人との関わりだからね。こっちが好きでいても、あっちは嫌いかもしれない。」
「阿琉斗は随分と大人っぽいなぁ。父さんよりも大人なんじゃないか」
「なにいってんの」
「父さんはずっと子どものままだ。いつまでも自分のやりたいことをやるし、わがままも言う」
「確かに。今日も無理言って付いてきてるもんね」
「あぁ、そうだな」
なぁ阿琉斗。ヒヨは足を止め自分の息子に向き直る。
「先生の言うことはちゃんと聞くんだぞ」
「わかってるよ」
「偉いな」ヒヨは続ける。
「強くなって、母さんを安心させるんだ」
分かってる。さっきよりも少し自信が無い返答を、阿琉斗はする。
阿琉斗の母は、いつも気丈で朗らかだった。しかし確固たる芯をも持った、そんな女性だった。小さい頃からあまり体が丈夫な方ではなく病で床に伏すこともあったが、子どもたちの前では笑顔を絶やすことはなかった。ヒヨとの関係も良好で、最後は母が言い負かし収束するのがこの家の喧嘩だった。
彼女は可憐で美しい。ヒヨはこの女性を見舞い陽家に入った。子どもが出来ず、次期教主の継承位置を迷っていた陽家にとっては好都合であった。先代の教主は他所からきた人間に役職を渡す気はなかったが、自身の血が流れる孫になら、とやっと首を縦に振った。
「頼んだぞー!」と語調を再び崩した父親は、また学校に向かって歩き出した。
この父、ヒヨは掴みどころのない人だ。言葉は多い方で比較的社交的だが、突拍子もないことをする。よく「自分は不死身だ」とうそぶくが、線が細く、町に行くたび店の人に心配される。その度に阿琉斗は不安感を抱くのだが、なぜか「頼りになる人」と認識している。
ヒヨが創業した製薬会社が今ではこの家の源泉となっているからだろうか。なんでも知っているような、いざとなったときにはこの人を突き出したらなんとかなるのではないか。本当に不死身なのではないか、と阿琉斗は思っていた。
テンマンに着いた。
『大きい』。それが初めて見た感想だった。
「端はどこだ…」
自身の開いたままの口に、溢れそうな目に、耳の裏から背中にかけて流れる冷や汗に気づくまで時間を要した。眼前に広がる建物は、自分が知らない未知の陸地全てを埋め尽くしているのではないかと恐ろしくなった。
テンマンは校舎・体育館といった一般校と同様の設備を兼ね備えている。そこに加えて巨大な円柱形の寮があり、こちらから逆側に小国と化している演習地がある。
入学したての小等部は校舎と体育館の使用が主となる。学士寮は中等部あるいは遠方で通学が困難な生徒に支給される。
今日からこんな大きい建物を構成する一部になるのか、と少し腹が痛む。今まで緊張する経験が少なかった阿琉斗には、その感覚が新鮮だった。
「やっぱり大きいな」
ヒヨが分かりきったことを言う。
「父さんはここの出身ってわけじゃ無いがここが好きだ。世界には色んな出会いや発見があって楽しいんだ」
実際、ヒヨは毎日色んな人に会いに世界中を周っている。それは治験であったり研究であったり。
ヒヨが一番大事にしているのは「人との出会い」だ。
だからと、ヒヨが言葉を続ける。
「阿琉斗も、良い出会いをな」
ヒヨが分かりきったことを言う。