3.契約
森の奥に、石垣が積み上げられた遺跡があった。
遺跡の内部には地下へと続く階段。
その階段を降り、ダンジョンに踏み入った。
ダンジョンと聞いてアルゴが予想していたのは、岩に囲まれた洞窟。
しかし、その実態はまったくの別物だった。
大森林。
そう表現しても何らおかしくない光景が、目の前に広がっていた。
これが……地下?
ここが地下であるとは、到底思えなかった。
地面には花が咲き誇り、巨大な樹木が乱立している。
おまけに明るい。
天井は確かにある。日の光はここには届かない。
だが、空気中に漂う光の粒子が、この空間を照らしている。
「すごい……」
思わず声が漏れてしまった。
これこそが、この世界の神秘か。
そんな風に感激するアルゴだったが、冒険者二人は特に驚いた風でもなく足を進めている。
どうやら、それなりに慣れているようだ。
その時、二人の冒険者の足がピタリと止まった。
アルゴは不思議に思い、少し横に動いて前方を確認する。
前方には一羽の兎がいた。
黄緑の毛皮で、額から鋭いツノが生えている。
「出やがったな」
そう言ってジョセフは腰から剣を抜いた。
両刃の直剣が、銀色に輝きながら鞘から放たれる。
ジョセフは剣を構えながら、縄をハンクに投げた。
「ハンク、こいつは俺がやる。奴隷を頼む」
「おう」
ハンクは返事をして縄を受け取った。
ジョセフと兎の魔物は、お互いを敵だと定めた。
そして、兎の魔物が先に動いた。
兎の脚力で飛び跳ね、ジョセフに向かってツノを突き出した。
「おっと」
ジョセフは冷静に対処した。
足を動かしてツノを躱し、兎を見失わないように目で追い続ける。
それを三回繰り返し、ようやくジョセフは剣を振った。
兎の突進を躱した直後、刃を兎の側部に走らせる。
赤い血液が飛び散り、兎は小さな鳴き声を上げて地面を転がる。
兎は地面に倒れ込み、痙攣を始めたかと思いきや、その後動かなくなった。
「へッ、どうよ!」
ジョセフは自慢気な表情でハンクに顔を向けた。
「たかが兎に、随分と時間をかけるものだな」
聞き慣れない声だった。
その声は、ジョセフでもハンクでもアルゴでもなかった。
その三人でなければ該当者は一人しかいない。
その声は魔族の少女の声だった。
幼い外見に似合わず、大人びた口調だった。
場が静まり返る。
しばらくしてジョセフがポツリと言った。
「おいガキ。何か言ったか?」
魔族の少女は口角を吊り上げた。
「聞こえなかったか? いいだろう、もう一度言ってやる。お前は雑魚だ。そう言ったんだ」
魔族の少女は堂々と宣言した。
アルゴは目を見開き、魔族の少女を凝視した。
何を言っているんだ? そんなことを言ってしまえば、ジョセフは怒り狂うに決まっている。
この場でジョセフを挑発する理由はなんだ?
殺されたいのか?
アルゴの予想通り、ジョセフは怒りの声を上げた。
「ガキが。死にてえらしいな。いいだろう、お望み通り殺してやる!」
「おい、ジョセフ」
「止めるなハンク。流石に今のは見過ごせねえ」
ハンクは首を横に振るだけで、それ以上ジョセフを諫めることを諦めたようだった。
剣を構えながら魔族の少女に近付くジョセフ。
アルゴは必死に考えを巡らせた。
どうする? このまま何もせず見過ごすか?
