77.希望の季節
朝食を食べ終えたアルゴは、エマと共に森の中にいた。
周囲に魔物の気配はない。ここは魔物が近寄らない安全地帯だ。
エマは棒切れを正眼に構えて声を張り上げた。
「アルゴ! いくわよ!」
エマは素早く動いた。
アルゴに接近し、棒切れを振り下ろす。
棒切れが空を切った。
空振り。アルゴには当たらない。
「くッ!」
エマは棒切れを振り続ける。
しかし、アルゴにはかすりもしない。
「なんで! なんで当たらないのよ!?」
エマは怒りを抑えきれず喚きだした。
「エマ……」
エマはアルゴが困ったような表情を浮かべていることに気付いた。
そのアルゴの様子を見て、いくらか冷静さを取り戻す。
「ご、ごめんアルゴ。わたし、戦いのこととなるとつい……」
「う、うん。大丈夫」
「ねえ、わたしのどこが駄目?」
真剣な様子で問い掛けるエマ。
アルゴは返答を躊躇う。
どこが駄目と言われても、簡単には答えられない。
俺の戦い方は我流だし、理屈や理論など分からない。
俺自身、誰かから戦い方を教わったわけではない。
だから、技術を言葉にして伝えることができない。
「うーん」
「お願い、教えて!」
「そうだな。あえて言うなら、素直すぎる……かな?」
「素直すぎる?」
「うん、分かり易すぎるとも言うのかな? なんというか、動きが読み易すぎるんだよね。だから簡単に避けられる」
「なるほど。じゃあ具体的にはどうすればいいの?」
「相手を騙せばいいよ。例えば、視線を利用して……」
そう言いながら、アルゴは棒切れを構えてエマを見据える。
アルゴの視線はエマの首のあたりに向けられている。
エマは反射的に棒切れを構えた。
鳥肌が立った。
アルゴから放たれる殺気。
エマの脳内に警鐘が鳴り響いた。
アルゴは一歩前に踏み出す。
棒切れの先をエマの首に突き入れた。
「―――きゃッ!」
エマの首もとに棒が刺さった。
痛みと衝撃。心臓が飛び跳ね、思わず尻餅をついてしまった。
「び、びっくりした……って、あれ?」
エマは気付いた。
アルゴは殆ど動いていなかった。
冷静になって考えてみる。痛みはない。
首に棒が刺さってなどいない。すべて錯覚だ。
「す、すごい……今の、どうやったの?」
「今のは、視線とか筋肉の動きとかでエマを勘違いさせたんだ。俺は実際には一歩しか動いていないけど、上手くやればこんな感じで相手を騙せる。まあ、相手が強ければこんなに上手くはいかないけど……」
「ア、アルゴ!」
「は、はい」
「是非、師匠と呼ばせて!」
「え?」
「師匠! どうかわたしに剣を教えてください!」
「い、いや、他人に教えるとか俺には無理だって……」
「無理じゃない! 今みたいな感じで教えてくれればいいの!」
「無理無理。これ以上は無理」
「そこを何とか!」
「お、俺なんかより、シュラさんに頼めばいいんじゃ?」
「ダメダメ。爺ちゃん教えてくれないんだもん」
「え、そうなの?」
「うん。女が強くなる必要はない、とか言うんだもん」
そういう教育方針なら、尚更教えられないな。
「やっぱり無理だよ」
「お願いします! 師匠!」
エマはアルゴの腰回りに抱き着き懇願する。
「エ、エマ!?」
「どうか、師匠!」
まいったな……。
思えば、これほど純粋で真っ直ぐに頼み事をされるのは初めての経験かもしれない。
「エマ、あのさ、俺に技を教えることはできないよ。あー、だけどさ、こうやって付き合うぐらいなら……いつでも」
「あ、ありがとうございます! 師匠!」
「その師匠っていうのはやめてくれ……」
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集落で暮らし始めて数日が経過した。
アルゴは村の生活に適応していた。
まず朝早く起き、ルイサの朝食の準備を手伝う。
朝食を食べ終わったあとはエマの修行に付き合い、それから集落の男たちと共に森に食料を確保しにいく。
