悪役令嬢と王子
恋愛要素はこの話から含まれます。
公爵令嬢ヴィクトリアに仕えるルーカスには、ある悩み事があった。
正しくは悩みというよりも憂い事だろうか。とにかく、自分にはどうしようもない大いなる存在による心労により、気が落ち着かないことがある。
時折とはいえ、そんな心の晴れない思いに駆られるルーカスは、それもまた仕事だと今日も心を割り切るのだった。
ルーカスは幼い頃にペンフォード公爵家のヴィクトリアに拾われた身だった。以来その恩を返すべく、ヴィクトリア専属の従者として仕えている。
ヴィクトリア・ペンフォードといえば、ペンフォード公爵家の一人娘だ。アダマンド王国の王家に近しい公爵家の娘ともなれば、王子の婚約者として何よりも優先される候補。当然王家もその道を視野に入れ公爵家と交流を図ってきた。
それに嫁入りの件がなくとも、現公爵家当主でありヴィクトリアの父は国の要職にも就いている。切っても切り離せない関係というのは比喩ではなかった。
「今日は風も心地よくていい気候だね。ね、ヴィクトリア」
「そうですわね、殿下」
……だからこうして、時折王子アーネストとヴィクトリアがお茶会を開いているのも、至極当然のことなのである。
——アーネスト・クローク。
柔らかなかんばせでヴィクトリアに微笑みかける彼は、アダマンド王国の第一王子で……ヴィクトリア曰く、例のゲームにおけるヒロインの攻略対象、それも筆頭である。
ヴィクトリアから以前より幾度となく言い聞かせられてきた未来の記憶。それによるならば、彼はヴィクトリアの悪行をきっかけにヒロインとの絆を深めていく。幼少期より政治や家絡みで付き合いのある二人だが、そんな事態に陥っては関係の修復は難しかっただろう。
しかし今の二人を見てみれば、すでに婚約者候補の枠を飛び越え、まるで王子妃の立場が確定しているかのように見える。主要な夜会やパーティーではアーネストがヴィクトリアをエスコートし、逆にパートナーを要する場ではアーネストの隣をヴィクトリアが務めているのだ。
野心のある令嬢や令息以外は、すでに二人の仲を認めて将来を思い描いている者も少なくはない。
それに……。
「そういえば……。この間の試験結果、流石の成績だったね。ヴィクトリア」
「っ……お褒めに与り、光栄ですわ」
ヴィクトリアは、常であれば気丈で高潔な公爵令嬢だ。
それだというのに、アーネスト個人に労いや賞賛の言葉をかけられると途端に表情を柔らかくする。ルーカスに泣きつく以外は完璧な令嬢の顔を崩さないヴィクトリアは、この時ばかりは恋する乙女のように頬を紅潮させる。
『好きなんですか? アーネスト殿下のこと』
以前ヴィクトリアに直球で聞いてみた際には、椅子からひっくり返ってついでに肘を打って全治一週間の怪我を負っていた。その騒動によりヴィクトリア自身からの返答は聞けなかったが、なんにせよ、答えは明白だ。
しかし。
『……アーネスト殿下はいずれヒロインと結ばれるの』
ヴィクトリアから聞く未来の記憶では、アーネストはヴィクトリア以外と結ばれる。再三未来の記憶とその重要性について聞かされてきたルーカスは、その言葉とヴィクトリアのアーネストへの態度を脳裏に並べ、主人の心を察したのだった。
しかしここで話を戻そう。
ルーカスには、ある悩み事があった。
「今度の休日にどうかな? 人気の観劇のチケットが取れたんだ」
「いえ、殿下。前回も誘っていただきましたし悪いですわ。殿下と殿下のご友人の親交の機会を奪っているようで心苦しいのです」
(……セルマ嬢のことを言っているのだろうな)
すかさず断りの返事をしたヴィクトリアに、ルーカスは内心で察する。しかしアーネストは断りも心配も気にした様子なく続けた。
「そう言わずに。ヴィクトリアも気になると話していたあの役者が主演みたいなんだ」
「え? そういえば、以前お話ししたかしら。……殿下は少しの話題も覚えていてくださるから、話していて嬉しくなりますわね」
「そうかい? ヴィクトリアに言われると嬉しいものだね」
いやヴィクトリア様、それ多分、結構限定的ですよ。
そうルーカスは即座にツッコみを入れるも、まさか主人達のお茶会に割って入るわけにもいかない。何とか呑み込んだ言葉を腹の底にしまい込んで、ルーカスはヴィクトリアに褒められ気分が良さそうなアーネストの表情を窺った。
普段から笑みを絶やさない王子だが、ヴィクトリアに長年仕えアーネストの姿を見守ることが多かったルーカスは思う。……いや、半ば確信している。
――そう、この王子。
この人好きする微笑みの王子は、ヴィクトリアのことを個人的に好いている。
もともと物腰穏やかな人物ではあるが、はたから見ていてヴィクトリアへは態度も声も極端に甘い。その証拠に、そよ風にかき消されるくらいの声量でアーネストがそっと呟く。
「……ヴィーは今日も可愛いね」
「え? アーネスト様、何かおっしゃいまして?」
「ううん、なんでもないんだ」
木々がざわめく音で聞き取れなかったヴィクトリアとは違い、風下にいたルーカスにはバッチリ聞こえていた。もうおわかりだろう。
アーネストはヴィクトリアを嫌ってなどいない。
むしろ溺愛しているのである。
他に目移りすることはもちろんのこと。
これから嫌う片鱗すら、一切見えないのである。
——ゲームで語られていた断罪など、全くの論外なのである!
(でもお嬢様にそれを進言しても信じないしなあ……)
以前、感じた違和感をもとにヴィクトリアに王子の反応を伝えてみたが……「そんなわけないわ。彼は私のことを嫌うはず」と聞く耳を持たなかった。
あれだけアーネストへの想いが明らかな癖に、ヴィクトリアはアーネストから己へのベクトルを一切期待していないどころか、その逆を確信しているようなのだ。
未来の記憶への恐怖なのか、すでに割り切っているつもりなのかはわからない。
しかし頑なに可能性を認めないヴィクトリアに、ルーカスはそれ以上言葉を重ねるのをやめた。頭から否定しにかかっている人間の意見を変えることは、敷石を小指で動かすよりも難しい。
(ままならない)
そう思わず内心ため息をついていると、ふとアーネストと視線がかち合った。ぱち、と音がしたと思うほど正面から顔を見合わせる。
王族の顔を正面から見つめるなど本来なら不敬にあたるのだが、目が合って早々に意味深に微笑んだ王子に、ルーカスも黙って微笑む。アーネストからは敵意を感じないものの、何か背筋が伸びるような心地だった。これが王族の威厳なのか威圧なのかは判断がつかない。
黙して微笑んだのはあれだ。
どんな意図だとしても、あなたには逆らいませんよの意思表示だった。
(……まあ、ヴィクトリア様が破滅するわけじゃないなら、これはこれでいいだろう)
主人であるヴィクトリアの目的は、自分と家族が破滅しないこと。王子の手によりその状況に陥る可能性は今のところ見られないし、むしろ何かあっても王子は主人の味方をするだろう。
それに以前にもヴィクトリアへ報告と進言はしてあるのだから、職務怠慢にはあたらないはずだ。——うんよし、放っておこう。
そう判断したルーカスは、「おそらきれい」と雲ひとつない頭上を見上げ黄昏れた。
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