ジョセフを止めたいが、そうなれば今度こそ命を懸けなければならない。
アルゴが逡巡している間に、ジョセフは剣を振り上げた。
もう間もなく、魔族の少女の命が絶たれようとしていた。
しかし、その時、予想外の出来事が起こった。
「かッ……」
ジョセフが突然、白目を剝き倒れたのだ。
うつ伏せに倒れ、口から泡を吹いている。
「なっ! おい、どうした!」
ハンクはジョセフに駆け寄り、ジョセフの肩を揺する。
ジョセフがそれに反応することはない。
その時、ハンクの背後で衝撃が発生した。
樹木の上から、ソレは飛び降りた。
ソレは巨大な蜘蛛だった。
成人男性の二倍はあろうかという程の体躯で、真っ赤な複眼に鋭い牙。
赤と黄色の模様が背中に浮かんでいる。
アルゴは理解した。
おそらく、この蜘蛛が何かしたんだ。
ジョセフのうなじ辺りが紫に変色している。
もしかすると、毒針のようなものを放ったのかもしれない。
「嘘だろ……ニードルスパイダーだと……」
ハンクがそう呟いた。どうやらこの蜘蛛の魔物は、ニードルスパイダーと呼ばれているらしい。
「逃げるぞ!」
突然、魔族の少女が声を張り上げた。
ニードルスパイダーの登場で動揺したハンクは、握力を弱めてしまった。
縄がハンクの掌からこぼれる。
それと同時に、魔族の少女は走り出した。
アルゴも走り出した。
このまま固まっていては駄目だ。
逃げなければ死ぬ。
アルゴは損傷した右脚を引きずりながら必死に駆ける。
「てめえら! ちっ、クソが!」
ハンクが罵声を吐いて、怒りを露わにした。
しかし、ハンクも分かっている。
この蜘蛛の魔物は、兎の魔物のように弱くない。
一対一では勝ち目がない。
ハンクも走り出した。蜘蛛の魔物はジョセフの体を貪っている。
今ならば逃げ出せる。
ダンジョン探索はこれで中止だ。
せっかく奴隷という囮を連れて来たというのに、仲間が囮になってしまった。
アルゴの走る速度は、当然ながら三人の中で最も遅い。
アルゴは二人の姿を見失った。
それでも、片足を引きずりながら走り続けた。
恐怖心がアルゴを突き動かした。
だが、この右脚ではすぐに限界を迎える。
足がもつれ、アルゴは地面に倒れた。
「うっ……」
口の中に土が入ってしまい、唾を吐き出した。
顔をしかめ、上体を起こす。
アルゴが危機に気付いたのは、本当に偶然だった。
状態を起こす際、たまたま樹木の天辺付近が目に入った。
その天辺付近に、蜘蛛の魔物がいた。
蜘蛛の魔物の頭部から鋭く光る針が生えていた。
「やばい!」
アルゴは咄嗟に真横に飛び跳ねた。
その直後、先程までアルゴがいた地点に鋭い針が突き刺さった。
おそらくこれが、ニードルスパイダーの毒針。
アルゴは奇跡的に毒針を躱すことに成功した。
だが、危機が去ったわけではない。
ニードルスパイダーが樹木から飛び降りた。
衝撃と共に、地面に着地。
眼前にはニードルスパイダー。
アルゴは動けなかった。
右脚が動かない。しかし、動かないのは右脚だけではなかった。
体が震えている。
その震えの根源は恐怖心。
無機質な複眼がアルゴを捉えている。
このあと、自分は確実に死ぬ。
その恐怖心がアルゴを萎縮させた。
そして、ニードルスパイダーが動き出した。
牙を剥き出しにして、アルゴに接近。
アルゴが死を覚悟したその時、少女の声が聞こえた。
「フレイムボール!」
炎の球体がニードルスパイダーの側部に着弾。
炎の球体が弾け、ニードルスパイダーの体を燃やした。
ニードルスパイダーは体に纏わりつく炎を消化しようと、地面を転げ回っている。
「今のうちに逃げるぞ!」
アルゴは腕を掴まれた。
アルゴの腕を掴んだのは、魔族の少女だった。
アルゴは立ち上がって走り出した。
そして走りながら、魔族の少女に問う。
「ど、どうして!?」
どうして俺を助けたのか。アルゴはそう尋ねたつもりだった。
魔族の少女はチラッと振り返り、アルゴに言う。
「少年、お前には借りがあるからな」
借り?