森で動物を狩ったり、果実や食べられる草花を摘み取ったりなど、アルゴは教えられたことを精一杯やった。
そのお陰か、集落の者たちは徐々にアルゴのことを認めていった。
夕方になると、朝と同様にルイサの夕食の準備を手伝う。
エマが家に帰ってくる気配がなければ、エマを探しにいく。
一家全員で夕食を食べ終えると、ようやく少し落ち着ける。
一家の話に耳を傾けながら、少しだけ体を休める。
だが、それも束の間。
夕食後は湖の傍で瞑想を行う。
何かを掴みかけている気配はあるが、未だ明鏡止水の境地には至っていない。
適当なところで瞑想を切り上げ、自分の部屋に戻る。
横になるとすぐに眠気に襲われ、そのまま朝に。
「アルゴ、アルゴってば」
体を揺さぶられる感覚と、少女の声が聞こえた。
「ん?」
目を開けると、薄い橙色の髪をした活発そうな少女の姿が目に入った。
「……エマ? どうしたの?」
「どうしたの? じゃないよ! もう朝! 朝ごはんだよ!」
「え!?」
アルゴは跳び起きた。
しまった。寝坊してしまったようだ。
「ウフフッ、アルゴってばすごい寝癖」
エマは笑いながらアルゴの寝癖を指先で弄っている。
楽しそうなエマと打って変わって、アルゴは憂鬱だった。
朝食の手伝いをすっぽかしてしまった。
ルイサに謝らないと。
そう考えながら一階に下りた。
「あら、アルゴくん、よく眠れたかしら?」
ルイサは笑顔だった。
一瞬だけ嫌味を言われたのかと思ったが、そんなはずはない。
ルイサの優しい笑顔に、アルゴの心は包まれた。
「お、俺……」
「気にしなくていいのよ。さあ、座って。食べましょう」
促されるままアルゴは席についた。
謝罪も弁明も言えなかった。
全員が席につき、食材に祈りを捧げた。
祈り終えると、エマが真っ先に獣肉にありついた。
「エマ! 行儀悪いわよ!」
「ハハハッ、エマは朝から元気だな」
「エマ、元気がいいのは結構だがよお、よく噛んで食べるんだぞ」
いつもと同じく、賑やかな食卓だった。
アルゴはその様子を眺めていた。
アルゴの様子に気付いたヴァンは言う。
「アルゴくん、どうしたんだい? 食べないのかい?」
「あ……はい。頂きます」
アルゴは遅れて獣肉を口に運んだ。
噛み応えのある肉だった。
味は薄い。絶品、とは言えないのかもしれない。
だが、旨かった。
「旨い……」
思わずそうこぼし、それと同時に気付いた。
ポタポタと水滴が机の上に落ちた。
「あれ? なんで……」
何故、涙が流れる。
「え、ちょっとアルゴ、なんで泣いてるの!?」
エマが慌てたように声を上げた。
「う、うん……なんでだろう?」
「大丈夫かい? どこか痛むのかい?」
「い、いえ……大丈夫です」
ルイサは立ち上がってアルゴの背中を擦った。
「大丈夫よ、大丈夫だから」
ルイサは何かを察したようにアルゴに優しく声を掛けた。
アルゴはまだ子供。
故郷のことを懐かしくなり、寂しくなったのだ。
とルイサはそう思っていた。
だが、真実はそうではなかった。
アルゴは、ルイサに恨み言の一つでも言われるのかと思っていた。
朝食の準備をすっぽかしたことを責められると思っていたのだ。
優しいルイサがそんなことを言うはずがないのに、そう思っていた。
それはきっと、長い奴隷生活による弊害だ。
これが奴隷だったのなら、問答無用で鞭打ちの罰が与えられていただろう。
だが、もう奴隷ではない。
あの冷たく絶望の季節は終わった。
絶望は終わり、暖かく希望の季節に変わった。
そうだった。ようやく気付いた。
俺はもう……とっくに。
「ルイサさん、朝食手伝えなくてすみませんでした……」
「そんなことを気にしていたの? もう、気にしなくていいって言ったじゃない」
「はい、ありがとう……ございます」
感謝を伝えながら思った。
これほど心穏やかな日々は、いつぶりだろうか。