アルゴは疑問に思ったがすぐに理解する。
きっと森で冒険者の暴力から庇った時のことを、この魔族の少女は言っているのだろう。
アルゴは手を引かれたまま走り続けた。
そして疑問に思う。
何故、走り続けている。さっきの炎の魔術はニードルスパイダーに直撃した。
ならば、ニードルスパイダーは今頃焼け死んでいるのではないだろうか。
だったらもう走る必要はない。
そう思い、アルゴは後ろを覗き見た。
そして後悔した。
見なければよかった。
ニードルスパイダーは生きていた。
全速力で追いかけて来ているではないか。
なんという生命力だ。
驚きと同時に再び恐怖心が湧き上がる。
ニードルスパイダーの速度は速い。その速度は人の常識を凌駕する。
このままでは追いつかれる。
殺される。
アルゴは、思いついたことを魔族の少女に尋ねることにした。
「あ、あの! さっきの魔術、もう一度使えないの!?」
「無理だ。余の魔力量では、一発が限度」
アルゴは絶望した。
だったら、あの魔物から逃れる術はない。
いずれ追いつかれ、食い殺される。
そう思考するアルゴだったが、前方から声が聞こえた。
「少年、時間がない。選んでくれ」
「選ぶ?」
「このまま死ぬか、余と契約するか」
「契約? どういうこと?」
「時間がないと言った。説明している時間はない。選べ」
魔族の少女からの突然の提案。
正直、意味が分からない。
契約? 何のことだ?
怪訝に思いながらもアルゴは考える。
選択肢は実質存在しない。
死ぬか、契約か。契約が何をさすのかは分からないが、その二択ならば契約と答えるしかない。
「契約……する」
「少年、余とて口惜しいのだ。本来ならば、もっと資質のある者と契約したかった。しかし、やむを得ん」
「一体、何を……?」
「いやいい。気にするな」
そう返事したのち、魔族の少女は握っていた短剣を鞘から抜いた。
「そ、その短剣どうしたの!?」
「これはさっき、ハンクとかいう冒険者から盗んだ物だ」
魔族の少女は、刃で自分の手の甲を傷つけた。
手の甲に血が滲みだす。
「な、なにを!?」
「少年も同じことをやれ」
「え……」
戸惑うアルゴに、魔族の少女は語気を強めて言う。
「早く! 死にたくないのだろう!?」
アルゴは渋々ながらもその指示に従った。
訳が分からない。だが、魔族の少女は真剣な様子だ。
とてもふざけているようには思えない。
アルゴは、差し出された短剣で手の甲を傷つけた。
痛みと共に血が流れる。
「飲め!」
そう言って魔族の少女は手の甲を差し出してくる。
血を飲め、ということらしい。
「早く!」
躊躇うアルゴに魔族の少女は怒鳴り声を上げた。
「わ、分かった」
アルゴは従った。
血を啜る。嫌な苦味が舌の上に広がる。
魔族の少女はアルゴが血を飲んだことを確認し、アルゴの手を取ってアルゴの血を啜った。
これで、お互い相手の血を飲んだことになる。
「少年、余の名を言え。そして、契約すると宣言しろ」
「名前?」
「そうだ。余の名はメガラ。メガラ・エウクレイア。さあ、余の名を言え!」
メガラ・エウクレイア。
その名は、大陸で生きる者ならば知らぬ者はいないだろう。
アルテメデス帝国と覇を競ったルタレントゥム魔族連合。
その魔族連合の盟主の名ではないか。
何故その盟主がここに居る? 盟主は死んだと聞いた。
いや、盟主のはずがない。そもそも、盟主がこんな子供であるものか。
同姓同名。ただそれだけだ。
アルゴは息を吸い、言葉を発した。
「俺の名はアルゴ。姓はない。俺は、メガラ・エウクレイアと契約する!」